2010年4月 2日 (金)

「寒冷化による民族移動」「日本列島の人口推移」

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縄文時代、後期から晩期にかけて、

東日本では寒冷化で植生が変わり、栗の林は無くなって行く。

他の木の実も同様である。

しかも人口は非常に多かったため、

非常なる食糧難となる。

そのため栄えていた三内丸山なども突如放棄された。

これは、4200年前頃のことである。

そして人々は温暖な近畿以西に移動して行った。

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縄文前期はクニトコタチさまの時代である。

気候はどんどん暖かくなって行く。

すでに、東日本は温帯落葉樹(ブナ、クリなど)の森に、

西日本は常緑広葉樹(シイ・カシなど)の森に変わっていた。


その境目が、ちょうど琵琶湖のあたりとなっている。


縄文時代までは、この境が大変重要で、

東と西では、基底人種も違い、

またそのような植生から発達した技術や文化も、

微妙に違っていたと言える。


もちろん琵琶湖周辺では、

森の木々に始まり、人種や技術文化が混じり合って行く。

まことに、ヲシテに記されているように、

建国の地に相応しいのではないだろうか。




しかし縄文晩期、さらなる寒冷期に入る。

イサナギ・イサナミから始まり、アマテルカミの時代になって、

国は、さらなる均一化と安定化に向かって、

急速に進んでいく。


水田米作がしっかりと安定するのは、ニニキネ時代以後である。

ここからが弥生時代と言えるのではないかと、

私は考えている。




01:45 午後 参考画像 | | コメント (0)

2010年4月 1日 (木)

縄文時代 海上交易ルート

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11:00 午後 参考画像 | | コメント (0)

2010年2月 5日 (金)

マンモス動物群と渡来ルート

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石器時代の「食料としての馬」の調査結果が、1982年発表された。

上の「マンモスステップの動物群比」と、並べてみると面白い。

馬やバイソンは、トナカイよりも多く生息していたのだ。

また、アジアの西の端、ヨーロッパの玄関であるウクライナ(黒海の北)では、

トナカイと同じくらい馬も食べられているのが判る。


それに対して、東方の冷涼ステップの中心であったマリタ遺跡(バイカル湖のほとり)の分析では、

トナカイが大部分を占め、馬はほとんどといって良いほど食べられていない。

またこの地方の馬は小柄すぎて、肉としての歩留まりが悪い上、

トナカイほどの、巨大な群れも形成していなかった。

そして大変敏捷で賢いために、捕獲するのは容易ではなかったと思われる。

また、何か祭祀的な禁忌のようなものが、あったのであろうか・・・


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このマリタ遺跡からは、氷河期の終わり頃、

多数の集団(バイカル湖人とも呼ばれ、当時の本州の人数の約4倍という試算がある)が、

何回にもわたって大波のように押しよせ、

その人々が我々の祖先(特に東日本人)の基底をなしていく。

よって日本で馬が食料とはされないのも、不思議な話とは思えない。

また特に、トップの右図、赤で書いた文章・・・日本の土壌の特質・・・に注目頂きたい。


次の図はマリタ遺跡の位置である。

人々と共に細石刃石器群が東日本に伝わり、猛烈なスピードで広がったのは、

1万3千年前頃のことである。

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10:52 午後 参考画像 | | コメント (0)

2009年8月20日 (木)

アジアの貫頭衣

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05:36 午後 参考画像 | | コメント (0)

2009年8月19日 (水)

古代ギリシャの衣服の付け方

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  トーガをまとったところ            
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10:54 午前 参考画像 | | コメント (0)