キミのお心に生きた「タジマモリ」
以前のエントリーで、タジマモリさんのことに触れ、
仲哀天皇さまの御世の争いについて書きました。
この場合は、朝廷の権力を半島にも広げ、利を得ようとする皇后派と、
良き日本の伝統の「トの精神」を守ろうとする、(ゆえに)新羅同情派。
・・・まるで乃木将軍のような、タジマモリ派とでもいいましょうか。
おそらく、ご皇室も重臣、豪族たちも、
この2派に分かれ争ったのではないかと、私は思うのですが。
仲哀さまの異母兄弟アシカミカマミ、皇子のカゴサカ、オシクマ両皇子の勅殺。
そして、実は仲哀天皇さままでも、
皇后さまを擁する、新羅侵攻派によって弑殺されたのではないでしょうか。
でも、おそらくタジマモリさんのことを、ご存知ない方も多いと思います。
また上記の時代の前、クニの心の建て直しに心を砕かれた、
11代スヘラギ・イクメのキミの御世のことなど、
今日はその辺のお話を。
大陸の勢力の台頭を案じ、国内をまとめておかなくてはと思われた、
イクメのキミ(垂仁天皇)の密かなるご内意を受けた腹心のトミ、タジマモリ。
キミのお心を深く理解し、そのために生涯を捧げたお方なのです。
しかし記紀では、そのようなことはすべてカットして、
単なるキミのご希望で、カグ(橘)を探しに「常世の国」へ行ったと書かれています。
いかにも、珍しい果実を得るため・・・みたいですよね?
タジマモリさんが、帰化した新羅の皇子の子孫ということだけは、
明らかにされています。(だけど、代々のつながりとお名はちと間違いあり)
ここから朝鮮半島に渡って、初めて橘(ミカン類)を我が国にもたらした・・・
そんな学説まで、あるんですよ!
お陰で田道間守さんは、柑橘、それからお菓子の神さまということになってます。
やれやれ・・・これじゃあイクメのキミだって、優れたお方とはいえ、
ふつーの権力者のようじゃありませんか・・・怒)
で、次の唱歌にあるように、
長い年月をかけて、やっと橘を手に入れ、
帰ってきた時には、すでにキミは身罷られていた。
悲しんだタシマモリは、キミの御陵の前で、
帰参の報告を涙ながらに申し上げ、
キミがいらっしゃらなない世には、トミも生きている甲斐はないと、
殉死なさったという話です。
田道間守の歌(たじまもりの うた)
一、かおり貴高いたちばなを
積んだお船がいま帰る
君の仰せをかしこみて
萬里の海をまっしぐら
いま帰る 田道間守 田道間守
二、おはさぬ君のみささぎに
泣いて帰らぬまごころよ
遠い国から積んで来た
花たちばなの香とともに
名はかおる 田道間守 田道間守
(昭和十七年文部省発行の国民学校 教科書より)
さて、ヲシテ文献によると真相はこのようなものでした。
イクメのキミは、当時の大陸や朝鮮半島の情勢を、
帰化した人々を通じて、感じ取っておられました。
力と力のぶつかり合い、国と国同士の戦い。
また、王権をめぐっての殺し合い。
大陸は、陸続きという地理条件にあったとはいえ、
我が国とはまるで違う心のあり方なのです。
なればこそ、
先の10代・スヘラギ、ミマキのキミのみ世にも、
我が国の理の通った、平和な治世に魅せられて、
新羅の皇太子「アメヒボコ」は、弟に国を譲り、我が国の人となりました。
また加羅の皇太子も来朝し、数年滞在し学んだ後に帰国されています。
帰国の際に、ミマキのキミ・・・「ミマキのキミのナ」を国の称え名「ミマナ」と贈られたのは、
学んだことを生かされ、あなたのお国が世々平和な国であられるようにという、
キミの祈りが込められていたのではと私は思います。
我が国の伝統によると、称え名はいくつあってもよろしく、
めでたいことでありました。
ことに「キミのお名を称え名に贈る」というのは、
「最高位の勲章」を贈られるような意味合いではなかったでしょうか。
ですから、その後ミマナ(日本名)との交流は、
独立した国ではあるけれど、大変親しいものとなりました。
この称え名の子細も、記紀には載っていないために、
誰も知らず、理解できず、
あたかも我が国が任那を属国にしていたかのように、
今でも思われているのは、大変残念なことです。
このように、
カンヤマトイハワレヒコ(神武)さま以来、
我が国は500年以上もの、平和な時代が続いておりました。
これは、世界的にも大変珍しいことなのです。
しかし・・・
平和が続くということに慣れ、当たり前になった時こそ、
危機は密やかに忍び寄ってくるのですね。
父ギミに続き、イクメのキミも心からそれを案じられておられました。
ご縁のあった新羅、任那の、その後の争いなどを見るにつけ、
その思いは強くなったと思われます。
この大陸の力の覇権思想が、
我が国に及んだ時にどうするか。
まずは、クニの心、意志を一つに纏めておかなくてはなりません。
ひとつ、案じられるのは「ヒタカミ」でした。
ヒタカミは建国の「クニトコタチ」以来の「タカミムスビ」の本貫地であり、
9代アマカミ「オシホミミ」も、朝廷を置かれた所です。
また、イサナギ・イサナミさまから、タカミムスビの系統に
アマカミのみ位が受け継がれたこともあって、
9代のオシホミミさま以後、ミツギも納めなくても良いという、別格の扱いとなり、
自治を認められていました。
しかし、その時以来もう800年近くの時が流れています。
タカミムスビもその後14代を数えました。
はたして古来の伝統を守りながら、半ば独立国のように、一地方を静かに治められている方に、
昨今の国の置かれた困難な情勢を、理解して頂けるでしょうか。
そして独立国のような形を取りやめ、昔のように、
スヘラギを中心に一つとなれるでしょうか。
今後必要とされる全国統一のため、道筋をつける役目。
これは、
身にしみて大陸の覇権思想を知り、その後の情勢も知る第一人者でなくてはなりません。
また、今のところは秘密裏にことを運ばなくては、混乱もおこるでしょう。
この難しい役目は、イクメのキミが心から信頼なさる、
帰化された新羅の皇子の直系、タジマモリに託されました。
ミコトノリ カグオモトメニ
タジマモリ トコヨニユケヨ
ワガオモフ クニトコタチノ
ミヨノハナ (ホツマツタヱ 37−48)
表向きは、
国の初代アマカミ・クニトコタチが植えられたという
建国の象徴でもある貴いカグノキを、
未だ建国以来保っているというトコヨ(この場合は、ヒタカミ)に行って探し、
もらい受けてくるようにというものです。
実はカグノキは、ヒタカミの隣の「ホツマクニ」にも存在していました。
非常に微妙な場所。
というのは、全国統一(ヒタカミの特例廃止)のミコトノリが発せられた際の最悪のシナリオとして、
ヒタカミが反発して内戦になる可能性が考えられます。
その時には当然隣のホツマクニを味方に引き入れようとするに違いないのです。
こういう情勢分析も、スヘラギにはおありでした。
このホツマクニとの意志疎通も図っておかなければなりません。
どちらかというと、これこそが最重要なことではなかったかと思います。
そして、できるだけヒタカミの各地の豪族にも意をつなげておくこと。
ですから、タジマモリへのミコトノリは、
今一度建国の時の心に戻るというご決心を示され、
行くべきであるのは、どうしてもトコヨ・・・
すなわち
建国の時のカグノキを植え継ぎ保っているという「ヒタカミ」であり、
「ヒタカミのカグノキ」でなければいけなかったのです。
このような理由から、原文にわざわざヒタカミとは言われず
「トコヨ」とあるのが、うなずけます。
「トの法によって世が治まっているところ」
こういう褒め言葉を発せられたのは、
おそらくヒタカミを意識しての高度の政治的な配慮もあったのではないでしょうか。
なにしろ、我が国で一番の栄誉は、
「クニトコタチ」のようだと称えられることでしたから。
その昔、5千年以上も前のこと。
クニトコタチさまは、ヒタカミにもカグを植えられました。
そして、ここに残られて人々を教導なさることになった、
優れたお人柄の皇子の「タのクニサツチ」へ
「キノ トコタチ」という褒め名を賜っています。
キは東のこと。「キ(東)のトコタチ」ともなるようにとの、
父ギミの願いだったのでしょうね。
「トコヨクニ」はその父ギミがアワウミ(琵琶湖)のあたりを中心に建てられた、
我が最初のクニの名前(国号)なのです。
しかし記紀ではこの重要な言葉に、いつも「常世国」の漢字を当てているため、
このタジマモリの1件でも、
中国の神仙思想である不老不死の国を探すべく、派遣されたと解しています。
さて、タジマモリさんは10年間もどこにいて、どのような活動をしていたか。
それは、殉死の前に書かれたノコシフミ・・・遺書により、明らかです。
(これも、記紀では全文カット!)
サキにタジマが
ノコシフミ クニ ソマザレバ
カグノキお エント オモエバ
タチバナの モトヒコが ヤに
トシ フリテ ナジミテ メグル
ヒタカミと シマツの キミに
アヒ シリテ ヤゝエテ カグお
ヒカヌ マに キミ カミトナル
チゝ クヤミ イマ ワカミヤに
タテマツル キミ ヤツカレが
モトヒコに ムスブ シツクの
ミナモトお オボシテ ホヅマ
シロシメセ (ホツマツタヱ 39−17より)
なかなか、この地方になじむのは難しく、
タチバナの木を宝として大事に守っている
(ホツマクニの)モトヒコの家にとどまり、
信を得るまでには、年月がかかってしまいました。
やっと慣れ親しむことも出来、隣国のヒタカミを巡り、
あのツガルキミ「オオナムチ」さまのご子孫である、シマツのキミにも
ご縁を得ることが出来ましたのに・・・
と、前半にあります。
ほらね・・・やっぱりモトヒコさんの所に滞在なさっていました。
信頼を得るまでは、かくれたご苦労が大変だったでしょうね。
それでもキミの託された使命を心に、頑張られたのですね。
この「モトヒコ」さんとは、オオヤマスミの5番目の御子「マウラ」の子孫で、
その昔、オオヤマスミが新田を作り、カグの木を植えたのです。
マウラさんからは代々「カグのキミ」と呼ばれたような名門でありました。
その領地はヒタカミの隣、ホツマクニ。
タジマモリさんは、何年にもわたる滞在中に、
当代のカグのキミであるモトヒコさんの姫「ハナタチバナ」を娶られたのです。
身内となったのは、やはり信を得たという証でしょう。
後にこのご縁が生きることとなりました☆
モトヒコさんは改めて朝廷への敬いの心を篤くなさったようです。
それは、原文の後半に書かれていることから察せられます。
タジマモリさんの殉死のあとになりましたが、ハナタチバナさんが産まれたのは姫御子で、
タジマモリの死を惜しんだヲシロワケさまより、
ヲ(父タジマモリの面影)を偲ばせる姫御子とて「ヲトタチバナ」と名を賜り、
成人なされた後に、ヤマトタケさまの妃になられたのです。
また、キミのお心遣いで、幼児をかかえたハナタチバナさんには、
なんとタジマモリさんと似ていらっしゃるオシヤマさんとの再婚をはかられて、
その後の母子が安心して暮らせるようにして下さいました。
モトヒコさんは、娘と孫へのキミのお心遣いに、大変感激なさったようです。
※ このくだりは、ミコトノリの原文後半(37ー55)に記載してあります。
遺しフミの最重要な文は後半にあります。
「キミ やつかれが モトヒコに
むすぶシズクのミナモトを
おぼして ホヅマ しろしめせ」
ワカミヤ(ヲシロワケのキミ)さま、
私めが、モトヒコと結んだ水の一滴のようなご縁の、
そのミナモトとなりましたのは(父ギミ、イクメのキミのご密命にありました)
それを、良くお考えあそばし(お使いになって)
ホヅマ・・・すなわち、アメナルミチに表される治世を、
(ヒタカミにも)お広めになられますように。
この一文があればこそ、タジマモリさんのお心も良く分かるのです。
この事情を知った上で、あの唱歌を読むならば、
私達は、歌に表してはいない、隠れた歴史のまことを想い、
あらためて心打たれるような気がいたします。
まるで「乃木将軍みたいなお方」と私は書いたのですが、
お役も時代もはるかに違えども、
オオキミのお心を身に受けて、生涯を賭けられたことには変わりなく、
また、その「二君にまみえず」という、深い忠義のお心がそっくりです。
言わせて頂くならば、二君にお仕えできないほど、
全身全霊をすべて捧げつくされ、任務を全うされたのだと思いました。
そして、タジマモリさんは、
キミの御陵の前で、殉死されたのです。
イクメのキミ、垂仁天皇さまの御陵の壕中には、タジマモリさんの小さな墳墓があります。
いまも、キミを守っておられるのでしょうね。
クニの守りを強めたお方、タジマモリさま。
「タジ」とは(イタシ)致しか、足しということでしょうか。
「マモリ」はもちろん守ると言う意味なのですから。
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拙者はあまり朝鮮史に詳しくないが、日韓併合の真実韓国史家の証言(チェ・キホ著/ビジネス社)を読んで、韓国の親日派知識人の苦悩を垣間見た気がする。 日本の強みは長い歴史の蓄積と経験だと確信する方は、一日一押人気ブログランキングをクリック願います。 ... [続きを読む]
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コメント
こんなウタが、浮かんできました。
・
ひとしずく 小さくあれど
大元(おおもと)も そのみなもとの
ウヰは一息
投稿 いけだ みつる | 2006年6月 1日 (木) 00時26分