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2010年3月 5日 (金)

ウケモチさんの籾はどこから? (1) 改訂2010

Tanbo_hana

 

前にも種モミの発見者で、

稲の栽培をはじめたという「ウケモチ」さんのことを書きましたが、

もう一度違った視線で考察を加えてみようと思います。

 

我が国で稲の栽培が始まったのは、最近の発掘調査を元にした考古学研究によれば、

紀元前5千年より前ではないかと推定されるようになりました。

つまり、今から7千年以上も昔のことになるのです。

 

現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、

縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされているが、

水田栽培以外の稲作であれば、縄文時代前期にはその痕跡が残っている。

つまり、縄文時代の地層から、

稲のプラントオパールが続々と検出されるようになった。


プラントオパールとは、

植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が

地中に残ったもののことで、

このプラントオパールにより、

過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。


最も古いプラントオパールというと、

岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されている。

これらをもとに、近年ようやく、縄文時代にも稲作があったということが

考古学界でも認められるようになった。

        (総合地球環境学研究所 佐藤洋一郎教授) 2001年9月対談

 


その後のこと。



中国山地の奥深くにある島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡からは、

なんと7000年以上も前の地層から、ヒョウタンとキビに混じって、

稲のプラントオパールが検出されたのです。


これは縄文早期にあたり、アカホヤ火山灰層(7300年前 補正年)の、

上はもちろん下の層からも出土して年代確定されました。

そしてこの年代は、熱帯ジャポニカとはいえ、

中国の河姆渡の水田遺跡の年代にも相当するのです。

          (元ノートルダム清心女子大学 高橋護教授)



また2005年2月18日共同通信記事。


岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、

イネのプラントオパールが大量に見つかり、

18日灘崎町教育委員会が発表した。

この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。

イネの栽培をうかがわせ、

これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)を

はるかにさかのぼる可能性がある。

縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。


同教委によると、

プラントオパールの数は、土壌1グラム中2000〜3000個。

岡山理科大の小林博昭教授と、

ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、

地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。

イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類の

プラントオパールも検出されているという。


当時、貝塚は海岸部にあり、

イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。

貝塚には墳墓があることや、

イネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、

祭祀(さいし)の際の宴会や、脱穀などの、

共同作業で持ち込んだと推定されるという。

高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、

大陸から伝わったイネではないか」と話している。


縄文時代の イネについてはこれまでも同教授らのグループが調査。

4500年前(縄文中期)の姫笹原遺跡(岡山県)や、

6000年前の朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールを検出してきた。

しかし微量だったことから、上層からの混入や、

中国大陸から風で飛ばされてきたのではないかなどという

疑問の声も根強かった。

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ウケモチさんについて詳しくは、以前のエントリーも読んで下さいね?


                  稲を発見した「ウケモチ」ウケノミタマ

 

ウケモチさんはいつも、ウ(良い)ケ(食べもの)ナ(菜)を探し求め、

あらゆる草木の種などを採取しては研究、改良されていました。


ここの「ウ」は、特殊文字でアメ(宇宙原理)の偉大な力を表しています。

次の「ア」もそうですね。

 

ウケモチさんの熱心な一途なこころを「アニ コエハ」と表現されています。

アメ(アメミオヤ)にお願いする気持ちなのでしょう。

見つかったのはお日さまのエネルギーを受けた、すばらしい種「稲籾」です。

そう、いつもアメのこころと一致していらしたからでしょう。

アからもたらされた種は、本当に素晴らしかったのです。

 

「ヒウルニ ハユル ウルノ ソハ ウルタノ ソナエ」


韻をふまえて、とても美しい文章です。

お日さまのウルナミ、大いなるエネルギーに息づいているさま。

ウルノソ、瑞々しい稲のやわらかい輝きが感じられます。

ウルには潤うという意味もありますものね。

そしてこの現実世界のウルでは、通常の字が使われています。

ソハ「ソ」は、稲を表す特種文字。


この文章は、稲を称える褒めウタのように感じます。


ソロ(田畑の産物)がいかに貴重なものであったか、

当時の想いが、深く心に響いてくるのです。


「ヨルナミニ ハユル ナロナハ ハタノ タネ」


というのは、夜のナミ、つまりお月さまのエネルギーを受けて育つという、

菜っ葉や雑穀のことをうたっています。

ナロナ「ロ」にも、点が入っていますね?

は畑で育つもので、アワ、ヒエなども含まれていますが、

田の稲はお日さまのウルナミを、

畑の作物は月のヨルナミを受けて育つと考えられていたようです。

そして、クニトコタチ以来の、

これまでの「アメをマツル」ミケ(神饌)は、

木の実であったのですが、これ以後は、

ソロを捧げるようになったと書かれています。

 

ヲシテ文献でのこの伝承は、先に書いた考古学の記事とも矛盾しません。


アメミオヤへの良い食物を下さいという熱い願いは、

種籾という形で、からもたらされたというのですから。

我が日本列島でなくても、直接ウケモチさんが頂かなくても、

ちっともかまわないわけなのです。


ウケモチさんが手になさった籾は、

おそらくご縁のあった長江の辺りから、

誰かが「ツト・手土産」として持ち込んだと思われるのです。

なんせ建国からすぐに、カのクニ(中国のこと。華人、華僑の)へ、

クニサツチのお1人が移住、代々住み着いて暮らしていましたから。

そして、私たちが思うよりひんぱんに、

いろいろな人々の行き来は、なされていたように思えます。



その田んぼの状態ですが、実際の研究では・・・


春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、

夏の間は高くなった地下水位にささえられて稲作を行う。

渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの

乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。

反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫出来たであろう。

その意味では、縄文時代の稲作環境を「焼畑の稲作」と

呼ぶことは誤解を生じるかもしれない。

かって渡部忠世先生が言われた「水陸未分化」の稲作と

いうのがより適切なようにも思われる。

                       (佐藤洋一郎) 

 



さて遥か後世、水稲の時代に移ります。


紀元前200年より前の時代の、

発掘された水稲モミ(温帯ジャポニカ)は、大きく2種類にわけられ、

中国・朝鮮両国の発掘モミの遺伝子も調べて、比較したたところ、

日本の2種類のうち、1つは

朝鮮半島には存在しないものであったことが分かりました。


これにより温帯ジャポニカのひとつは、

長江から黄河流域にまで伝わったものが、

中国、山東省(黄河のほとり)付近から、対馬暖流ルートにより、

直接入ってきたという説が現在もっとも有力になっています。


またもっと古い時代のものと思われる熱帯ジャポニカは、

江南(長江のほとり)から直接である、黒潮ルートが考えられること・・・

 

 

岡山の遺跡から発見された籾の遺伝子は、

中国の彭頭山(ほうとうざん)遺跡や、河姆渡(かぼと)遺跡から発見された籾と

同じ遺伝子を持っていたということである。


長江中域にある彭頭山(ほうとうざん)では、

1980年代に湖南省聽県彭頭山で最古の環濠集落が発見され、

稲の散播農法を主流としていたと考えられている。


このように、中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が

続々と発見されており、古いものは1万2千年前に遡る。

ここで見つかった炭化稲籾は古いもので1万2千年前のものとされている。

     ※ 以上はもちろん熱帯ジャポニカのこと。


長江河口に近い下流域に位置する、河姆渡遺跡では、

約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、

稲の水田耕作については、

長江下流に起源するとする説が今では有力とされる。

     ※ 温帯ジャポニカの誕生。それ以前は熱帯ジャポニカであった。

 

                        (佐藤洋一郎)

 

下図は環境考古学の安田喜憲教授による、古代文明の頃の気候区分と、

海上交易ルートです。

大陸と我が国、双方での遺跡発掘品(翡翠・玉製品他いろいろ)

また気候、植生の比較により、明らかになったのだそうです。

 

我が国最古、島根県の山奥の7300年前のプラントオパールも、

さらに、

ヲシテ文献にあるナカクニ(琵琶湖付近)のウケモチさまの稲籾発見も、

この交易ルートを見れば、なるほどと、肯けるのではないでしょうか。

Photo_2

 

私はウケモチさまが育てられた稲は、

長江の古い時代の、熱帯ジャポニカに違いないと思います。

 

さて、現在認められる朝鮮系の温帯ジャポニカは、

これとは全然別のルートで大陸南部から半島に伝わったものであり、

それが日本に達したのは後のことであったと言えるでしょう。


つまり水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種がすでにあったということです。

そして、佐藤氏によれば、縄文の人々はフットワークがよく、

大陸へ渡るなどは軽いことであったと述べられています。

 

一般には今でも、弥生人は朝鮮からやって来た人々であり、

その人たちが、稲作を伝えたと信じられています。


ところが、もっともっと何千年も前の古い時代から、

我が国ではすでに稲作が行われていたことが、

佐藤教授を始めとする研究者により、イネのDNAを調べるという手法や、

環境考古学の安田教授などの精密な検証「年縞」の元に、明らかとなったのです。


              佐藤教授対談「稲のたどってきた道」(2001年9月)

              安田教授対談「年縞について」(2004年 夏)
 


 

次のエントリでは、ヲシテ文献をさらに詳しく調べていこうと思います。        

                             (続く)

(旧版 06/07/17)

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