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2010年3月12日 (金)

ウケモチさんの稲はどこから? (2) ニシノハハカミ 改訂2010

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ミチミ ノ モモ オ タマワレ ハ

ハナミ ノ モモ ハ マレナリ ト

クニツト ニ ナス       (ホツマツタヱ 24−25)


さて、ヲシテ文献を調べてみましょう。


アマテルさまが皆に長寿のための食を説かれた、つまりはお講義なのですが、

以前に伯母ギミにあたられるココリヒメ(シラヤマヒメ)から、

聞いたという実例をあげて、丁寧に説明しておられます。


そしてこれは同時に、

建国すぐからの大陸との直接の行き来について語られている、

きわめて貴重な記録となっています。


大陸との交流というならば、

すぐに渡来人、(あるいは難民)という答えしか思い浮かばない方も多いのですが、

クニトコタチさま以後、つまり縄文時代になると、

こちらからも大陸に渡って行ったことが明確に記されています。


次に上げるヲシテ原文からは、その初期の記録と、

はるか後世のトヨケカミの頃に、中国から、

我が国ゆかりの方が「留学」のため来日されたということが分かります。

これは国史としての記録ですので、ヲヲヤケにかかわる方の話ですが、

そのような行き来は一般人も、古来から自由にやっていたようです。


    ※ 前エントリ一番下にある「古代文明・海上交易ルート図」参照のこと。

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クニトコタチさまの8人の皇子のひとり、

「カのクニサツチ」は、西の国、中国にわたって行きました。


 クロソノツミは、安聰漢訳では(つまり中国語では)

「玄圃積国」そしてまた「元本當珂故 名赤懸神州以」とあります。

 

赤懸神州とあるのがアカカタで、

そこに住み着いたのがクニサツチの次の世代である、

「アカカタのトヨクンヌ」なのだそうです。

そしてクロソノツミというクニを世々に渡って治めていました。

そして長い長い、何千年もの時がたつうちに、

伝えられた一番大事な「トのヲシテ」の精神も忘れられて行きました。


司馬遷の『史記』の中に「神州赤県」という言葉があります。

時代は紀元前100年頃でしょうか。

また唐の時代にインドに行った求法僧、義浄の『南海寄歸内法傳』の中に、

「神州赤縣之郷」という言葉が、記されていますが、

これは後代の西暦700年頃であるということです。

そして、いずれも「中国」を指す普通の言葉であるとのことです。


また漢字熟語には、玄圃積玉 (げんぽせきぎょく)があり、

詩文の美しいことの例えで、

古の玄圃国の美しく貴い玉石から由来しているようです。


下の図象で、漢語「玄圃国」で表された「クロソノツミ」の本当の意味が判ります。

一口に言うならば「土の豊かに肥えた国」さらに「コロヒンキミ」の皇子「クロソノツモル」も、

「土を豊かにする方」という意味になるのです。

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そして中国においては、玄圃は崑崙山上にあるといわれる仙人の居所・・・

次の文に出てくる言葉、コロヒンが崑崙を指すようです。

そうすると、崑崙にある玄圃国だということになりますね。


中国では実際に崑崙山脈があります。

しかし文に書かれる崑崙山、そこにある玄圃国は現実のものではなく、

神話として「神仙の住む国」ということなのです。

出典は『山海経』や『淮南子』他の中にあり、

中国の周から前漢の時代(紀元前300年〜150年頃)に書かれたといわれます。


もっとも「山海経」の一番古い(紀元前1000年頃成立と思われる)部分は、

当時の大陸の土着信仰そのままに、

疫病や死生を司るという奇怪で恐ろしげな神仙の住むところのようになっていますが、

漢の時代に移ってから「道を教える国」ということになり、

そして時代が下り、道教の発展につれて、下にご紹介するように、

美しい不思議な神話に変わっていくのです。

 

・・・そこは樹木が茂り池が水をたたえる園庭が広がり、

多くの仙人が住むという美しい神の世界で、

穆王や東王父が訪れたとされる。

さらに崑崙が世界の中心にあって、頂上で北極星や北斗七星と繋がっており、

星々を回転させているともされていたようだ。

おそらく月神としての西王母との関連からだろう。

                          → 崑崙


ヲシテでのコロヒン(崑崙?)をご覧下さい。

空想や神話ではなく

「アメの恵み豊かに(作物にも人にも良い)生命あふれる土地」を意味しています!


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祖先の尊い精神的な伝統が消えてしまった。

それを憂いたのが、トヨクンヌの遠い子孫に当たるウケステメです。

何と来日して、

当時ネノクニの近くで一帯を治めていたタマキネ(トヨケ)さまに、

教えを請うたといいます。


これはトヨケカミの晩年に当たるのですが、紀元前1000年頃と思われ、

興味深いところですね。

 

その熱心さと誠実にうたれたトヨケさまは、

ココリヒメ(シラヤマヒメ)と姉妹の契りを結ばせました。

「ヤマノミチノク」を授けられて帰国後、

ウケステメはコロヒンキミ(崑崙王)と結ばれ、

クロソノツモル(玄圃積王)を産んで、

ニシノハハカミ(西王之母)となったそうな。


ヤマは大事なこと、重要なことという意味にも取れますが、

ヤマトの略形かも知れません。

ミチノクは、ミチの奥義ではないでしょうか。

とすれば、当然「トノヲシテ」を深く学んで、奥義に達したということになります。

 



そして、これらの記述の内容から、

紀元前1000年頃という年代推定が出来ますが、

後の中国神話の元になっている可能性も、

充分考えられるのです!


つまり彼の国での神仙思想(道教など)の根っこは、

大陸に我が国から伝わった、トノヲシテと縄文哲学や文化であり、

1度廃れてしまったその思想を、紀元前1000年頃に、

再び復活させたのが、ウケステメさんこと「ニシノハハカミ」

そしてそれが、あまりにも素晴らしかったために、

国亡き後も、この世にはない理想郷として神話となった・・・

 

このウケステメさんは、たいそう長命だったようで、

再来日していますが、最後に来た時(たぶん3回目)には、

ニニキネさんにもお会いになり、土産にミチミノモモ(三千壽桃)を賜っています。

トップの画像の原文がその個所です。

3千も実をつける・・・つまり、とても実の多くなる桃なのですね。

コロヒンでは、花もいっぱい咲いて、実もいっぱい付ける桃は、

めったにありませんと、ウケステメさんも喜ばれたようです。


  ※ 余談ですが、西王母と桃は、

    前記の『淮南子』が初出で、年代は紀元前120年頃でしょうか。

    漢の武帝が西王母を訪ね、一緒に桃を食べた・・・というお話。

    (ヲシテが書かれたのは紀元前600年頃、4百年以上も前なのです)


    この後になると「3千年に1回花が咲いて実を付ける桃」

    「不老長寿の仙桃」になっていきます。


    ずうっと後世の、17世紀になってからの伝奇小説『西遊記』には、

    「孫悟空が西王母の桃を盗み出して大騒ぎになる」

    といったエピソードまで加わっていきます。

    この小説では、西王母の桃園には

    「3千年に1度実り、仙人になれる桃」

    「6千年に1度実り、不老長寿になる桃」

    「9千年に1度実り、天地のあらん限り生きられる桃」

    の3種類があるんですって!

    また西王母の誕生日が、なんと3月3日とは・・・笑)

 

 


ウケステメさんの最後の来日は、すでに、80才近くになっていたと思われます!

でもね、不思議な話ではないのです。

我が国は古きより、長寿のクニとして有名だったからで、

それは独特の、肉を食べないという食文化が影響しています。

ウケステメさんは、それもしっかり学ばれていたのですから。


以下は再来日した時のお話で、

自分の国では、 なかなか食養生が理解されないと嘆かれているのですね・・・

 

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我が故郷のコロ(ヒン)の人たちは愚かで、

シシ(獣肉)を好み、そのためにせいぜい百歳、二百歳くらいで、

ハヤカレ(早世)してしまいます。

命に千年、万年を望んでいても、日々肉を食べているのですから。


シナキミも長命を保つという「チヨミグサ」を尋ねて来られました。

・・・(しかし、獣肉を食べ続けていて、そう望んでも無理なことです)

と、ウケステメさんは嘆きました。

 

長寿のための食養生は、はるか建国期の昔、トノクニサツチに始まっています。

ハッキリとした獣肉の禁止が定められたのは、

食生活が豊かになった頃、アマテルカミがタミの長寿を願ってのことでした。

そして、みずから苦い「チヨミグサ」を常食なさり、大変長生きをなさったのです。

この教えは、

詳しく読むならば、ビックリするくらい科学的で行き届いた養生論となっています。

 

さて。


ヲシテに書いてあるコロヒン(クニ)の場所を特定することは難しいです。

地名や国名からは「恵み多く生命にあふれた、土の豊かなところ」ですが、

ウケステメさんが語ったところでは、険しい山々が多い国でもあるそうです。

・・・なんだか、長江の中流付近をイメージしてしまいますね?


     追記(4.6.2010)

                   安田善憲教授『稲作漁労文明』によると、

         長江の中流には、点々と位置する広い盆地群があり、

         石器時代から栄えていたそうです。

         そのうちの1つ洞庭湖の西岸は黄土ではなく、

         黒土の谷底平原が広がっているとのこと。

         「クロソノツミ」には当てはまっているのですが、

         もしかすると・・・?


「ミチミノモモ」のエピソードと共に、

興味のお有りになる方は、こちらに原文を用意しました。

最後の来日の時の記述です。

                   原文は  こちら

 

  ※ 「シナキミ」のコトハですが、本来、Cinaの音源はサンスクリット

    (紀元前1500年頃からインドで成立した言語)にあります。


    ちなみに、

    文化人類学の姜 波教授によれば、この言葉には諸説があるそうです。

    通常に知られている、古代インド人の秦・漢時代の中国に対する呼称である他に、

    サンスクリットでの「辺ぴで遠いところ」を示す言葉でもありました。


    また、Cinaはチャン(羌)族のことも指すそうです。

    羌族はすでに周の時代(前1027〜前256年)には

    黄河中流域に広く住み着いていました。

    歴史的には、商王朝(前1500年頃から)時代の殷時代・甲骨文字の資料に

    記載された遊牧民“先”の末裔と考えられています。


    このホツマツタヱ前半にある記述は、クシミカタマさんのお手によるもので、

    それまでの多くの文書や伝承を取りまとめ、書かれたのが、

    紀元前600年頃のイハワレヒコ(神武)さまの御世なのです。


 


 中国神話の西王母 

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西王母は、中国古代の仙女。

崑崙山或いは群玉山に住む神仙といわれ、

仙女の世界の女王的存在として長く民間で信仰された。

「金母元君」、「瑶地金母」、「九霊太妙亀山金母」、

「太霊九光亀台金母」などの別名がある。

男の神仙と東方を治める東王父に対し、

女の神仙と西方を治めるのでこう呼ばれる。


「山海経」の「西山経」(紀元前1000年頃成立)によれば、

玉山に住み人面で虎歯、豹尾を持ち蓬髪(おどろがみ)といった恐ろしい姿で、

天の災いと五残(罪人に対する処罰法のこと)を司るとある。


しかし次第に美化されて「淮南子」の「覧冥訓」(紀元前120年頃)では、

不死の薬(三千年の桃)をもった絶世の美女とされる。

またさらに周の穆王が西征してともに瑶池で遊んだといい、

(「列子」の「周穆王」「穆天子伝」)、

長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、

漢代には西王母信仰が広く行われた。


  ※ ヲシテ文献中、このアヤ(文)成立は紀元前600年頃。



        

最後に「ウケステメ」さんの御名が、どんなに素晴らしいか、

ヲシテ図象によってご覧下さい。


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                             (続く)

☆おまけ☆   中国現代画 偉大なる「西王母」

(旧版 06/07/17)

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