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2013年12月16日 (月)

ヲシテ文字が消されたわけ その1 物部氏

Soushun


ヲシテ文献は、消えたのではなく、意図的に消されたのです。

現代でもよく言う「政治的配慮」ですね、どう見ても。
自国の文字を消しただけでなく、歴史自体を書き換えました。

どんな風にって?
時の権力者に都合が良かったのは「神話」にしてしまうことでした。
つまり、それによって天皇神格化という 今までに無かった概念を作り上げたのです。
神の天下ったのが天皇の血筋であると・・・
祖先を表す「カミ」は消され、「神」が誕生したのです!

生きていた人々を強引に、漢字での「神」にしてしまったのですね。

ここに脈々と続いていた日本独自の思想も、心のよりどころも

ぷっつりと断ち切られてしまいました。



すでに中国では「天帝」という、唯一神を作り上げていました。
天帝に選ばれたのが国を治める絶対的権威の「皇帝」です。
おそらく、それに対抗する思惑も働いたのです。

独立国としての立場を守り、乗っ取られないようにする・・・

小さくても、日本という国の権威を高めるためにも、

「日本書紀」「古事記」は書かれなければならなかったのかも知れません。


一方で、ヲシテで書かれた歴史書を読んで、
本当のことに気が付くといけないというので、
禁書・焚書も徐々に、そして徹底的に行われたと思われます。
その時期は、おそらく蘇我
氏が物部氏を滅ぼした頃から、
奈良時代を通じての、かなり長い間だったのではないでしょうか。

聖徳太子の時代から、歴史の編纂という名を借りて、

ヲシテの内容は変えられ始めたのです。



その発端・・・蘇我氏と物部氏の対立。

この2つの家系の対立は、朝廷における勢力争いでした。
物部氏は、血筋から言っても名門です。
名君と言われた10代アマカミ「ニニキネ」の孫、
クニテル「ニギハヤヒ」さんを祖とする家の裔ということになっています。

詳しく述べるならば、10代アマカミはお二人で、

公に2つの朝廷があったのです。

時に、紀元前800年頃でしょうか。



Tizu_kaminoyo

                  注 地図は現代のものに、当時の場所を記しました。


クニの中央にミヤコを置き、東北のタカミムスビ家(御父の「オシホミミ」さんは
ヒタカミノミヤに居ます)と連携しながら、
ナカクニを治めていらしたのが、
後の10代アマカミ「アスカノ ホノアカリ」テルヒコさんで、
ミヤは移して飛鳥の地に置かれました。
神聖なお山「カグヤマ(富士山)」を戴こうと、飛鳥の地にあるお山にもカグヤマ(現・天香具山)と名を付けられ、カグヤマヲキミの別名もお持ちです。

しっかり余談になりますが。

この日月の皇子(皇太子)ナカクニ赴任にあたって、
ご使用されたのが「アマノイワフネ」と呼ばれた御座船です。
このお船は「イワ(クス)フネ」と申し、特別に飾られ祓い浄められた種類の舟をさし、
祖父ギミのアマテルカミが船旅をお勧めになったことから、
アマノ(アマキミの)イワ(斎われた)フネと名付けられたような気がします。

・・・原文には、帆を揚げて、大空を翔る鳥のように渡っていった
という表現がなされていますが、それゆえか、
ここでも神話に書き直す時に、漢字による誤訳が生まれていますよね?
曰く「天磐(楠)舟」で、磐のように固い木で造った船で、空を飛ぶんですってさ!!
こんな誤訳が生まれちゃったから、
現代のトンデモのお方達には「超古代文明」などと、オモチャにされています。 
なんでも超古代の日本は、ものすごい科学文明があって、世界を支配し、
時空を超える乗り物「天磐舟」または「天鳥船」で、飛び回っていたとか。
・・・・まったく! 怒)



一方、ニハリノミヤをはじめとし、
各地にミヤを置いては食糧増産に成功した
ニニキネさんは、
共に日月の皇子(皇太子)となり、
ハラミノミヤを本拠となさいました。

そして10代アマカミになられた後は、要請のあった九州にもミヤを置き、
その頃最新の潅漑技術や土壌改良を指導、
本州に次いで水田稲作を築き上げることに全力を尽くされていたのです。

ついでの話ながら、ニニキネさんの後のホオデミさんも皇太子時代には
「ツクシヲキミ」となられ、さらに精力的に農業指導に取り組まれましたし、
当のニニキネさんも、ソヲのタカチホ(霧島の高千穂岳)でカミアガリなさいました。

12代アマキミのウカヤフキアワセズさんが薨去なされたのも、
ミヤザキのミヤなのです。
こちらの朝廷はこの時代、九州・ツクシを大変に重要視されていたのですね。

いまの時代も、九州は農業には良いところです。
なんといっても、気候が温暖で暑過ぎず、寒からず。
全国でも農には恵まれた土地柄なのです。
2代にわたって土地改良なされたのは、そのことが国力に大きく寄与するとの
判断があったからなのでしょう。

それゆえ後に、タケヒト・イハワレヒコ(神武)さんも、
お若い頃ミヤザキに居られたのは自然な事なのです。
薨去が迫った頃、父ギミが中央から呼び寄せて日月を譲られ、そのままウカヤキミの後を治められたわけで。

また、実は祖母ギミもカコシマ生まれですし、母君もツクシのご縁を色濃く引いても居られます。



さて。

保守的で凡庸で、ちと頑固でもあられた兄ギミと違い、
ニニキネさんは進取の気概高く柔軟で、
治世の才能も、お人柄も素晴らしい名君であられました。


また側近にもクシヒコさん、アマノコヤネさんという当代切っての才能のある方々が、
しっかり補佐し、黄金のトライアングルともいうべき、
素晴らしいチームワークで事に当たっていました。

クシヒコ・アマノコヤネのお二人は、もともとは兄ギミの臣でありましたが、諫言して聞き入れられず、共に辞職なさっていたのです。そして、ニニキネさまが日月となられた時に、こちらにお仕えになられたのが真相です。


しかしまあ、このように、ご性格も運も異なるご兄弟でしたが、
仲は大変良く睦まじいものであったというのが、
何ともステキなお話だと思います。



で、兄ギミ「アスカノ ホノアカリ」さんは・・・

憚り多い話しながら、
失政もあったし、プライベートでも何かとゴタゴタが多く、御子にも恵まれていらっしゃいませんでした。

心配した重臣のカクヤマが娘「アメミチヒメ」に、
その兄タクリの御子を養子に付け入内させたのですが、
他のキサキに、御子の身分が低い(実家が臣)と蔑まれ憎まれて、
その独断でお二人を実家へ戻してしまったようです。

驚いたアマキミは、そのキサキとの縁をお切りになり、
再度二人を迎えられようとしますが、
母君は入内されたものの、ご養子はミヤへお還りになりませんでした。

これは、筋としては当然なのです。トミはキミにはなれないのですから。
ご実家ではそれに気がつかれ、有り難い仰せながら、
後のことも考えられて、畏れ多く固辞なされたのではないでしょうか。

それ故、崩御なされた後、弟ニニキネさんの孫のお1人、クニテルさんが
アマテルカミのお声がかりで、ご養子となり、

11代アマカミ「ニギハヤヒ」となられたのです。


Keizu_2tyotei_1


ところが、この方も世継ぎがお生まれにならず、
そんなこんなの結果、朝廷の重臣であった「ナガスネヒコ」が、
公に対し良からぬことをしでかすにいたりました。

他朝廷の神聖な「ヨツギフミ」の密かなる書き写し事件。
また、お上・ニギハヤヒもご存知ないうちに、
ナガスネヒコの専横と独断の振る舞いが世の乱れを引き起こし、
それらを他から糺されると、武力によって勝手に海上封鎖などを行い、
などと・・・騒動は大きくなり、ついにいわゆる「神武天皇東征」を引き起こしたのです。

イハワレヒコ(神武)はツクシのミヤザキミヤから、
これを収めるため出立されました。

しかし、早まったナガスネヒコが独断で始めた戦いは激しく、
イハワレヒコの3人の兄ギミも亡くなったのです・・・




すべてが明らかになった後、アマカミ「ニギハヤヒ」さんは責任を感じられて、
みずからナガスネヒコを罰せられ切られた後に、イハワレヒコに従われました。

ご本人は元がニニキネさんの孫なのですから、ひ孫に当たられるイハワレヒコさんにも、親しみを感じておられたと書かれています。
また「イハワレヒコ」も、クニテル・ニギハヤヒさんの「マメ」正直で誠実な心をしっかりと感じ取られました。

ですから、この事件は双方に本意ではなく、たいへん不運な出来事であったのです。

「ネンゴロオシル
 ニギハヤヒ ワガナガスネガ
 ウマレツキ アメツチワカヌ
 カタクナオ キリテモロヒキ
 マツロエバ キミハモトヨリ
 クニテルノ マメオウツシミ」   
(ホツマツタヱ 29−58より)


イハワレヒコの即位、カシハラミヤでの新朝廷開きの祀りに
ニギハヤヒさんの養子(たぶん)になった「ウマシマチ」が、
こちら方の十種神器を捧げ、キミの臣籍降下をヲヲヤケにしました。

ここに正式に2朝廷の時代が終わり、1つの朝廷となったのですね。

このウマシマチさん。
前述のご実家に帰られ、日月の御位を固辞された「タクラマロ」の御子なのです。
父方はホノアカリさんのキサキとなられた「アメミチヒメ」の血筋。
母上は、かのナガスネヒコの妹なのですけれど。

ナガスネもキミには、忠義をつくしたのでしょう。
それ故キミには、ナガスネを哀れと思われるお心があったのですね・・・

また、もはや日月という地位(皇位)とは関係なくなりましたので、
ご養子も可とされたのではないかと思います。

ニギハヤヒさんの御子としての名跡のもと、
このように新朝廷に始めから忠義を示されたため、

ウマシマチさんはモノべのカバネを頂戴し、

物部氏の祖となっていきました。

これは、大きな事でした。
激しい戦があり、こちらの皇子3人も身罷られたほどでしたが、
ニギハヤヒさん、ウマシマチさんの誠意ある行動に、
恨みも残さずきれいに治まったのです。


この方々の関係や、事件の真相は、

もちろん記紀に書かれてはおらず、

ただヲシテ文献だけが伝えています。  



お話は元に戻って。

さて、そもそもの、お人は良かった「アスカノヲキミ」ホノアカリさん。
ニニキネさんが、新しいニハリノミヤを建てられた時、
わざわざ一番の腹心の臣を遣わされて、心から祝って下さった優しい兄ギミ。

ニニキネさんが神器を受け全国を回られる時にも、
まず最初にこの兄ギミのアスカミヤを訪れ、喜んで頂いたようです。

・・・しかし後世、その弟ギミのお名の陰に隠れてしまわれました。

お気の毒なことに、そのお墓さえ、御陵などと呼べるものではなく、
人里離れた山の中、土を盛り墓石を建てただけです。
ただ、この形は本質的には伝統的な御陵とも言えないことはありません。

後世と違い、アマキミのお墓(御陵)も、このように質素なものでした。
名声の高かったお方は、すぐにカミヤシロができ、後世には立派な神社となっていきますが。

けれども「ホノアカリ」さんのお墓は、そのままにうち捨てられ、
ヲシテ文献が消された後、記録も残されなかったため、
漢字の誤訳も相まって、ご養子のお名と間違えられ、
「ニギハヤヒ」さんのお名が記されているのです。


文献に書かれた場所、お好きだった「シラニハヤマ」に今もなお、

アスカ ホノアカリのキミは安らかに鎮まっておられます。


Honoakari


私は結構この方が好きです。

キミとしての治世の才能はおありにならなかったけれど、
失敗も多かったし、頑固でもあられたけれど、
良い兄ギミであられました。

だれもが、弟ギミを褒め称えている時にも、
それなりに、ご自分ではベストを尽くされていたのだと思うのです。

だから、劣等感や嫉みなどというものには無縁でいらしたようです。

これって、大したことと思いませんか?

どうぞ、ホノアカリのキミのお墓の近くに行かれたならば、
お参りをなさって下さいませね?
奈良県生駒市内、白庭山中にあります。
けれども大変見つけにくく、徒歩で長時間さがす羽目になるかもですが・・・

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コメント

トラックバックありがとうございます。
ちょうど古代史の曖昧な部分に興味を持っていた時期だったので、びーちぇさんのエントリーは非常にありがたい。
探れば探るほどおもしろそうです。
そして、日本人が何を大事にし、何を世界に向かって発信できるか、見えてきそうな気がします。
歴史は単に過去にのみあるものではない、そう思います。

投稿: 地蔵 | 2006年4月18日 (火) 12時52分

尾張一宮『真清田神社』にはホノアカリノミコトの名が残っております。しかし、ニニキネの兄君となっており、ムメヒト・ホノアカリなのかアスカ・ホノアカリなのかは混同されているようです。
http://www.genbu.net/data/owari/masumida_title.htm

また、名古屋市東区筒井の『物部神社』は、以前は広大な土地だったようですが、今は社務所に常駐の人も無く、500mほど南の高牟神社の宮司さんが兼ねられていますが、ウマシマチの名が残っております。
http://www.aichima.net/rekishi/siseki/06/index.html
http://www.a-namo.com/ku_info/chikisaku/pages_n/takamu.htm

もっとも、宮司さんとお話ししたところ、タカミムスビノミコトのことはご存知ではありませんでした。

投稿: キーさん | 2006年5月29日 (月) 11時48分

>キーさま。
情報有り難うございました。

尾張一宮『真清田神社』のサイトを詳しく見ましたところ、ご祭神について次のように書いてあるのを見つけました。

>当社の祭神は天火明命[あめのほあかりのみこと]です。
>詳しくは天照国照彦火明命[あまてるくにてるひこほあかりのみこと]、
>または天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊といいます。
>この大神は約2650年以上の昔、一宮市の真清田の農業地帯を開拓された尾張氏の祖神で、
>当時、唯一の生産業であった農業守護の神として仰がれた神様です。

このご祭神名からすれば、ニギハヤヒ(クニテル)さまをお祀りしているようです。
天照国照、さらに饒速日とあるのが、その証拠だと思います。

ヲシテには、アスカ ホノアカリさまの死後、
アマテルさまのお声がかりで「アマテル ニギハヤヒ」という称え名で、
ムメヒト ホノアカリさまの御子「クニテル」さんが
アスカ ホノアカリさまの後を継がれた(つまり養子)とありますから。

ですから、ホノアカリのお名までくっつけるのは間違いなのですね・・・

この辺が記紀での問題点で、称え名、イミナ、幼名などの意味が解っていないため、区別が出来ず、
このように、ごちゃごちゃになっているのが、悲しいことです。

おまけに、ウマシマチさまはまたもや、別家からのご養子ですよね。
タカミムスビは母方の血筋で、
書きませんでしたが、伝統に従って父系をたどれば、
サクラウチ→オオヤマスミ→カグヤマツミ→タクリ→タクラマロ→ウマシマチとなり、
臣籍降下なされたニギハヤヒさまのご養子としての名跡にて、モノノベというカバネ(氏)をいただき、延々と物部氏が続くこととなったのです。

投稿: びーちぇ | 2006年5月29日 (月) 22時41分

ご丁寧な解説、有難うございます。
さすがびーちぇさんです!!長年の疑問が氷解してとてもすっきりいたしました。
やはり、自分でヲシテ文献を読み込まなければいけないなと感じながら、ついつい後回しになっているのが現状で、反省しきりです・・・。

それにしても、テルヒコ アスカホノアカリさまは、飛ぶ鳥を見て都を移すと言い出されたそうで、ほんとは何をご覧になって何を思われたのでしょうかネ・・・。
同じご兄弟でもニニキネさまは合理的、論理的な能力に長け、テルヒコさまは情緒性に富んでおられたように思われます。

『国家の品格』の藤原正彦氏が論理力よりも「情緒力」とおっしゃっているのは興味深いですが、それをそのままお二人に当てはめるのは違うでしょうけど・・・。
藤原氏言うところの「情緒力」は、びーちぇさんにこそ備わっておられると、最近益々確信しております。

ところで、真清田神社の摂社に服織神社(ハトリジンジャ)があり、御祭神は萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)となっております。
テルヒコ ホノアカリノミコトの母君でいらっしゃいますよね。一宮は繊維工業が有名ですが、毎年「ミスタナバタ」を選出して七夕祭りを盛大に行います。
七夕といえば仙台、平塚、一宮は三大祭りといわれますが、特に仙台と一宮はタクハタチチヒメの足跡として関係が深いですね。
オシホミミノミコトとタクハタチチヒメ・・・、浅学の小生などはつい結び付けたくなるのですが、ヲシテ文献に七夕の起源についての記述は見当たりませんでしょうか・・・。
(ご負担にならないように・・・)

また、小生の散歩道に針名神社があります。宮司さんは連(ムラジ)さんとおっしゃってオハリムラジの直系だと思われるのですが、ご本人にも正確に伝わっていないのは残念で悲しいことです。
http://people-power.jp/hup0801/harina/jinja.html
http://www.anamo.com/ku_info/tenpakuku/pages/roman.htm

しかし、ウエブ2.0といわれる時代になって、ヲシテ文献がやまとのこころにしみわたっていくのを実感します。

投稿: キーさん | 2006年5月30日 (火) 10時30分

>キーさま。

タナハタは古来からの重要な祀りで、7月15日の祖先の祀りへと、
ひと続きになって行われていたようです。
そのうちに、詳しくかきたいのですが、今のところは下記で、触れています。
http://julian.way-nifty.com/nwk_woshite/2006/04/post_6936.html

「ミカサフミ ナメコトノアヤ」、同「トシウチニナスコトノアヤ」にも、
他の年中行事と共に書かれています。

投稿: びーちぇ | 2006年5月31日 (水) 09時14分

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