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2013年12月20日 (金)

ヲシテ文字が消されたわけ その3 仲哀天皇さまからの時代

Hanamomo



その1、その2と、漢字導入仏教伝来によって、
ヲシテが消され、忘れられたと書いてきたのですけれど、
途中から、実はもう一つの大きな理由があったのではないかと、
おもい始めました。


調べれば調べるほど、このふたつの事件以前に、
日本の心の世界に、見えない形で侵入し、
それとは分からない形で日本をむしばんでいたもの・・・
それが、どうもあったようなのです。

儒教思想の伝来です。

それにかかわる?、私にとっての理解できない人物はまず、お2人。
仲哀天皇さまと、その皇后さまです。
仲哀天皇さまは、かの「ヤマトタケ」の皇子でいらっしゃいます。
ですから、最も日本的な古来の伝統を大事にされていたのではと思います。




けれども・・・日本書紀によれば・・・
ヲトタチバナと御父ヤマトタケの皇子(つまり腹違いの弟)を、
些細なことを理由に殺されているのです。


ヤマトタケさまが病気で急逝なさり、
そのタマ白鳥になって翔んでいかれたというイメージは、
残された悲しみにくれる方々を慰めるものでした。

これは文献にもしっかり書かれています。
そして、その悲しみの中で、ご遺言を守るという形で、
ヲシテ文献は終わっています。




で、続く日本書紀には、曰く。

御父を偲ぶために、仲哀さまが、白鳥を見つけて献上せよとの詔を出されます。
捕まえた白鳥を見た、弟ギミが
「白鳥も焼けば黒鳥となる・・・」と軽口?を言われ、
その鳥をを献上にきた人から、取り上げてしまったとか。

そして、たった、それだけの理由から、
「亡き父君に対する不敬の罪」で、
この弟ギミ「アシカ ミカマミ」さまは勅命により、殺されます・・・!!!



こんなこと、ヲシテ時代にはあり得ないお話しです。
はっきりと皇位を狙い、反逆し、ために殺された方は何人かいました。
でも、その理由も経緯も、
「ヲシテに反する」という、
(憲法)違反の罪であったのは明らかでした。

それに、アマテルさまの時代には、すでに刑法が完成し、
1つごとの罪により、量刑が科せられていたのです。

   殺人は400クラ(暗?)、但し尊属は200クラ
   物を奪ったら60クラ、キミの恩を忘れた行いは100クラ
   ヲヲヤケに関する場合、上記に200クラ加算
  
 罪の合計が360クラになれば死刑。

   100クラを超えると、アガタ(郷土の集団)からの追放。
   200クラ超で、クニ(地方諸国単位)からの追放。あるいは遠島。
   300クラ超は、髪と爪を取り剥ぎ、入れ墨をして追放。
   400クラを超えれば、本人は死刑の上、一族郎党へも処罰が及ぶ。



仲哀天皇さまの時代は、もちろんヲシテが国字。
文献が記され、奏上されたのは2代前なのですから。
この事件はでっち上げ?・・・陰謀?
真相は何だったのでしょうね。

それに、仲哀さまの他のご業績からは、
父君からの古来の伝統をしっかりと守られているように拝されます。
そして、この君も異様に短命であられました。
なんでも神のお言葉を信じなかったからだそうです!

これも・・・ほんとかいな・・・と思うことしきり。


で、その神のお言葉というのが、これまた変なのです。


(神功)皇后に神懸かりして、

「海の向こうに(朝鮮半島)に金銀にみちた豊かな国、
 新羅があるから、それを与えよう・・・!?」

おまけに

「兵を率いて討とうとしている熊襲の地は貧しく、戦う甲斐がない」

・・・などという大意のご託宣まであるんですね。


これって、どうよっ!

まったくの侵略戦争
ヲシテに反するムチャクチャなお話じゃありませんか。

それに、天皇さまは

「海の向うを見わたしたが、
 空ばかりで国らしいものは何も見えなかった……」とかね。


そんなこと、仰るはずがないのです!
曾祖父の垂仁天皇さまの代には、新羅の話がちゃんと記されてますし、
海の向うに国があることはご存知のはずです。

で、信じなかったので、神の祟りでお亡くなりになったんですって。
神の祟りなどは古来あり得ないことなのに。



そして、残された神功皇后。
神懸かりされただけあって、大変ご神託に熱心でした。
そして天皇の死後は、自ら神主となられ、
神託の神の御名を尋ねられたところ、

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかき・いつのみたま・
あまさかるむかつひめのみこと

なんとなんと、アマテルさまのウチミヤ(皇后)になられた
セオリツヒメ・ホノコさまではありませんか!


称え名は「アマサカル ヒニ ムカツヒメ」
あのミヤビ(無私の、他を思いやる和の心)の優れる御方であられました。


        セオリツヒメノ 
  ミヤビニハ キミモ キサハシ
  フミオリテ アマサカル ヒニ
  ムカツ ヒメ ツヒニ イレマス
  ウチミヤニ


妃の位は、もちろんキミの下位にありました。
しかし、セオリツヒメ・ホノコのお心は、まさしくトのヲシテそのままの、
私が全くない、和の心であられ、それゆえ、キミ(アマテル)は
位という階段を自ら踏み下りて、対等に遇されたのです。
つまり、輝くヒ(キミ・天皇)に、ムカツ(向かって立つ)ヒメ。
そしてウチミヤに入れられた。
……妃それぞれの賜る局で、キミのお召しを待つのではなく、
この方だけは、キミと同じ所に住まわれることになった。

また、他の妃の頂点に立って、キミをお支えする為に、
妃たちを、公平にまとめられた。
これはウチミヤとしてのヲヲヤケのお仕事です。

他にも、キミが地方に行幸なさって不在の時に、緊急なことが起こると、
臣の助けを借りながら、政ごとも代行されておられました。
ミコトノリ(詔勅)というのはキミだけのものですが、
ウチミヤはコトノリ(勅)を発することが出来たのです。

この他にも、まだ祀っていないという神名が出てきますが、
これも、とんでもない間違いです。
コトシロヌシ(役名ですので、何人もいらっしゃいました)とか、
イサナギさまが、ミソギされた時の3人のカミとかね。

  



ま、日本書紀が書かれたのは、

実際の事件の頃から、

500年以上経ってからですものね。

ヲシテはとっくに消えていたために、

判らないままに書かれたのですね。






さて、神託に従って、
妊娠されているというのに、神功皇后は兵を率いてご出兵になり、
やすやすと戦に勝たれて、新羅は属国になったのです。

帰国後すぐに生まれた皇子と共に、
他の反対派の皇子や、加担した者たちを滅ぼして、
自ら摂政として、なんと70年近くも政ごとを、お取りになったと。



とにかく、ヲシテ文献以後の記録はそのまま鵜呑みに出来ないことばかり・・・
どうにも辻褄が合わないのです。


ヲシテは、古代ヤマトコトバの解読は難しいけれど、
内容には矛盾がありません。
人の繋がり血筋なども・・・系図に書いても、いい加減なところが無い。
分からない人があっても、それをそのまま記していますし、
全体にも混乱が無くスッキリしています。


こういうことからも、我が国の古来の哲学や心持ちが
記紀では、まったく変質しているのが解ります。
これは儒教による
中華思想そのものではないでしょうか。


で、私の次に引っかかった事件は、
次の応神天皇から
仁徳天皇の御世のことです。

ここでも皇子がお二人、謀反ということで糺されて居られます。
これが・・・どうにも引っかかる。

皇位をめぐって、特に記されている皇子は4人です。
皇太子になられたお方は、大変聡明なお方で、
初めて儒教が伝わった時、教典という形で学ばれています。


時に374年、百済の阿直岐という者から、それを学んだというのです

御父、応神天皇はさらに請うて、使者まで使わして、
有名な学者の「王仁」を招くことになさいました。
そして、なんと半年後には王仁が百済から渡来、教書を授けたと。


この
阿直岐は帰化して後、史(ふびと)となり、
王仁も同じく「書首等・ふみのおびと」となり、
我が国の学者、学問の総帥となりました。




 

つまり、以後、特にエリートには

外つ国の思想教育がなされたのですね。

現代の戦後教育とまったく同じじゃないですかっ!


儒教は革命思想を含んでいます。

ですから、その思想の説く「正義?!」のための戦いは容認される。
したがって、殺し合いも当然のこととなります。



やはりヲシテが消された、そのきっかけは、

この儒教思想の定着から始まったというのが、

正確な分析ではないでしょうか。

しかし、それに抵抗する人々もいたのです。

伝統保持派とでもいいましょうか。


弟君が、最初に儒教を学ばれた皇太子で、
仁徳天皇となられた兄と、仲の良い弟君は2人とも、もちろん渡来学門派。
弟が皇太子であり,最初に儒教を学ばれたと言います。

聡明で儒教をいち早く身に付けられたこの皇太子、
「うぢのわき いらつこ」の母君は、帰化人の娘であられたとのことです。
だから、言葉も思想も容易に理解され、
誰よりもすみやかに身に付けられたのではないでしょうか。

ただ、不思議にも応神天皇の後、お二人で皇位を譲りあった揚げ句に、
優れた兄に皇位を継いでもらうため?・・・
皇太子であるこの聡明な弟君は、自殺なさって居られます。
・・・明らかに儒教からの「禅譲」なのですが、自殺までなさるとは!?

ヲシテに添った考え方では、
皇太子の地位を、勝手に譲るなどとは、
皇太子という地位の責務を忘れ、その地位を貶める
とんでもない行為ではないかと思われます。
皇太子の位を決めるのは、天皇の詔勅のみなのですから。


仁徳天皇さまに糺されたもう1人の皇子「はやふさわけ の みこと」は、
お血筋からもれっきとした護国派、伝統派であり、
女性問題が発端で、謀反の心ありと殺されておしまいになりました。

これもしっかりとおかしい話で、
仁徳さまが望まれた媛は、すでに40才を超え、
すでに、はやふさわけさまとは長年の相愛の仲であられたようです。
皇子さまももちろん40才を過ぎて居られます。


で、このはやふさわけさまは
実は、あの「継体天皇」さまの祖であられたという説があります。

『和解三尾大明神本土記』808年
『皇代記』1274年頃
『日本皇帝系図』1308年頃
『水鏡』1330年頃
『神皇正統録』1330年頃
『神皇正統記』1339年頃
『神明鏡』1430年頃
『和漢年契』1796年

しかし記紀では、
継体天皇さまの祖は「わかぬけ ふたまた おうじ」とされ、
出典は『上宮記』7世紀頃に成立したと推定される、1例のみです。
現在は釈日本紀などに逸文が残っています。

しかし、謀反人とされておしまいになったから、
都合の悪いことは消されてしまったと、
そのような推測も出来るかも知れません。



この一連の事件は、

儒教受け入れ派と伝統保持派の対立ではないか。

仲哀天皇さまから徐々にそれは始まって、

どんどん対立が激しくなり、

ついには伝統保持派を抹殺して行った。

これにより国は混乱の闇に堕ちて行ったと

考えることも出来ますね。




松本、池田両先生は、そのように解しておられます。

このことに関心を持った方は、今までいないようで、
現代の研究者も記紀そのままに、

これを引き継いでいるということです。


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コメント

ヲシテ時代から、漢字国字化時代に、
この時代変革の大きさは、「大改革」とも言えるものです。
ビーチェさんは、この、大きな時代の変革について、
よく発見をなされたことで、あると思います。
ここの、重要なポイントが解かれば、たいしたものです。

ヲシテ時代の恵み柔しの世界、
そこから、
神がかり(オカルト)の世界にと、
急転直下、
縄文時代の光輝も、
ゼロベースにまで、衰えてしまうのでした。

神がかり(オカルト)の世界とは、『古事記』の世界ですね。

ヲシテ文献が、発見されたからには、
神がかり(オカルト)の世界からの、脱却を図ることが
真実の、日本民族のしあわせにつながる、
と、思うのです。

投稿: いけだ みつる | 2006年4月23日 (日) 18時11分

興味深いことに今現在でも、伝統的保守と大陸派の争いは続いている様です。
次の自民党総裁選挙は正にそれです。

日本の近代史を読み解けば、大陸と関わり過ぎるとロクな事がないというのが解ります。
ですから親中派の議員、例えば福田氏などが総理大臣にもし成ったら、日本の将来は暗いでしょう。

投稿: えんき | 2006年4月23日 (日) 20時59分

>いけだ みつる先生

過分なお褒めを戴き恐縮でございます。

まだまだ勉強が足らないのは、当たり前なのですが、先生の長年のご研究の上に立って、
なんとか書けている状態だと申せます。

今の悩みと申せば・・・必要とは言え、記紀を読み込むことがとても苦痛です!
なんともいえぬ、違和感。
きっとこれは、古来になかった策略や捏造などの心のケガレのニオイなのでしょうね?

それに引き換えて、ヲシテを読み、解読していく時の充実感と幸福感は、
ヲシテの持つ五元素のお陰ではないかと、勝手に解釈しております☆

本来の意味での「ホツマ」の言葉・・・その光なのでしょうか!

投稿: びーちぇ | 2006年4月24日 (月) 09時29分

先日NHKで外国人のための日本語講座をやっていました。
『日本には中国から漢字が入って来るまで文字がありませんでした。』と、漢字・ひらがな・カタカナの来歴を聞くにつけ、悲しくなりました。
ヲシテ文字が存在していたのなら、なぜ文献以外のものが残っていないのでしょうか?

投稿: J | 2006年4月24日 (月) 13時14分

>Jさま

「なぜ文献以外のものが残っていないのか」

これは、
「文献だけしか」残っていないからと、お答えする他はありません。

この文献も、権力によって消されたはずだったのですが、
関係のある家筋に隠され、門外不出、一子相伝の家宝として秘蔵され、
幾多の幸運が重なったのか、やっと世に現れました。
この経緯については、出きる限りの検証と共に、
今後おいおいと記事に書いて行くつもりで居ります。

ただ、先ごろ「四角に十字」・・・ヲシテでは「ノ」という字が黒々と書かれた土器が
発掘されました。
しかし、時期が合わない。
それで、漢字が渡来したのは今考えている時より、もっと遡るのではないかと、
話題になりました。
が、その土器は、どうみても庶民レベルのものだったのです。

いうまでもなく、漢字はゆとりのある階級のものですから、
ちょっとおかしい。
でも、字がヲシテならば、庶民でも容易に読むことが出きるわけです。

但、今の時点では、検証することが不可能です。
それでも、時代がヲシテ時代ということだけは、申し上げられることです。
以前にも記事で触れましたが。
http://julian.way-nifty.com/woshite/2005/10/post_fd9d.html


「ヲシテ文字が消されたわけ」も
1,2,3と書き続けましたので、前の記事も合わせて読んで、
お考え頂ければと願っております。

投稿: びーちぇ | 2006年4月24日 (月) 14時54分

 今回の一連の記事で、不審に思っていたことがいくつか氷解した気分です。

 ヲシテというものを知ってから聖徳太子と藤原氏には何か違和感を感じてました。
 単純に言えば「語感」です。

 「聖徳」も「藤原」も日本的な響きからはやけに遠いものだと思えるからです。
 言葉というのは民族の側面の一つで、民族とは切っても切り離せないものだと思います。聖徳も藤原も日本にはどうにも馴染みのない言葉だなあ、と思っていました。
 それが今回の記事で何となく氷解したような気がします。

 たぶん、この人達は外来の血が流れているんじゃないか、と。
 あるいは外来文化に影響されて伝統をおろそかにする類の人達ではないか、と。
 まあ、あくまで直感的にこのように感じるだけですが。

 でも、理屈なんてのは幾らでも取り繕う事ができますが、直感は誤魔化しがきかないと思うので、当たらずとも遠からずではないか、と勝手に思ってます。

投稿: どこかにある場所 | 2006年4月25日 (火) 20時47分

聖徳太子には、蘇我の血液が濃いわけで、
蘇我氏は、蘇我の「韓」子でしょう(笑)、満「智」でしょう、それから蝦夷に入鹿に馬子に・・・
臭い名前ばっかりです。
帰化人に乗っ取られていたわけです。
蘇我氏の外戚への執念は、権力簒奪の意思そのもので、外来者的。

聖徳太子は、まだ子どもといってよい時機から物部氏との戦争でも活躍したわけで、
最初の最初から血なまぐさい存在です。
私は、本文に書かれているほど好意的には受け取れません。

このあたりとつるんでいたのが、秦河勝。
学会では必ずしも認められていないようですが、
秦一族の系図が残っていて、
秦始皇帝-コガイの子孫であると言われている。
百済経由で日本に入ってきた一族。
そういうわけで、このあたりはほとんど外来者。

投稿: 真名 | 2006年4月26日 (水) 19時58分

はじめまして。
所謂「古史古伝」について若干の興味を抱いている歴史研究家の端くれです。
どうしても古史古伝に付きまとってくるのは「偽書」説です。漢字以前に文字があっても良いのではないか、と漠然と思っていますが(銅鐸の鋳画は本当は文字だったりして!?)ただ、文献となると非常に分が悪いのですが、ホツマツタエのさまざまな矛盾点はどう捉えていらっしゃるのでしょうか。

投稿: ken | 2006年4月27日 (木) 00時35分

>真名さま。

ども。
やはり、痛い所を・・・(^^;)

いえ、私もそう感じているところは否定できません。
この時代の、記紀に記載されているお方々の業績は、ほとんど怪しいものですよね。

名君の誉れ高い方ほど、調べれば調べるほど???となるわけでして。

今、その辺を書こうとして準備していますが、
正直なかなか難しいです。

でも、おっしゃる通りに、
帰化人、渡来人などに、よく言えばあやつられ、悪く言えば、その勢力を利用して権力をふるうに至ったというのは、確かでしょう。

まあ、今回の太子については、
あえて、記紀の記事に従って、解釈をしてみたのです。
実権を握るまではともかく、治世においては、かなりの善政では無かったかと思うのです。
結果、この方の摂政時代は、世も治まっていたのではないでしょうか。

と、思う反面、
人心の掌握が、うまかっただけ。
民は次々と行われた大規模な寺院建造のため、疲弊していく過程にあった・・・とも解釈出来るわけでして・・・苦笑)

現実の政治の世界では、こういうことも、ざらにありうるわけです。

それより、私が今内心で・・・と、疑っているのは、
3に書いた、神功皇后と仁徳天皇さまです。
特に神功皇后については、
大陸思想にしてやられることとなった発端ではないかと思うのです。
モチコ、ハヤコさんと似たお方だったのでしょうか。
真名さんはどう思われますか?


投稿: びーちぇ | 2006年4月27日 (木) 05時06分

>kenさま。

お読み戴き、大変嬉しいです。
さて、
「文献となると分が悪い・・・ホツマツタヱのさまざまな矛盾点」と、お書きになっています。

が、私にとっては矛盾がないのです。

多々ある古史古伝の多くは、現在、偽書として否定されたわけですが、
その検証論は、ヲシテ文献については、まったく当てはまらず、
したがって検証は成り立っておりません。

むしろ、一字一句日本書紀、古事記と比べることにより、
真正な、これらの原典であることが、証明されました。

但、学会、研究者に取り上げても見られないのが残念です。
むしろ、ドナルド・リーチさんや、他の外国の方々が、
「なぜ日本人は、これほどの真実を認めないのか・・・」
と不思議がられている現状です。

また写本について、現存するすべてのもの(17例)の筆跡鑑定、校異を調べ、
その筆者についても、系図に始まり、その伝来推定など、
現在分かる限りの検証がなされております。

池田満先生の「ホツマツタヱを読み解く」にも、記されていますので、ご一読下さいませ。

また今後、先生のサイトでも、次々に研究の全てを解き明かされ、発表されるということです。
右上に、リンクがあります。

ちなみに、
偽書と主張されるお方は「本居宣長」を始めほとんどが、
原本を読むことなく断定して居られます。

そして、偽書説を言われるのは、現在でも、
それら有名人がこういっているから・・・という論ばかり。
原語を真当に読み、しっかりとことの真偽を調べた方々は、
皆無と言ってよろしいのです。

また先に発表されています、いわゆる「秀真伝」のたぐいは、
研究も不十分なまま、誤訳もひどいものがあり、
とうてい認められないものです。
残念ながら、これらを読まれて偽書と思われる方も多いのです。

また研究所でも、これらの「秀真伝」を認めるものでは無いという、
見解が出されています。

投稿: びーちぇ | 2006年4月27日 (木) 06時50分

びーちぇさん。 どうも。
どうなんでしょうか?
もし善政だったと仮定したら、子孫が全員誅殺されないのでは?
何かよほど悪事を働いたのではないかと疑ってしまいますけど。

いわゆる「古史古伝」は取るに足らないもののように思われます。
というか、読む気すら起こらないです。
興味も持てないですね。


投稿: 真名 | 2006年4月27日 (木) 10時58分

初めまして。
ヲシテという狭い世界だけを見ていては、本当の歴史を知ることは出来ません。

トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 中間目次
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/mokuji.htm

このサイトに書いてある事を念頭において、トンデモといわれる説を逐一読んでみることをおすすめします。

特に、日ユ同祖論・ユダヤ陰謀論あたりを。

投稿: きっかる | 2006年4月27日 (木) 13時44分

>きっかるさま。

コメント有り難うございました☆
早速行って読みましたが、とても分かりやすく有益なサイトですね?

もちろん、これが研究の本筋と私も思うものです。
実は戦前、祖父が法律を旧制高校にて教えておりました。父も学究的な人でしたので、友人にも研究者や学者が多く、おまけに私の元夫も歴史の研究者でしたので、このような態度は、シロウトといえどもたたき込まれたものです。

ヲシテの世界は、いま呈示されたばかりです。
これからの真正な研究者が望まれております。

いまは、基礎研究がいちばん大事な時期ですので、私の楽しみとして、このサイトを開いていても、まだこれからコツコツと石を積み上げていかなくてはなりません。
本当に、ご紹介のサイトにもありましたが、
地道な職人仕事だと、私は思っております。

ですから、まだこの分野での追及が先なので、歴史を俯瞰するというのは、何十年も先になりますでしょう。
でも、それで良いのではないでしょうか。

またいらして下さいませ。
ご心配を戴いたりしたようですが、ご好意には大変感謝しております、

投稿: びーちぇ | 2006年4月27日 (木) 16時19分

そういえば、古田武彦教授(当時)が東日流外三郡誌をもちあげてたな。

ごくごくサワリしか読んでないけど、ちょっと読むだけで、現代の創作臭いとわかるような代物だったと思うんですけどね。
なんで古田氏はひっかかったんだろう?

天照大神=ヒミコだとか、耶馬台国だとか、日向族だとか、
いかにも現代人が喜びそうなネタが多かったな。
言葉も何やら新しいものが多いし、文体も現代的に思われました。

投稿: 真名 | 2006年4月27日 (木) 16時34分

意識とエネルギーの学徒としては、・・・縄文文字は、たましいをゆさぶります。

池田先生には、ヲシテフォントを提供して頂き感謝のねんにたえません。

はははははっ、なるべく縄文精神で書こうとおもっても漢字フィーリングが邪魔をします。

フトマニ図と感応しながら、みやびの精神で仕事をしておりますと、よりいっそう良い仕事ができ、患者さんにもより、しあわせになって、いただいております。

フトマニ図を毎日観ておりますが、まだ縄文意識は発動・・・やや発動しています。

フトマニ図を他方面で大いに活用していますが、まだまだ検証の段階なのでしょうね。

ヲシテの国・・・日本人の源流私なりにつっこんで行きます。

どうか、びーちぇさんも、ひるむことなく前進されることを、希望いたします。

偽書だとか、本物だとか、思考世界のはなしやろ、どうでもええやんか。

びーちゃんの直観でヲシテ文字を解釈するだけでよかですよ~~~。

投稿: せいりゅう | 2006年5月 2日 (火) 16時23分

 せいりゅうさんに同感。
 びーちぇさんはびーちぇさんの思った通りのことや考えたことを述べて下さい。でないと面白くない。

 常識となってる事が本当に正しいのかなんて分からないし、もしかしたらそっちが間違ってるかもしれない。正しいのかどうかなんて歴史が後で勝手に決めるもんですし。
 ちなみに俺はびーちぇさんの視点や考え方が好き。

投稿: どこかにある場所 | 2006年5月 3日 (水) 10時27分

>りゅーちゃん。
>どこかにある場所さま。

応援有り難うございます!

まあ、本人は・・・我が道を行く・・・にきまっておりますので、心配なさらないでね?

嬉しいことに、
この「跳ねっ返りで、頑として、思った通りのことしか書かない」とんでもない弟子を、
研究所でも暖かく見守って下さり、いけだ先生まで、時にはおしみなく、ご声援くださるという・・・何とも恵まれた状況にあります。

こういうことって、少ないよね?
でも、皆さまの応援はまた格別☆

今後ともよろしくお願いしますだ。

あ、それから、
>どこかにある場所さま
サイトに入れなくなっちゃったよ。
パスワード最近、変えました?


投稿: びーちぇ | 2006年5月 5日 (金) 11時55分

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