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2013年12月 7日 (土)

カグノキ 「トコヨノハナ」

Sora_akebono

 

カグは別名タチハナ(橘)といわれ、建国のシンボルの木なのです。

 

「カグ」は初代アマカミ「クニトコタチ」が定めた
「トノヲシテ」の象徴でもある、最も尊い木、
そしてその花を「トコヨノハナ」と呼び、国花のようなものであったと思われます。

いうまでもなく「トコヨクニ」は我が国の初の国号です。
というノリ(憲法)で治まっている国、つまり立憲君主国だったのです。

ノリという言葉は通常は法と訳されますが、
この「ト」だけは、なにものにもまして貴く、
他のノリは変わることがあっても、
これだけはクニある限り、永遠に守るべきものでありました。

 

クニトコタチはアワウミ(琵琶湖)の辺にあったご自分と、

日月の皇子(位を継がれる皇子)「ヱのクニサツチ」のミヤ、

次の皇子、トのクニサツチのミヤ(東海)、

またタのクニサツチのミヤ(東北・ヒタカミ)とに、

それぞれカグを植えられて、モノザネ(象徴)となさいました。

どの国も「ト」の、

人を思いやる心「ミヤヒ(汝の幸せのために)」を忘れないように。

カグの花のように、

いつまでもその心が香り立ち、広がっていくように。


皇子は8人いらしたのですが、全国それぞれの地方に住み着かれました。
他に、中国ヘ行かれたという「カのクニサツチ」を加えた4人の皇子以外の、
ホ、ミ、ヒ、メの各皇子たちについては、
行き先やご業績なども記されておらず、残念ながら不明となっています。

しかし特筆すべきは、
この方たちが「クニカミ」の初めであったということです。

 

 

カグの花はウタにも詠まれています。

それはあの有名なお話、
八代アマカミ・アマテルさんがイワムロに隠れられたときでした。
記紀での、いわゆる「天照大神の岩戸かくれ」の事件です。

 

この「イワムロ」も、実は祓浄めた建物という意味にも訳すことができるのが、
最近になって分かってきました。
イワあるいはイハは、斎うという意味があります。
もちろん岩、磐という意味もあり、文脈から読み取るべきなのでしょう。

 

  ※ ヲシテ文献における「イワ」と「イハ」の使い分けについて、
    私なりに調べたのですが、よく分かりませんでした。

    そして漢字時代になるとイワはほとんど見られなくなり、
    言葉をイハと書くように変化しています。

    池田先生によれば、ヲシテ文書にも
    明らかなる使い分けが出来ていない字もあり、
    むしろ、その時代は音だけが大事であったのだろうと・・・

    「アハレ」は別の例ですが、アワレと書くことは後世の漢字時代にはありません。
    よって、哀れも、あ晴れ・あっぱれも、同じに「アハレ」と書いています。

    ヲシテ時代では、前者はアワレ(哀れ)、 
    後者はアハレ(あ晴れ)と厳格に書き分けています。
    このように、字の書き方などは、時代によっても変わっていくのですね?

    また、言葉自体が変わっていくことも、ヲシテ文書ではよくあることで、
    それによって、その事件などの年代を推定できるということでも、
    長い長い年月を経てきた文書であることが、証明されていると考えられます。
    なによりヲシテ文書は、それ以前のフミをまとめ書かれたものですから、
    先行文献の、成立年代による文言の差異は、大変自然なことと思います。

    例えば「アメミオヤをマツル」も、
    クニトコタチ時代には「アメとツチをマツル」
    つぎに「アメナナフシをマツル」となり、
    アメミオヤの語は、アマテルさん時代からなのですから。

 

イワムロは、私としては「斎い浄めた部屋」と考えています。

だって、事件が起こったのはイサワノミヤですし、
わざわざ山に登って岩屋にお入りになるというのも私には不自然な感じがするのです。
それに、深く悲しみ苦しまれた方が、
そういう、アマカミしか入れない聖なる部屋に篭られて、
心を鎮められることは、考えられないことではありません。

でも、側近の方々はまるで、やみ夜に閉ざされたような思いになられたことでしょう。
何日もお出ましにならないとあれば、政ごとも滞りますし、
なによりキミのお心を想うと、みな胸が痛むのです。

 

なにしろ気にかけておられた弟ギミ・ソサノヲさんのせいで、
妃のお1人が亡くなられたのですから。

弟ギミに対しては、怒りよりも哀れみ、
そして兄としての指導に足りない所があった・・・そのような自省の念。

しかし妃を死なせることになったのです。
上に立つものとしては、私情を捨てて裁かねばならないのです。
おそらく死刑にしなければならないと思われます。

また、心から愛しておられるウチミヤ・ホノコの可愛い妹でもある、妃・ハナコ
なんのトガもない素直なその方の死は・・・ただ、ただ、哀れと胸に迫ります。

アマテルキミのお苦しみは、それはそれは深かったと思われます。

Ho7_35

 

イワムロ(浄め払った建物)にお篭りになった、アマテルキミのお心を、
みんなでお慰めしようと、ヲモイカネ(アマテルの妹婿)が歌を作り、
舞いの名手ウスメたちが、葛をタスキにかけ、粽(チマキ)をホコに見立て、
病除けのオケラ火を焚いて場所を浄め、
サユリ(ささ百合)を活けて清らかに飾りました。

伝統のナガサキ(汝ガ幸キ)は、落ち込んだり悲しんでいる人を、
慰めたり励まそうと歌い踊られる、建国以来の神聖な踊りなのです。

ウスメたちの心を込めた舞いは美しく、
ワザオキ(専門の、この場合は歌い手)の歌とともに、活き活きと続きました。

 

Ho7_38

 

「愛しいお妃さまが亡くなられた。
 でも、彼女の麗しさは、
 カグノキのように、
 カミさまになられても、
 いつだって香ってくるのです・・・」

篭られた部屋の中で、悲しまれ悩まれていたアマテルキミは
この歌を耳にされ、かすかに微笑まれました。
皆の想いが通じたのですね・・・

そして、そっと戸のすき間から、外を窺われたところを、
タジカラヲが、一気に戸を開けてしまい、御手を取って、外へいざないます。

すかさずツワモノヌシが入口にしめ縄をかけ、封じ、
「もうムロへは、お還りになりませんよう・・・」と
想いを込めて心から、申し上げたのでした。

本当に胸を打つ・・・心の繋がりあう場面ではありませんか。

 

 

このように、建国以来のミヤビの踊り歌「ナガタ」は
ナガサキ(あなたの幸福)という名前で、長く歌い踊り継がれていたのです。

思えば太古の昔から、お祀りで諸人が集うときの踊りでした。
祖先の人々は、楽しいとき、悲しいとき、ことあるごとに、
集まった、いわば人との出会いの時には、この「ナガタ」
「あなたの幸せ・楽しみのために、何をしましょうか」
と、みな共に歌い、
舞い踊って心を繋げあってきたのです。  


もうひとつ、カグノキにまつわる家系があります。

アマテルカミのウチミヤ(今でいう皇居)に、サクラカグが献上され植えられました。
これが、今に伝わる左近の桜、右近の橘の源流なのです。

Tatibana_sakura

 

献上したのは、ヤマスミ・サクラウチさんです。(本貫地は富士の南山麓)
桜の木で夫婦の結びつき具合がわかり、またカグノキに異変が起こる時には、
政ごとに何かの不都合が起こっている・・・このようなことでした。

後に、このことはハッキリと証明されることとなります。

 

そのサクラウチさんの嗣子が「オオヤマスミ」
2人の妹ヒメは「アマテルカミ」のウチミヤ(この場合は皇后)ムカツヒメ・ホノコと、
同じく妃になり、ソサノヲさんの乱暴による事故で、亡くなったハナコです。

オモイカネさんは、ハナコさまのことをナガサキのウタで、
亡くなられても、想い出はカグの花のように香っていますよ・・・
と詠われたのですね。

ホノコさん、ハナコさんの兄であり、ヤマスミの嗣子であったオオヤマスミは、
後に相模平野の高台部を開墾し、シンボルとしてカグノキを植えました。

そして、ここを受け継いだのが、前エントリに出てくる末の御子「マウラ」さん。
以後代を継いで皆、タチハナノキミと呼ばれるようになったそうです。
そしてずっと後の子孫が、カグモトヒコさん・・・と、こうなります。    

Ho24_111_2

 

この地を偲ぶのが神奈川県厚木市の小野神社です。

祭神はヤマトタケさまなのですが、
明治以前は「閑香明神社」という名前で、祭神も違っていたとか。
けれど、まことカグノキの由緒にも、ふさわしい神社名だったとおもいます。

ですから古社はオオヤマスミ、マウラ、またこの系統の方々と、
もしかしたら、縁のあったヤマトタケさまも、共に祀っていたのかも知れませんね。

 

タケさまは「オノのモトヒコ」さんの城に先陣を置き、ヲトタチバナさんを預け、
反乱軍と戦われたということと、この神社の古名、場所は合致しています。

Ho39_21_1

 

ホツマクニの「カグモトヒコ」を味方に留めるために、
ヲトタチバナヒメ(モトヒコの孫で、ヤマトタケの妃)とホズミテシを、
またサクラネマシ(モトヒコ嫡男)を、先に実家へ使わしました。
そしていよいよ出陣なされたのです。

この作戦はうまく運び、
ヒタカミの敵方も
、なんとかモトヒコを味方へつけるべく招いたのですが、
首を縦に振らなかったと記されます。

そして

Ho39_22_4

相模の小野にあるモトヒコのミヤを本営となして、
(ホヅミ)テシ、(サクラネ)マシらの武将が、モトヒコと共に守りを固めた所へ、
エミシ(賊軍をいう。アイヌでは無い)が攻め上ってきて、取り囲みました。

この後は、ヤマトタケさまの奮戦になりますが、それはまた、後の機会に。


 

 

さて「カグ」は、最初に書いたように、橘・柑橘類だと思われますが、
クニトコタチが「カグ」を植えた東海にある美しい山を、
その時以来「カグヤマ」と呼ぶようになりました。
後の「ハラミヤマ」現代では「富士山」です。

ハラミヤマは、イサナミさまがこの山の上でミソギをなさり、
日嗣の誕生を祈り、そしてアマテルさまを孕まれた由来によるものです。

 

アマテルの孫、10代アマカミ・ホノアカリ(アスカオキミ)さんの時は、
もう山のお名前が「ハラミヤマ」と変わっていました。

そして、この方がアマカミの御位をお受けになり、
首都をアスカに移された時に、
そこのお山にも、懐かしく床しい古名を付けられたのですが、
それが今の「アメノカグヤマ・天香久山」です。

ホノアカリさんは伝統を重んじる方だったのでしょうね。
お名も「カグヤマオキミ」の別名があります。                                            

Mikan_hana_1
                                   ミカンの花

 

最後に。

「カグノキ」はどういう木であったか、未だに分かっていないそうです。

でも八代の「高田ミカン」という、小っちゃなミカンを思いだしました。
鹿児島でも同じ種の「コミカン」がありましたが、
他の地方では見つからないのではないかしら・・・
それとも八代のように、流通には乗らないで、地元の人だけが食べているのかな?
ピンポンボール位の大きさで、とにかく香り高く、甘いのです!

最近になって、同じ熊本県人吉の、山の中のある集落には、
この小ミカンの他に、原種に近いと思われる、
「カグ」と呼ばれるミカンがあるということを知りました☆

味はやはり、小ミカンよりは甘味も薄いそうですが・・・
今、なんとか苗木を取り寄せようと思っています。

イサナギ・イサナミも、全国を回り、行く先々でカグを植えられたそうですし、
イサナギの曾祖父さまは、ツクシ(九州)をまかされ治めていらしたので、
もちろん九州にもカグは植えられたと私は思っています。


【おまけの追記】

本日(6/17)になって、
熊本県八代市高田のコミカンはたいそう由緒が古いものだという記事を見つけました。
伝説にはなんと、タジマモリさんが出てきたりして?!

まあ、記紀以後の記録を元にしていますので、
タジマモリさんの話は創作でも、
もっと優れた品種が後に伝わったということは、うなずけます。

研究所の見解では、ヲシテに書いてある「カグ」「タチバナ」は日本固有のもので、
柑橘類としても極めて耐寒性に富むものであったろう・・・
すなわち、いわゆるミカンとは違うのではないかということでした。

記紀においてさえ、不充分な記述ですが、
タジマモリさんより遥か古の古来のものとして書かれています。

【伝説、伝承】

田道間守(タジマモリ)の“橘”導入伝説は景行天皇(西暦71年即位)の時代であるが、
それ以前の神代に「橘」の存する記述がある。
それは記・記すなわち、古事記神代記上巻、又日本書記巻之一である。
      

さて、伝説というのは、全国に似たような話が多いのであるが、
和歌山の蜜柑栽培史に大きな影響の出てくる熊本県八代市のみかん伝来を調べてみると、
八代においても「田道間守伝説」がある。

経緯は和歌山と同じであるが、田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、
その皇子、景行天皇(西暦71年即位)に苦労して手に入れた橘を献上しようと、
当時都から御征西中の天皇をはるばる肥後の国まで訪ね、
高田(八代市こうだ)付近でようやく巡り会って、「橘」を献上後自決した。
景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた「橘」を植えられた。

この橘が後年、
有田市糸我の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん(小ミカン)」であるとされている。

【八代にもたらされた橘の正体は】
紀州蜜柑は肥後八代蜜柑との関連を抜きには語れない。
では八代高田(こうだ)にもたらされたのはどんな柑橘であったのであろうか。
とにかく、日本にはなかった柑橘が中国には多種多様にあり、
朝鮮半島との交流の地の利は九州の西部にあり、遣隋使・遣唐使の発着場も同地方である。
みかん栽培について、今、大方の意見としては、
柑橘導入、育成失敗を繰り返しながらも“ある規模で栽培”されだしたのは、
”肥後の国八代郡高田村(現八代市)”であったと考えられている。

その品種は中国の浙江省から伝来した「小ミカン」である
昭和12年6月に、樹齢800年のコミカンの古木が大分県津久見市青江にて現認され、
文部大臣から天然記念物に指定されている。また、鹿児島県肝属郡にも同様の古木があったという。
ということから推測すると、小ミカンは12〜13世紀には肥後八代を中心に鹿児島・大分等で栽培が広まったと思われる。

http://www.mikan.gr.jp/report/kigen/page2.html

 

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コメント

‘かぐのきを えんとおもえば … としふりて’
『ホツマツタヱ』(39-18)
‘かぐ’の樹を、求めに行った、その難行について追想します。
よほどの、気構えがなくては、遂行が難しかったのでしょう。

投稿: いけだ みつる | 2006年6月13日 (火) 17時58分

今日は サユリ(ささゆり)にまつわるお話を大変楽しませていただきました。
ありがとうございます。

投稿: ☆みっちゃん☆☆ | 2006年6月13日 (火) 20時39分

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 思うところがあるのでトラックバック。 びーちぇの「ヲシテのクニ」−カグノキ 「トコヨノハナ」− http://julian.way-nifty.com/woshite/2006/06/post_caf2.html  本来ならば天岩戸開きの部分に感動するべきなのだろうが、気になったのは最後の部分。  ミカンについてのところ。  中村天風の本を読んだのだが、そこに面白いことが。  食事についての話なのだが、人間とは本来菜食でも肉食でもその雑食でもなく、果物を食べて生きている生物だという。言わ... [続きを読む]

受信: 2006年6月17日 (土) 07時09分

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