ヲシテ文字が消されたわけ その4 ヲシテにチカヒ
「ヲシテ文字が消されたわけ」と、
こうして思いをはせ、がんばって記紀を読みつつ、
書きつづっているのですけれど、
とにかく、まずは、自分で納得できる・・・筋を、
なんとか発見したいと思っています。
それで浮んできたのが、この言葉です。
ヲシテ二 チカヒ (ホツマツタヱ 8−75)
「トのヲシテ」に逆らう者は、建国以来、罪とされてきたのですが、
それでも改心して
「ヲシテに誓う」ならば、許されてきたという歴史があります。
人によっては、その後の誠実さと努力、そこからの功績によって、
アマキミのお側に侍り、学ぶことを許されたケースも。
かのハタレの大乱を起こした首領たちの1人「ハルナ」は、
後に熱心に、アマテルカミの下でミチを学んでいたようです。
その方言は、なかなか面白いけれど、
私にとって理解するのは困難なものがあるのが、ちと残念です。
また、
「カダノミコト」の口添えもあって、許された狐憑きの「キクミチ」の大族。
その後「カダノミコト」の眷族となり・・・
つまりあの「お稲荷さん」と、お使いと言われる「お狐さん」になったのです!
で「眷族」というのは、けっして家来になったわけではありません。
でも各自の自覚のもと、世々末代に至るまで、
人知れず田や畑の虫を払い、獣を払うという仕事をなすとヲシテに誓ったのです。
そして、彼らについてはカダノミコトが責任を持つ、
つまり教導するということだったのでしょうね。
誓いを破ったら、もちろん滅ぼされることになっていました。
かくして「カミノヨ・祖先の世」は、乱れている時でさえ、
「トのヲシテ」というノリ(法)の筋が、きっちり通っていて、
ゆるぎがありません。
それは建国以来、歴代のアマカミさまたちが、
本当に自分を捨て「タミオ ヤワス」国民を和やかに、幸せにする・・・
という目的のためだけに、
生涯を捧げられてこられたからだと思うのです。
自分の幸せより、国民の幸せのために働く。
他が幸せであることが、ご自分の幸せなのです。
これが「ト」といわれる建国以来の、
最高法の指し示すことでありました。
まともな親であれば、みな察しが付くことでしょう。
(昨今は残念なことに、だいぶ変わってきましたが!?)
子供が幸せなのが、親の本当の幸せなのですよね?
で、連れ合いが幸せそうにしていることが、妻の幸せ。
自分の思い通りではなくても、好みでは無くても、
それは横において、子供のため、連れ合いのため、
我を忘れて頑張った揚げ句に、
皆が信じ合い、ニコニコと和やかに過ごせるならば、
どんな苦労も我慢もふっとび、本当に嬉しいものです。
しかしそれは、決して相手を甘やかしたり、おもねることではありません。
本当の幸せのためには、決然たる威き心が必要です。
自らを鑑みながら、
自然の理にそった判断や行動を為すことが要求されます。
これこそ、トのヲシテを支える、ロのヲシテなのだと思います。
故にこそ、キミのなさることが理に適わぬ時に、諌言するのが、
トミの重要な役目でありました。
【アヰサ】
アのヰサメ キミはトミあり
ヲヤはコの トモにタカラの
メクルナリケリ
と、フトマニには記されています。
アのヰサメとは、アメ(ミオヤ)・・・自然法則のコトワリから来る、
理性的な良し悪しの判断なのです。
そしてまた、いちばん大事だと私が思う言葉。
ヒトナルミチハ トオモチヒ
ソノモトハ ロテ (ホツマツタヱ 18−22)
長年文献を研究されている、池田先生はこの個所を、
こう解説して居られます。
※ 池田先生の書『モトハ ロテ』
「ここでのロテ、つまりロのヲシテの意味合いは、
トのヲシテの成立への前提条件についての提示にある。
ミヤビの心をもって他の人へ(良い)事を及ぼそうとした時、
まずもって自分自身の自立が成り立っていなくては、
なにごとも成就できるはずもない。
トの基(もと)には、ロがある。
アマテルカミのお考えには、筆者はいつも敬服するところである。
ロ(ろ)、とは詰まるところ、現代的な表現であらわすと、
自立・自主責任・自主独立の精神、
あるいは自分自身のアイデンティティと言えるのではあるまいか。」
このように、
日本の最も大事な、心の伝統として、
トノヲシテと、それを支えるロのヲシテこそ、
変わらないものであるし、
変えてはいけない絶対の掟なのだと思いました。
そう。
日本の心とはこれ。
日本の伝統とは、これにつきるのではないでしょうか。
それなのに、ヲシテ時代が終わった後の
記紀に書かれている世の中は、
もう、ムチャクチャなありさまになっています。
皇位を、権力と思い違いし、利権を求めて殺し合う人々。
日本書紀を、古事記を信ずるならば、
天皇さまも皇子さま方も、例外ではないのが悲しい。
あの名君、12代景行天皇さまの2代後から、
それは始まっているごとく書いてあります。
本当なのでしょうか?
真相は闇の中なのですけれど、
約500年後(記紀成立時)の解釈としては、そんなことも当たり前であり、
筋は通っていると考えられたのでしょうね。
それほど、その時代は酷い世の中に変わっていたのです。
では、ヲシテの記録が終わった景行天皇さま以後、
記紀の何が信じられるかということですが、
少なくとも、あったことを拾い出すことしかありません。
つまりは、
何月何日に、新羅からの使いがあったとか、出兵したとか、
だれだれが、勅により死を賜ったたとか。
地震があった、作物が日照りで飢饉となった。
疫病で国中の人が死んだ。
熊襲が税を納めなかったので、だれに命じて討伐し、
何日に帰還した・・・とかの、事実の記載のみです。
まあ、生まれた、死んだというのは、理由はどうあれ、
ごまかしにくいのでは、と考えています。
その事象をもとに、
どのようにして、またどんな理由で、
世の中が、人の心が、変っていったのかを
考えて、推論していくしかないのではないか。
私の結論は以上のようなものでした。
しかし、アマテルカミの御世の、ハタレの大乱も、
ささいなこと・・・アマテルさまが後に自省と共に述懐なされた言葉、
「ヒトシズクヨリ ナガレマシ」ということで、
はじめは、ヒトシズクの水滴に例えられるような、地方官の不正事件。
そして、アマテルさまのキサキのお1人の恨み、嫉みからはじまり、
後の8年にもわたる、全国的な騒乱を招いてしまった訳でしたから、
ほんのちょっとのことを見過ごすというのは、
事と次第によっては、大変恐ろしい結果を生むのですね。
もしかして、
仲哀天皇さまの御世にも、
この水のヒトシズクのような「ささいなこと」が起こり、
見過ごしたのではないか。
私にはそのようにも思えるのです。
畏れ多いことではありますが、その始めが、
異母弟君、アシカミカマミさまの勅殺にあると思うのです。
いくら御父のヤマトタケさまをないがしろにし、
献上品の白鳥4羽を奪っただけで、いきなり死を賜るなんて、
何とも感情的で、理にあいません。
またその早世の後、スヘラギ崩御を隠しての、皇后さまの新羅出兵。
これは、ますますおかしいです。
仲哀さまが反対であったことはハッキリしていますから、
誰かがお命を殺めたという説も、あながち嘘とも思えないのです。
ことによると、大陸の珍しいお宝が欲しかった・・・?
皇后さまの一派は、物欲にかられておしまいになったのかもね。
以上はまだまだ、無邪気な推論です。
もっと、掘り下げて見ると・・・
そこには、新羅の血を引く勢力との争いがあったのではないか。
そのようにも思えるのですが。
半島との外交は、
ヲシテ時代では大らかなものだったようです。
初めての渡来の人の記録は、紀元前56年、
ヒトノヨの10代・ミマキイリヒコ(崇神天皇)の御世。
その39年、新羅の皇太子アメヒボコガ弟チコに位を譲り、
我が国の治世を慕って渡来、帰化しました。
キミは望むままに、好きなところに住むことをゆるします。
つれてきた供のものや、陶工たちは、近江のハザマタニへ住み着き、
ヒボコはその後、イズシマのフトミミの娘マタオを娶りました。
そしてその子モロスケは、お召しを受けてトミとなり、
11代のイクメのキミにお仕えするようになったのです。
このアメヒボコから四代後が、心の通いあったキミに殉じた、
あの忠臣タジマモリであり、
その娘は、ヤマトタケの愛妻ヲトタチバナなのです。
その後19年経って、今度は加羅国の皇太子ツノガアラシトが来日します。
加羅とは古く三韓時代には卞韓と呼ばれていたようで、
いまの釜山あたりを中心とした国でした。
その東には新羅(辰韓)また西には百済(馬韓)があり、
加羅国はその間にはさまれた立地なのです。
5年後帰国のおりには、ミマキイリヒコのお名を、加羅国に贈っています。
しかし、この皇太子帰国の時の土産物を新羅に奪われたと、
加羅、新羅両国は戦争状態になり、
ミマナ(加羅国)からの要請により、ミマナ ヲシ(援軍のようなもの)を遣わされ、
そして、ヲシ(勅使)のシホノリツは、無事平定に成功して帰国しました。
後、ミマナからはミツギが届きます。
しかし、いま考えるような属国としての貢ぎでは無さそうです。
感じとしては、お礼?・・・みたいな気がするのですが。
だってね、1回だけなんですもの。
ミマナからはもう1回、次の11代イクメのキミのご即位の時、
ミツギを上げ、祝いを述べにきています。
公式な記録は以上なのですが、
民間レベルでの行き来は、あったと思います。
なにしろ、九州からは近いですから・・・
でも、それは特筆すべきことでもなく、日常のことだったでしょう。
なにしろ、我が国はおおらかで、
来るものはこばまず、去るものは追わず・・・のようでした。
不都合が起こらなければ、良かったのですね?
以上のようなことを勘案すると、
まず仲哀さまが、海の向こうに豊かな国があることはご存知のはず。
すでに新羅の王家の方が、230年以上も前ながら、
この国を慕って帰化しているのです。
そして、朝廷の重臣になられた、その子孫のタジマモリのことは、
100年位前で、有名な方ですから、しっかり覚えておいでのはずです。
今で言うなら、やはり殉死された乃木将軍のような存在なのですから。
異母兄弟が、母方に、その血を引いていることも・・・!?
さて、もう一つの背景。
皇位がだんだん重いもの、いわば力が強力なものとなっていた、
そういう事実も読み取れます。
例えば、天皇さまの御陵ですが、
第9代・フトヒヒ(開化天皇)さまから、目立って大きく、
直系が100メートルを超すものとなっているのです。
実に神武天皇さまの3倍の大きさです!
いうまでもなく、立派で大きな御陵を作ることは、
民の負担も大きくなっていたと推察できるわけですね?
さらに、もう一つの精神的な要因は・・・
世の中の平和ボケではないでしょうか?
欠史8代といわれている、その前の方々の御世は、
まことに平和で、ゆったりと過ぎていったように思えます。
ヲシテ文献でも、記述は少ないのです。
その中の7代フトニ(孝霊)さまのくだりだけは、ちょっと面白い。
なんと、御年80才を超えて、ハラミヤマ(富士山)に登山されています!
ハラミヤマ ヒトフルサケヨ
フジツルノ ナオモユカリノ
コノヤマヨコレ 第7代スヘラギ オオヤマト フトニ 御製
(ホツマツタヱ 32−4)
フトニさまは、献上されたこの山の絵を見られてから、大へん興味を引かれたようです。
古事にも思いをはせ、尊んでおられたとか。
そうですよね・・・イサナギ、イサナミもこの山頂で
世継ぎを求めて祈られたのですから。
アマテルカミを象徴しているかのような、聖なるお山なのですよね。
そして、このお山に登るのが、フトニさまの念願になりました。
御位をお譲りになって後の、生涯1度の登山を記念して、
その時捧げられた藤の花から思いつかれて、
このお山を「フジノヤマ」と、新たに命名されたのです。
なんだか・・・ほほえましく、そして平和ですよねえ☆
この方は他にも、
3つ子が生まれた時、どの子もアメから戴いた尊いタマなのであるから、大事にするようにと、
迷信を信じて間引くなどの当時の習俗を、古事を引きながら禁じておられます。
カミノヨの名君ニニキネさまの皇子も三つ子でしたし、
それに、このフトニさまのお子にも三つ子が生まれたのです・・・
暖かい、良いお方だったのですね?
そしてこのような、穏やかな500年もの平和は、
幸せに馴れてしまい、
もしかして、タミやトミなどの、
現状維持や、贅沢や、怠惰や、ことなかれなどの、
マイナスの心持ちを、いつしか育んでいったのではないでしょうか。
上記のフトニさまの御世にも、
既に迷信・・・シャーマニズムが入り込んでいますもの。
また、知られず、私腹を肥やしていたりも・・・あったかもね?
そして崩御のあと、御陵を大きく造られ鎮まられた9代・フトヒヒさま。
ご生前、諌めを奏上した重臣の言葉を取り上げられず、
前帝の妃を、皇后になさっていますっ!
これは、義理の母上ですから・・・・タブーを恐れぬ、とんでもないこと。
キミという御位では、ことに人倫にもとることや、自侭は、
今まではありようもなかったことです。
ひたすら国が安らけく、皆が心1つに、幸せであることだけを考えて、
己を捨てて生きられるのが、キミであり、アメナルミチでありましたから。
この三輪の臣は、この故に職を辞し隠遁しています。
この方の裔が後に、再度召し出され、大神神社の斎祇を司られることになり、
またヲシテ文献の1つを編纂し、景行天皇さまに捧げた、
重臣オオタタネコとなるのですが。
このように、ほんの少しづつ、
ヲシテの精神は薄まっていったのでしょう。
キミ御自ら、それに気がつかれ、建て直そうと努力なされたのが、
10代からのスヘラギさま方でした。
しかし、1度変わっていったものを正すのは、
本当に難しいものなのでした。
そのゆえか、キミも悪人に対しては、
たいへん厳しく当たられるようになります。
最初から反省して、従うのならともかく、
戦いになると、もう降伏しても許されることは殆どなく、
勅殺されるのが常となりました。
こういう時代背景を踏まえながら、
仲哀さまの事件や、神功皇后の新羅遠征、何度もの討伐を考えると、
見えてくるものがあるのではないでしょうか。
この場合は、朝廷の権力を半島にも広げ、利を得ようとする皇后派と、
良き日本の伝統の「トの精神」を守ろうとする、(ゆえに)新羅同情派。
これは異な考えのように思えますが、
帰化した新羅の人々は教養あふれる、血統も正しき誠実な方々。
大陸の「力の王権」というものを嫌い、
穏やかで、理の通った聖なるスヘラギの国の人になりたいと、
地位も特権も捨ててやって来られたのです。
だからこそ、伝統的なアメナルミチには、特に忠実な方達であったのは、
充分に納得できると思います。
まるで乃木将軍のような、タジマモリ派とでもいいましょうか。
現代では金美齢さん、石平さん、ラモス瑠偉さん etc.
本当に日本の国を愛し、我が国を護るために全力を挙げておられます。
また、王貞治さん。
日本を愛し、また父の国、中華民国(人民共和国では無い!)を
愛しておられますよね?
しかも新羅は一族の故里の地です。
一方的な侵攻には、大反対しているはずだと思うのです。
おそらく、ご皇室も重臣、豪族たちも、
この2派に分かれ争ったのではないかと、私は思うのですが。
仲哀さまの異母兄弟アシカミカマミ、皇子のカゴサカ、オシクマ両皇子の勅殺。
そして、実は仲哀天皇さままでも、
皇后さまを擁する、新羅侵攻派によって弑殺されたのではないでしょうか。
そして天皇さまの死は、新羅侵攻が終わり、皇子が生まれるまで隠されました。
それは、この時とばかりに反対派が立つのを防ぐためではなかったか。
皇后さまが世継ぎを産まれなかったら、
やはり仲哀さまのお子である、兄皇子のカゴサカさま、オシクマさまのどちらかが、
皇位を継がれることになるでしょうから。
「神功皇后さまの」皇子は、生まれなければならなかったし、
新羅は、連帯しようとする勢力を押さえるためにも、
叩かなくてはなりませんでした。
そして、その後、
儒教思想が我が国に入ってくるのです。
これをめぐって、国はまたもや激しく、
血腥く、揺れ動いたのでした。
(完)
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
アシカミカマミの皇子(みこ)のこと、
しっかりとお解かりのこと、嬉しく、
本当に、嬉しく存じます。
「トのヲシテ」を現代に復活させねばならない!
この、目標に付きまして、少しでも広がるような、そんな予感が致します。
投稿: いけだ みつる | 2006年5月 4日 (木) 06時05分
邪馬台国については、どう思われますか?
神功皇后は、邪馬台国の卑弥呼ともトヨとも言われるお人です。
(どちらか一方に決められないのが、日本書紀の厄介な所です。)
投稿: きっかる | 2006年5月 4日 (木) 17時42分
ヲシテの研究は、まだ当分かかるのでしょうね。
でもそれまでに日本が持つのでしょうか。
わかった分だけでもコミックのような形で『ヲシテ物語』としてヲシテの世界を子供たちに伝え、普及させることが出来ないでしょうか。
投稿: J | 2006年5月 5日 (金) 13時54分
>いけだ みつる先生
しかたのないことですが、
「ヤマトタケ」さまの為に、命を捧げられた「ヲトタチバナ」さまのお産みになられた皇子
「アシカミカマミ」さまが、生きていらしたら・・・などと、考えてしまいました。
他にもお2人の皇子はたくさんいらしたはずですし・・・
母上が異なる仲哀さまも、そのご兄弟も、いったいどうなってしまったのでしょうか?
どうやら、この件では、仲哀さまに濡れ衣をお着せ申したように思えて仕方がありません。
記紀のでっち上げには、なんとも言葉も無くなってしまいます。
投稿: びーちぇ | 2006年5月 5日 (金) 14時05分
>きっかるさま。
邪馬台国、卑弥呼などというのは、
「魏志倭人伝」からのものです。
漢字以前には文化が無いとされ、ヲシテ文献なども消されてしまったために、
中国の文献を頼りにしたのですね?
しかし、言うまでも無く、かの国は中華思想の国ですから、王朝が変わるたびに歴史は書き直されています。
また、自国以外はみな未開の土地であり、野蛮人と見なしておりましたから、ちゃんと調べて・・・あるいは根拠があって書いた記事は少ないと思います。
つまり、どーでも良かったわけです。
自分の国は素晴らしいぞ・・・という、ただ、それだけの意図で書かれていますから。
邪や、卑の字を当てていることが、その証拠ですね。
で、遣隋使、遣唐使などの時代になって、我が国からの留学生が何年も滞在するようになって、各時代の統治者のお名は伝わっているはずなのに、以後の歴史書には、あいかわらず、適当にでっち上げたお名を挙げているのですよ。
それに、間違えたと思っても、書き直そうともしない。
つまり、ここでも「どーでもいい」「眼中に無い」のです。
というわけで、
魏志倭人伝ほかの中国の歴史書は、参考には出来ても、論証に使えるものではない。よって、取り上げる価値はないと私は思っています。
投稿: びーちぇ | 2006年5月 5日 (金) 16時01分
>Jさま。
きっと、お若い方だと推察しておりますが・・・
今は何より焦らないことではないでしょうか。
それまで、日本が持つかどうか・・・
これは、本当に大問題ですよね?
でも、私などは、それよりも、
真実を伝え続けることが、大事ではないかと。
今の情報は、マスコミなどで作られたものが大部分です。
特に都会ですと、そんな気になってきて、不安が増すように思います。
古き時代にアマカミがおっしゃったように、
「分からなくなったら農に帰ることが、大事」
と、私も信じるものです。
私は九州の農村地帯に住んでいるのですが、
まだまだ質実で、昔ながらの日本の心を感じております。
以前、鹿児島に住んだ時にも、時間が50年は戻った気がしました。
古き良き日本の心が感じられて・・・
ですから、じっくりと今しなければならないことを、やり続けるしかありません。
これは、農の心です。
台風があろうと、日照りだろうと、めげることなく、
種を播き、育てないと、収穫は望めないのですから。
ご提案戴いた、コミックなんか、良いですねえ・・・
ヲシテ文献の内容が広まっていけば、きっとそういう方も出てくることでしょう。
そのためにも、
今は大事な基礎を固めなければと思います。
間違って伝えられたら困りますものね?
投稿: びーちぇ | 2006年5月 5日 (金) 16時25分
お答えありがとうございます。
正直、ヲシテを歴史として証明しようという気があるのか疑います。
宗教と言われても仕方ないですね。
>参考には出来ても、論証に使えるものではない。よって、取り上げる価値はない
これは、ヲシテも同じですね。
以前の記事で、噂だけでヲシテを否定する人を批判していましたが、
それと同じ事をしているのを分かっていますか?
投稿: きっかる | 2006年5月 6日 (土) 11時55分
>きっかるさま。
立っている場所が違えば、見方も異なって参ります。
私の立場は、日本書紀、古事記の元となった文献が発見されたからには、それを元に考えるべきというものです。
魏志倭人伝は、なんといっても、この国のものではありません。
陳寿(233年 - 297年)の書いた、三国志の中の「魏書」東夷伝倭人の条に、邪馬台国など当時の日本についての記述があり、
日本では「魏志倭人伝」と呼んでいる訳ですよね?
仮にこれを、彼の国で分かる限りのことを著述したとしても、たまたま見聞した話ばかりではないかと思われるのですが・・・
内容を読んでそう思いました。
さて、この時から時代は下って、
遣隋使、遣唐使などの記録が日本書紀などに現れます。
そして、書きましたように長期間の留学生も現れます。
空海もその1人ですね。
また、一生を彼の地で、唐の玄宗にお仕えした、安倍仲麻呂なども出てくるわけです。
ちなみに、彼は最初、唐の宮中の図書を司る官職の秘書監でした。
やがては、次の唐皇帝からも深く信任され、光禄大夫・御史中丞から北海郡開国公にまで出世しています。
故に、政府高官や高名な文化人との交友も深かったわけですから、故国日本のことも正しく伝えているはず。
しかし「旧唐書」「新唐書」「宋史」の日本伝には、なんと書いてあるか。これが、かなりいい加減なものです。
たとえば、統治者の名前として、
「初主号天御中主。次日天村雲尊。其後皆以尊為号。次天八重雲尊。次天彌聞尊。次天忍勝尊。・・・」
2番目なんか、アメノムラクモって、剣の名みたいな・・・?
けれども、次の元の時代、元史(1310〜1381)も同様の書き方です。
このようなことから浮んでくるのは、
やはり、
日本のことは、分かっていても、
本当の事を書き残したくは無かった・・・という結論になります。
あくまで、辺境の劣等国として、記しておきたいのですね。
この中華思想は未だに続いています。
中華人民共和国、および韓国、北朝鮮の歴史の教科書などを読んでみて下さい。
以上のことを考えれば、
あちらの歴史書といわれるものの性格が分かると思いますが・・・
投稿: びーちぇ | 2006年5月 6日 (土) 13時58分
ヲシテには、邪馬台国時代の事は、書かれていないのでしょう?
どうやって元にするんですか?
たまたま見聞きした情報であっても、憶測でものを言うよりはマシだと思います。
投稿: きっかる | 2006年5月 6日 (土) 20時18分
>きっかるさま。
ごめんなさい。私の書き方が悪かったかもしれません。
ヲシテ文献は、宇宙の成り立ちなどの独特の哲学から、人類の誕生、日本の建国にはじまり、
カミノヨ(祖先の世)から、カンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て、12代スヘラギ・ヤマトヲシロワケ(景行天皇)の57年までの国史となっております。
そして、それを日本書紀、古事記と一字一句比べると、この部分が全て、ヲシテ文献を元として、目的に合わせ、削ったり、書き加えたりして、書かれていることが、はっきりわかるのです。
しかも、漢字に翻訳される過程で、いちじるしい誤訳が生まれ、内容も変質しております。
記紀を合わせても、ヲシテ文献の半分くらいの字しかないのですよ!
それだけ、内容も削られているわけで・・・
むしろ、ヲシテ文献を片手に記紀を読めば、その時の情勢や、意図までがハッキリしてくるのです。
>邪馬台国時代
とされているのは、紀元250年前後でしょうか?
ヲシテで書かれた歴史は、そのまま(書き方がおかしいとは言え)
日本書紀という国史に引き継がれております。
そしてそこには、邪馬台国、卑弥呼などの記述は見られません。
同時に他の事柄も、書かれてはおりません。
なんといっても(意図的に編纂されたとしても)日本で書かれた「国史」の記述は、
第一に尊重されなければならないのではないでしょうか。
エントリでも触れていますが、その大きな流れを見ていくならば、皇位争い、半島出兵などは起こっているものの、国中が小国に分裂したことは、未だかつて無いのです。
また、豪族といえども、中央とはいつの時代も結びついておりました。
むしろ建国以来、中央から派遣された人たちが、各地に住み着いた方が多いのです。
魏志倭人伝などの記述は、こういう日本という国の特殊な成り立ちを知らず、また、理解できない人たちが書いたものと思われます。
大陸では、まず集落が出来、部族が生まれ、小国家が生まれ、より強い国が他国を征服、支配していくという構図です。
しかし、日本はそうでなかったのです。
ですから、現在でも世界でも違った思考法や、性格を保っているのが納得できるのですが。
投稿: びーちぇ | 2006年5月 6日 (土) 22時47分
>参考には出来ても、論証に使えるものではない。よって、取り上げる価値はない
>これは、ヲシテも同じですね。
>以前の記事で、噂だけでヲシテを否定する人を批判していましたが、
>それと同じ事をしているのを分かっていますか?
考え方は人それぞれだから、びーちぇさんのような考え方の人がいても問題ないでしょう。それとも、邪馬台国や卑弥呼をとりあげないといけない理由でもあるのでしょうか?
>>魏志倭人伝ほかの中国の歴史書は、参考には出来ても、論証に使えるものではない。
>>よって、取り上げる価値はないと私は思っています。
という考え方に何か問題でもあるのだろうか? 魏志倭人伝に対する態度の一つとして何一つ問題ないと思えるのだが。
ま、それはそれとして。
古代において、反逆者と言われた者にも復活のチャンスが与えられていた。この辺りは日本的という感じがします。厳罰などもあったのかもしれませんが、どこかで許される、あるいは水に流すという部分が残されているのが某かの救いに思えます。
悪いことは悪いとして悪行は許さないにしても、それで更正の機会を奪うことがないのは日本の持つ穏やかさの表れなのでしょうか。こういうのが何とはなしに伝わっているのが良いところですかね。
投稿: どこかにある場所 | 2006年5月 6日 (土) 23時32分
私は、ヲシテを否定したいのではありません。
むしろ、ヲシテがきちんと研究されることを願っています。
記紀の原書というだけでは、記紀とともにでっちあげである可能性が残っています。
そうではないと、言えるだけの検証がなされているとは思えません。
邪馬台国を持ち出したのは、倭人伝の記述が神功紀に引用されており、
それをを無視するのは、不自然だと思うからです。
中国史書の批判に、神の名前を挙げておられますが、
唐の時代ですから、原典は当然「記紀」です。
それに、中国側が卑下するつもりなら、「天」という字は使わないはずです。
それから、たまたま見聞きした話というのは、歴史にとって貴重なものです。
官のお仕着せではない庶民の生活を知る事が出来ますから。
投稿: きっかる | 2006年5月 7日 (日) 12時04分
>きっかるさま。
丁寧なお返事有り難うございます。
ですが、どうも歴史を観る視点というもの、その目的も含めて、
貴方様とは、まったく違っているように思います。
記紀の原典であるということは、やはり三書比較を自分でやらなければ、
確信は得られないと思います。
私が書いていることをふくめて、また聞き、また読みでは信じられないというのは、
当然でしょう。
私も現在、日々三書比較に取り組んでおります。
そして、ますます原書であるという確信はゆるぎなく、強くなっております。
このサイトにも紹介してありますが、ぜひ、
『定本・ホツマツタヱー日本書紀、古事記との対比』をお読み戴き、
お調べ戴きたいと願うものです。
日本書紀・古事記の当該個所の全文が、原文で書かれています。
また、ヲシテでの全ての原文が、あらゆる写本の校異と共に記されているものです。
また私の立場は、大陸思想とは違った日本の独自の思想、アイデンティティーを見つけるため、古代史に取り組んでいるわけなので、
基本的には、大陸との交流以前の独自の世界観、哲学を学びたいと思っています。
これがまた、古代ヤマトコトバの解明を含め大仕事なのです。
よって、ヲシテ文献以後の世界への興味も、時間も、
殆ど無いといっても過言ではありません。
ですから、カミさまのお名前は、私にとって大問題!
カミと讚えられた、祖先の方なのですから。
国はどうしてできたか、その統治はどのような理念でなされたか・・・
それを知るには、やはり歴代の統治者と、その治世をたどっていくわけです。
ただ単にある時期の、ある一部の国民のことではなく、
どういう世の中であったのか、それはどういう訳でそうなったのか・・・
むしろ、思想や心の流れをたどっていきたいのです。
>中国史書の批判に、神の名前を挙げておられますが、
>唐の時代ですから、原典は当然「記紀」です。
これも、記紀とはまったく違う名前が書いてあります。
いったい、どこから持ってきたの?と言いたいようなお名なのですが・・・
天という字を使ってくれていても、一応は統治者のお名なのですからね。
それに、倭の女王の名も勝手に命名してますし。
非常に周到に貶めているのではないでしょうか?
一方書記では確かに、魏志倭人伝に曰く・・・という記述があります。
しかし、それだけ。それに対する、日本側の記述が無い。
当時は何だって中国が優れていると思い込んでいるわけですから、
まあ、そんなこともあるでしょう。
しかし、情けないものがあります・・・
などと、私の興味というのはそこにはまったくないのです。
外国からの視点で、日本を眺めるのはおかしいと思っているのですから。
また、今回異例としてヲシテ時代以後を書いているのは、
文献が消され、文字が無かったということにされた、その道筋を考察するためだけの理由です。
これも、子細に日本書紀、続日本紀を調べると、さりげなく書いてあるもので。
きっかるさま。
お気を悪くされたかも知れません。
でも、貴方のことを批判しているつもりではないのです。
でも以上のようなことが私の本音ですので、
「ああ、考えが違うのね」ということで、お許し戴きたいと思います。
投稿: びーちぇ | 2006年5月 7日 (日) 14時44分
>記紀の原書というだけでは、記紀とともにでっちあげである可能性が残っています。
そうではないと、言えるだけの検証がなされているとは思えません。
検証はこれからされていくものだろうし、だからこそびーちぇさんのような研究者がいるのでは?
>邪馬台国を持ち出したのは、倭人伝の記述が神功紀に引用されており、
それをを無視するのは、不自然だと思うからです。
>中国史書の批判に、神の名前を挙げておられますが、
唐の時代ですから、原典は当然「記紀」です。
それに、中国側が卑下するつもりなら、「天」という字は使わないはずです。
自国の史書があるというのに外国の史書を基準にものを考えるのか?
なんらかの参考にはなっても、外国の史書は自国の史書ほど重きをなすとは思えないのだが。
まして魏志倭人伝は伝聞情報をもとに書かれたものと聞く。そのようなものに資料価値があるのか?
とりあえずこのような疑問が浮かび上がってくる。
ヲシテが資料として価値があるのかどうかは分からないが、それを言うならあらゆる史書が資料として価値があるのか疑わしい。また、自国の資料ではなく外国の史料の事を持ち出すのもどうかと思われる。
ヲシテという日本がつくった日本の資料ではなく、魏志倭人伝という外国が作った資料を持ち出してくるのはどういう理由によるものなのか?
何より、
>正直、ヲシテを歴史として証明しようという気があるのか疑います。
宗教と言われても仕方ないですね。
どうしてこのような疑いをもち、なおかつ宗教的と思ったのかが分からない。
びーちぇさんはその理由を、
>かの国は中華思想の国ですから、王朝が変わるたびに歴史は書き直されています。
>自国以外はみな未開の土地であり、(中略)
つまり、どーでも良かったわけです。
と考えを述べている。
これらのどこに疑いを持ったのか、また、これらのどこが宗教的なのか?
投稿: どこかにある場所 | 2006年5月 9日 (火) 08時19分
どこかにある場所さん
>検証はこれからされていくもの
その通りです。
だからこそ、文献に対する姿勢は謙虚でなければなりません。
ヲシテが間違っている可能性を考えないのでは、信仰と同じです。
>自国の史書があるというのに外国の史書を基準にものを考えるのか?
>なんらかの参考にはなっても、外国の史書は自国の史書ほど重きをなすとは思えないのだが。
>まして魏志倭人伝は伝聞情報をもとに書かれたものと聞く。そのようなものに資料価値があるのか?
記紀研究、中国史研究の本を読んで、ご自分で判断なさって下さい。
>ヲシテという日本がつくった日本の資料
ヲシテの編纂に、渡来人が関わっていないという保証はありません。
>かの国は中華思想の国ですから、王朝が変わるたびに歴史は書き直されています。
>自国以外はみな未開の土地であり、(中略)つまり、どーでも良かったわけです。
中華思想だから、いいかげんなことが書いてあるというのは、こじつけです。
中国は、戦争をしていたのですから、正確な情報を必要としていました。
投稿: きっかる | 2006年5月 9日 (火) 16時55分
>ヲシテが間違っている可能性を考えないのでは、信仰と同じです。
「私も現在、日々三書比較に取り組んでおります。
そして、ますます原書であるという確信はゆるぎなく、強くなっております。」
というびーちぇさんの姿勢からは信仰(というよりは“狂信”の方が正しいのでしょうが)という姿勢は見受けられませんので。
少なくとも、びーちぇさんなりに考えて、ヲシテの方が正しい(少なくとも信憑性はある)という結論に到ったのでしょう。今後その考えが変わる可能性はあるにしても。
>記紀研究、中国史研究の本を読んで、ご自分で判断なさって下さい。
俺はきっかるさんの考えを聞いているのですが?
>ヲシテの編纂に、渡来人が関わっていないという保証はありません。
関わっているという保障もありません。
>中華思想だから、いいかげんなことが書いてあるというのは、こじつけです。
では、シナの史料の方がより正確で正しい記述だとでも?
中華思想だから、というのが理由として不適切というならそれもまたアリだと思うけど、だったらばシナの史料にも信憑性がある、という理由などを述べてはいかがでしょう?
>中国は、戦争をしていたのですから、正確な情報を必要としていました。
いったい何の話ですか? これだけでは何を言いたいのか全く分かりません。
とりあえず、びーちぇさんはびーちぇさんなりに考えて、「史料としては、ヲシテ文献の方に軍配が上がる」とお考えのようです。それはびーちぇさんが考え、研究し、色々な史料と見比べて出した結論でしょう。
そのびーちぇさんの考えに何か問題でも?
投稿: どこかにある場所 | 2006年5月10日 (水) 01時34分
どこかにある場所さん
このサイトをよく読んで下さい。
トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 中間目次
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/mokuji.htm
>「史料としては、ヲシテ文献の方に軍配が上がる」
>それはびーちぇさんが考え、研究し、色々な史料と見比べて出した結論でしょう。
「三書比較」しかしていないように見えますが。
投稿: きっかる | 2006年5月10日 (水) 15時16分
>このサイトをよく読んで下さい。
このサイトの何をどのように読めと? なぜ読む必要があるのか?
その説明が不足していますよ。
>「三書比較」しかしていないように見えますが。
つまりきっかるさんは三書比較をした上で今までのような発言をなさっている、と。
であるならば、
・ヲシテ文献の懐疑点を他の史料と比較して述べる。
・他の史料の信憑性が高いことを事例を用いて説明する。
などをしていただきたい。
また、そのように述べられる理由などもしっかりと説明していただきたい。一方的にそのように述べるのは侮辱か罵倒でしかありませんよ。説明を求めます。
ちなみに俺が感じた疑問である、
>中国は、戦争をしていたのですから、正確な情報を必要としていました。
どこの国がどこと戦争をしていたのか?
また、その当時の日本がどの程度の位置づけだったのか?
正確な情報を得るために、どのような活動をしたのか?
これらについては答えがまだ聞けていません。はやく説明して下さい。御自身が言い出したのですから、説明くらいしてくれても良さそうなものですが?
また、
>ヲシテの編纂に、渡来人が関わっていないという保証はありません。
つまりは外国人の介入があり、ヲシテ文献が正確な史書としてなっている可能性に疑いがある、としつつも、
>中華思想だから、いいかげんなことが書いてあるというのは、こじつけです。
>中国は、戦争をしていたのですから、正確な情報を必要としていました。
と述べて外国人による史料を用いようとしている。
自国の人間以外の者が史料編纂に加わっている可能性を考えてヲシテ文献の資料価値に疑問を抱きつつ、完全に外国人の手によって綴られている魏志倭人伝の記述を重視する姿勢はいかなる理由によるのか?
その説明をしていただきたい。
少なくとも、魏志倭人伝を用いてきたのだから、その史料価値を説明する必要があるでしょう。
ちょうど良い機会だと思うので、きっかるさんが卑弥呼の時代の日本についてどのような考えを抱いているのか述べていただきたい。
そうすればきっかるさんが古代史についていかなる考えをお持ちなのかはっきりします。
きっかるさんがいかなる視点でもって当時の日本を見ているのか。びーちぇさんの考えと対比することで歴史に対する視点の違いというのが明らかになるでしょう。
投稿: どこかにある場所 | 2006年5月11日 (木) 01時57分
大変興味を惹かれるところを書いていただき、
ありがとうございました。
資料の少ない時代について調べていくことは本当に大変ですね。
いつか、明らかになることを願っています。
権威のある人が言うことが正しいとは限りませんし。
(いつの時代も同じように、力をめぐる争いが起きるのは、残念です。こういうことで人は幸せになるのでしょうか。わたしは、こちらを読むと楽しくなるので読ませていただいております。蛇足)
投稿: ☆みっちゃん☆☆ | 2006年5月18日 (木) 09時48分
>☆みっちゃん☆☆さま。
>そして、
>どこかにある場所さまへも・・・
☆みっちゃん☆☆さまに、そう言って頂けると、
とても書こうという気持ちが湧いてきます。
コメント、とっても嬉しく、心に響きました。
力では、安らぎも幸せも得られることではありませんね。
ひたすら各自が
民族伝統の「ト」の精神を生きることによって、
意見や趣味が異なっても、なごやかに暮らせるようになると私は思います。
しかし、いつの世もそれは大変難しい事です。
ゆえに、その平和や、愛や、慈しみを守るための威き心は必要なのですよね?
そのような気概(すなわち良き力)をもちつづけることが、今は特に必要だとも感じています。
これこそ、
「ロ」のヲシテなのです。
どこかにある場所さまへ
力は本来、ニュートラルなものです。
どう使うかによって、どのような心で使うかによって、
変わってくるものですよね。
この辺が最近、曖昧になっているのが私は気になっているところなのですが。
良い目的、なにかを守ろうとする気力や、実際の力は
トの精神のもとでは、
強ければ強いほど、役に立ちますものね。
投稿: びーちぇ | 2006年5月19日 (金) 12時22分