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2013年12月17日 (火)

ヲシテ文字が消されたわけ その2 蘇我氏と聖徳太子

Haru

さて、このような経緯を経て、
ニギハヤヒさんの裔として、物部氏は誕生し、
代々アマカミ、スヘラギを守り、国内の治安維持に働いてきました。

今までの伝統を重んじるのは当然のことでしょう。

カミ(祖先)を祀ること、農主体の質素で実質的な建国以来の生活伝統です。
そこへ、言ってみれば豊かな、贅沢とも思えるような、
新しい他国の文化が入ってきたのです。

時代の様相は変わってきていました。




蘇我氏は、それでも8代スヘラギ(孝元天皇)の血を引いているのではと思われるのですが、
いきなり6世紀の初め、歴史に登場します。
それまでは無名の人物であったと言ってよいのですね。
そして根回しがうまく、また機を見るのに敏であったようです。


当時の中国は長い戦国時代、あの「三国志の時代」が終わり、
からという、新しく力の強い、そして安定した王朝が国を統一していました。
は以後280年にわたって、中国を支配します。

大陸からは、どんどん異国の文化や技術が入ってくるようになったのです。

また朝廷でも、聖徳太子のころは遣隋使、
後には遣唐使の制度を作ったり、技術者を招いたり、定住者に特別の配慮をしたりして、
珍しく優れたモノを取り入れるのに熱心でした。

蘇我氏はすかさず渡来人たちと深く親交を結び、
宗教や文化、 新技術を積極的に取り入れ、富を増やし、
そしてついに、彼らをも支配するほどの力を持つようになりました。

一方で、天皇のお側には次々と美女を送り込み、 天皇の外戚となることにも成功します。
あの「聖徳太子」「推古天皇」も、蘇我氏の血を色濃く受け継いでいるのです。

   
    戦後アメリカの文化が入ってきた時とおなじだなあ。
    古い伝統的なものはダサイわけです。
    そして飛鳥時代の頃のナウで、ステキでオシャレなものは、
    渡来のモノ・・・中国の文化であり、仏教でした。




そして、ついに仏教に帰依したいという崇峻天皇(もちろん蘇我系)が現れます!

それに反対した物部氏は、
14才の厩戸皇子(のちの聖徳太子)も参加した、
蘇我の軍勢により滅ぼされたのです。

しかし蘇我馬子は、その後対立するようになった崇峻天皇を弑し奉るという、
我が国始まって以来の暴虐をなしました。
そして、より意のままになる、姪である「推古天皇」を立て、
仏教に熱心で人柄も秀でた厩戸皇子(聖徳太子)を摂政にすることにも成功。
蘇我氏の天下となっていきました。

それからというもの、法隆寺を始め次々に寺が建てられ、
仏教が隆盛を極めるようになります。




さてここで。

私は長年、聖徳太子という方に疑問を持っていました。
太子はなぜ、物部を滅ぼす方に付かれたのか。

仏教に熱心であられたとはいえ、
太子はお人柄からいっても、権力をふるうということとは、
無縁のお方に拝察されます。

「和を持って尊しとなす」というお言葉のある、17条の憲法にしても、
古来の「トノヲシテ」の精神を、しっかりと引き継がれていると思うのです。

だからこそ、後世にまで「聖徳」というお名で讚えられたのですね。

もちろん、伝統のカミ祀りも大事にされていたことは、
日本書紀の二十二巻にも、下記のように記されていることで分かります。


   十五年春二月一日、壬生部(皇子、皇女のための部)が設けられた。
   九日、詔して
   「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、
    つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、
    神々の心を天地に通わされた。
    これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。

    今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。
    群臣は心をつくして、よく神祇を拝するように」と言われた。

   十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。(宇治谷 孟 訳)

Nihonshoki_1

しかし、それほどのお方が、
蘇我馬子によって、継承権を持つ物部派の皇子・・・異母兄弟・・・を弑された時も、
なぜ黙っておられたのか・・・?
一族の長とはいえ、臣である蘇我馬子の、
天皇さま弑逆をなんと思われていたのか・・・?



けれども、こうしてヲシテ文献から始まった歴史を、
一続きにして調べ直しているうちに、少しずつ分かってきたように思います。


権力が表に立つと、かならず闘争が始まる。
蘇我氏の血筋といえども、
逆らったら殺されてしまうのです。

物部氏との対立の頃、太子はまだ14才であられたし、
後ろ盾も他には無かったわけですものね?

権力闘争の渦中にありながら、
太子は政治というものを、しっかりと見極められたのではないでしょうか。
そして摂政となられて、実権をもたれてから、
国を安らけくと、最大限の努力をなされたのだと思います。

しかし残念なことに道半ばで皇太子のまま、ご逝去になりました。
太子ほどのお方でも、ご心労が過ぎたのではないでしょうか。

権謀術数の中で、理想を追及すれば、
今も変わらず、それは大変な心身をすり減らす激務となります。

そしてまた政局は、蘇我氏を中心にして動いていくのです。


このように、蘇我馬子の時代から、
恐ろしいことに、
ご皇室に対してさえも、思いのままに支配しようとする、

権力への野望が生まれたように思います。

また、そういう力に翻弄され、
尊い皇子さま方も安穏ではいられなくなりました。
次なる権力を見定めないと、お命まで危うくなるのです。

古来の日本には無かった、恐ろしい世の中。
これはまったく大陸の覇権の思想です。



言ってみれば、中国の思想に乗っ取られたわけです。

日本が古来の日本ではなくなった、

最初の時がこれでした。



以来1400年余り。

権力への欲望が今もなお、日本を覆っています・・・




さて、元へ戻ります。

蘇我氏が実権を握って以来、
今までの神社というものは、民衆の反感を買わないようにしながら、
仏さまたちに巧みに中身をすり替えられていったのですね。
また、新たにでっち上げた神さまと入れ替えたりもしました。

そして物部の輝かしい歴史を消し、
カミのミチの痕跡を残さないように、禁書・焚書を行ったのです。
政治的な観点、自己正当化からも、それまでの歴史の 書き直しは徹底していました。
あたかも仏教が伝えられ、漢字を手に入れて、 文字もなかった後進国に、
やっと文化・技術が花開いたかのように。

(日本書紀巻二十九に「帝紀および上古の諸事を記し、校訂させられた」
 と記されているのが、明らかなる書き直しの最初だと思われます 


それは、国を支配する為にも大変有効な手段であったのです。
ヲシテは、基本文字が48字。
誰でもが読め、子供でも覚えやすい形ですから識字率は大変高かったと思われます。
しかし漢字が国字となった時、支配階級しか身に付けられないのは当然のこと。
権力の強化、支配の強化。
民にとって長く長く続く、災いと不幸の種となった、
「よらしむべし、知らしむべからず」の始まりでした。


その手段が「日本書紀]であり、「古事記」であったのです。
実に聖徳太子の没後90年頃のこと、平安時代初期にあたります。


    でも、まあ良くこれだけ都合のいいところだけ拾ったよなあ・・・

    けれど太子はきっと、あの世でびっくりし嘆かれたでしょうね。
    「そこまで、やってしまったのか!」と言って。
    だって、太子は民を大事にされたお方でしたから・・・



ヲシテ文献と上記の文書を注意深く比較すると、
どのように書き換えられたかが良く分かります。

もちろんそれによって、国中を天皇のもと、 強力に1つにまとめるという利点がありました。

太子亡き後、その理想に反して、世は乱れていったのですから。
まとめるのには、なんといっても宗教を使うことが早道です。
ここに、強力な政治的意図が働きました。


    私見ですが、それまでの日本には宗教はありませんでした。
    伝統的なカミ祀りとミヤがあっただけです。
    宗教というものは、教義があり、信者があり、布教をするものです。
    それから見ても、本来の神道・・・
    と書くのは、抵抗があるんですが・・・は、宗教ではありませんね。
    「カミのミチ」は、祖先が伝えてきた生活の知恵だったのですから。
    けれどここに宗教としての「神」と「神社」が作られてしまったのです!
    しかも仏教とも競合しない形で。


仏教の方から見ても、布教にさほど差支えはなかったようです。
宗教らしいものが無かった地なのに、人々はみな素朴で聡明でしたし、
教えを広めることは、どんなにやり甲斐のあることだったろうかと思えます。

形としての神道が整えられても、仏教には貴族や朝廷からの篤い支援もあり、
ますます広がっていきました。
それに、仏教の神髄はまことに素晴らしいものであったことは事実なのです。
また権力によって強固に支配される事となった民にとっても、
宗教は心の支えとなっていったと思われます。


Koyasukannon_2


ここで私は言いたい。

宗教の必然性は、
この世が苦しく、辛い時に成り立つのです。



ヲシテ時代は、ままならぬ事は起こっても、
この世は楽しいものであったのに。

アマカミは父のように、ウチミヤは母のように、
民を愛し、子や孫として自ら導かれたというのに・・・

民ものびのびと、農に商に技にいそしみ、
また才能のあるものはヲヲヤケに取り立てられ、
アマカミをお助けしたというのに。

権力と支配のあるところ、
この世は苦しく辛く、宗教が唯一の心の支えとなるのは、
他の国々を見ても良く分かるのではないでしょうか。




仏教が普及するにつれて漢字もしっかり定着していきました。
公文書は聖徳太子の頃から、すべて漢文になったことですし、
漢字読み下しという新技法(翻訳法)まで発明されていたのです。

文章はほとんど漢文のまま(正確には和漢文)ですから、
上流階級の三割以上の渡来人との意志疎通にも、
中国との外交にも、大変役に立ちました。

その後、ヤマトコトバの音通りに、 似た漢字を一字一字当てはめ書くやり方も流行、
和歌を中心に、カタカナ・かなの独自な字も成立したことから、
日常生活にもさして不便はなくなりました。
「万葉仮名」といわれるものが、それです。


そして紀元800年ごろを過ぎると、

「我が国には漢字以前には文字が無かった」

という説は見事に定着したのです。



弥生、飛鳥時代から奈良時代を通って、平安初期までの、ながーいお話でした。




 注   漢字伝わる。「漢委奴国王金印」の頃か・・・
     推定紀元50年ごろより、
     大国となった中国との外交があったらしい。

     一方12代スヘラギ景行天皇(在位71年〜130年)までは、
     ヲシテ文字がヲヲヤケに使われていたことが、
     「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「フトマニ」などの
     古文書発見により、証明された。

     また上記により、
     さらに古い「ミミノハ」「ミソギノフミ」「カグミハタ」「ヨツギノフミ」
     などをはじめ、数多い先行文献があったことが分かる。
     文書の内容から、紀元前4000年以上も昔の建国期に
     ヲシテ文字はすでに存在したと推定される。

     景行天皇前後から、徐々に漢字が帰化人を中心として広まり、
     ヲシテと漢字が混在している時代となる。
     この時代より、ヲシテの形も少しく変わり始めている。
     このような変化や用語からも、
     それぞれのフミの成立年代が推定可能となった。

     私見によれば、第14代仲哀天皇以後、神功皇后の時代から、
     
ヲシテは見捨てられ始める。
     大陸の影響はますます大きく、文書は次々と漢字に訳されていった。

     仏教伝来、538年。
     物部氏滅亡、崇峻天皇仏教に帰依、587年。


     620年、聖徳太子時代。
「天皇記」「国記」という歴史書成る。
     両書、「乙巳(いっし)の変」
蘇我氏滅亡時に焼失。645年。

     
日本書紀撰上始まる・・・帝紀、上古諸事の記定。681年。
     完成したのはおそらく、710年頃と思われる。
     
    「
先是一品舍人親王奉勅修日本紀至是功成奏上紀卅卷系圖一卷」続日本紀720年。

     
古事記完成。712年。
     但、最新の研究によれば、でき上がった日本書紀を元に書かれ、
     何らかの理由で、こちらを先に奏上したという。

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コメント

ヲシテ文献の、忘却の経過の、
難しいところを、良くおまとめになられました。
何事も、コツコツやれば、いずれ大廈の完成に至るのですね。
本居宣長も、『うひ山ふみ』のなかで言ってました。
「倦まず、おこたらず」と。
まさに、金言であると、思います。

投稿: いけだ みつる | 2006年4月18日 (火) 00時33分

>池田先生

コメント有り難うございました!

どうやら、まとめることが出来ましたが、やはり大変でした。
でも私なりに、感じますことどもを、どうしても記してみたいと思ったのです。

それでも、ヲシテ原文にふれるということは、素晴らしいことであるというのが、
ますます分かって参ります。
このように、初心者でも地道に取り組んでいけますのも、
土台を作って下さった松本先生、池田先生のおかげと思います。

これからも、いたらぬ生徒ではございますが、
よろしくお導き下さいませ。

投稿: びーちぇ | 2006年4月18日 (火) 21時44分

TB有り難うございます。
びーちぇさんの書かれているのは、私にとっていつも新しい発見があり点と点が繋がるような感じです。

投稿: まさ | 2006年4月20日 (木) 19時59分

>まささま

いつもお読み戴き、感謝しています。
貴ブログも、素晴らしい記事が満載ですね!
コメントは失礼しているものの、いつも読んで応援しております。
これからも、よろしくお願いいたします。

>えんきさま

コメント有り難うございます。
我が国の問題は、いつの世にも外交です。

あまりにも大陸との、こころの世界が違うゆえに、難しいのですよね?

しかし、これまたいつの世にも、それに呼応している人々が・・・のんきに考えない人々を、大陸式の策略でまきこみ、国を内部から崩壊させて行くという図式が成立するようです。

じつに「ヤマトタケ」さまのご遺言とは、このことであると思っています。

各自が、人に頼らず、自分の心で考え、
「カガミ」良否の判断を、私心なく鑑みること。
古来の精神「めぐみ・やわし」にそっているかどうか、考えること。
またそれを「守るツルギ」、威き心を持ち、必要な時に勇気を持って断行する気構えを持つこと。

このことは、今の私たちに一番必要なことと感じております。
「ヤマトタケ」さまは、このいちばん大事なものを守るために、
身を挺して、生涯戦い続けたお方であられました。

ご遺言の大意は、
後の困難な世の時には、古来の心の伝統に学ぶことの出来るよう、
歴史を編纂しておくように・・・とのことでした。


投稿: びーちぇ | 2006年4月24日 (月) 09時07分

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