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2014年10月 9日 (木)

「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その1 改訂2014

 Woto_uta

                           ホツマツタヱ 39−93

 

このおウタは、ヤマトタケさまの妃であられた
ヲトタチバナヒメが、激しい嵐の海で、タケさまをお助けせんと祈られ、
カミとなってそのお身を護るため、入水されたおりに、
辞世として読まれた名歌です。

それなのに、日本書紀にはカットされていますし、
古事記では、ミスなのでしょうか、1字抜かしてしまったため、
なんとも、おかしな調べになり、意味さえも違ってしまいました。

 

古事記では、

佐泥佐斯  佐賀牟能袁怒邇   さねさし  さがむのおぬに
毛由流肥能 本邦迦邇多知弖   もゆるひの ほなかにたちて 

斗比斯岐美波母         とひしきみはも

↑ この万葉仮名を見て下さい!

情緒もへちまも無い、酷い当て字ではありませんか!
言葉の意味も、内容も解らぬ人が字をあてはめたに違いないのです! 怒)


この現代語訳は

 (さねさし)相模の野原に燃え立つ火の、
  その焔の中に立って、
  私の安否を尋ねて下さったわが背の君よ   
(次田真幸 訳)

「さねさし」とは相模の枕詞であって、さしたる意味はないそうで・・・ええっ?

 

また、所功氏と小堀桂一郎氏の共著による『名画に見る國史の歩み』による訳では、

 尊は蝦夷征伐に向かうため、相模国(神奈川県)から
 海路で上総へ渡ろうとして、
 走水と呼ばれていた今の浦賀水道を横断中、
 平常でも潮流の速い所で暴風雨にあい、船が覆りそうになった。

 そこで、尊に従われていた弟橘媛は、尊の御身を心配され、
 海神の怒りを鎮めようとして、
 怒濤の海に身を投じられたところ、波はおさまった。
 その際媛は、
 「さねさし相模の小野に燃ゆる火の
  火中に立ちて問ひし君はも」
 とお詠みになった。

 焼津で猛火に囲まれたとき、尊が命がけで励ましの声をかけて下さったことを
 思い出されてのお歌である。

 

こちらの方が、かなり原文に近い訳ではあります・・・しかし。

なぜ字足らずになっているのか、
「さねさし」は、本当に意味のない枕詞であるのか。
それについては、今まで誰も答えを持っていなかったのです。

 

 

さて、ヲシテ文献によれば、
「マクラ コトバ」とは、
真っ暗な闇の中に光がさすように、渾沌としていた詠み手の想いを浄め導くもの。

Makura_1_1

マトミチノ トホラヌマエノ
アシヒキノ マクラコトバハ
ウタノタネ
          (ホツマツタヱ 5−28)

まことのトノヲシテの道が通る前の心の状態(暗闇のような迷い・渾沌)があり、
「アシヒキノ」という、マクラコトバが、歌のになって(心が明るくなって)行くと・・・

 

これは、イサナギさまが亡きイサナミさまへの想いに囚われていらしたこと、
その状態から立ち戻られ、お心の晴明を取り戻されたことによるものです。

もすこし詳しく言うなれば、
それより先に、
お二方は、湖の湿地帯の葦を引き抜いて(アシヒキ)初めての水田を作られ、
飢えに苦しんできた暗い時代からの脱却を為し遂げられ、 それが、クニの栄えの礎となっていったこと。

そして、イサナミさまの亡くなられた悩み悲しみの中、象徴的ヴィジョンにおいて、
この世とあの世の境であるヨモツヒラサカにて、迷いから離れ、
言葉をたててその決心を表明され、決然と引き返された(アシヒキ)・・・
ということを共に偲ばせる言葉なのです。

Makura_2_1

コノアチヲ ヌバタマノヨノ
ウタマクラ サメテアカルキ
マエコトバ ココロヲアカス
ウタノミチ
          (5−29)

 

は、大事なことを述べる時の異字体。
すなわち、ア(アメ・宇宙原理)からの(精神・心・智)である・・・

その想いはウタとして、ほとばしり出るのですが、
そのように、まっ暗なココロを明るく照らし浄化する、
そのタネとなる、イマジネーションに満ちた言葉でありました。
どの言葉にもこのような、深い意味や由縁があったことが示唆されています。

このように、マクラコトバは5アヤ「ワカノ マクラコトハノ アヤ」に、
1章を割いて述べられているほど、重要なことでありました。

このアヤ、およびホツマツタヱ冒頭の1アヤには、
ワカの不思議なチカラについて、縷々述べられていて、
どれほどウタが貴い力を持ち、大事なものであるか、
その由緒と共に学ぶことが出来ます。
後にしっかりとご紹介したいと思っています。

 

 

さて、ヲトタチバナヒメのおウタの原文「サネサネシ」は、
いわゆるマクラコトバではないような気も致します。

なぜなら通常マクラコトバは、一見真意が分からないような言葉。
でも当時の常識では、その語源が周知の事実として共有されていて、
上記でも解説したように、それをふまえた上で、使っていたからです。

またヲシテの特質にて、その字形からも、
その意味がはっきり伝わってくるのです。

 

当時の常識が忘れられてしまった例として、
「アシヒキノ」をあげましたが、もうひとつ。

たとえば「ホノホノ」は、
ほのぼのと明けゆく空の・・・とかいった、
「開ける」という時などに使っていますが、
語源は、アマテルさまご誕生のありさまを記述した語のひとつです。

 

時に1月1日。

初日が「ホノホノ」と昇る頃、
太陽の御子とお生まれ遊ばされたアマテルさまは、
真っ白な丸い玉子のような厚いヱナにくるまれておられ、
それをイチヒのサクをもって、天のイワトを開けるごとくヱナを裂き広げ、
その玉体は初日の輝き昇るように(ホノホノと)出現されました・・・

ゆえに「ホノホノ」といえば、
アメからの純粋な力を持つ「日」の分け身であられるとされた、
アマテルさまのご誕生を、想い出さずにはおれないのです。


  ※ このイチヒの木は飛騨の位山のものであり、
    サクはそれを削ったおそらくナイフ状のものです。
    そこから後に、神官のもつとなりました。
    後世になると貴族の正装(衣冠束帯)時には、必ず手に持っていますよね?

    笏が中国から来たものではなかったことを、どうぞ覚えていて下さいませ。

    飛騨の宮村は、以来朝廷にしばしば位山のイチヒを献上してきました。
    (平安朝の平治元年(1155)に献上という記録文書が今も残っています)

    また今上陛下のご即位の時にも、笏を新しく作られるために
    宮村から3千年もの伝統を秘めた、この位山のイチヒの木が献上されています。

 

 

サネサネし サガムのオノに
もゆるヒの ホナカにタチて
とひしキミはも

 

  「サネ」とは、色々な意味を持っていますが、ここでは
  「共寝」つまり契りを交わすという言葉になっているような気がします。
   ただし、この意味は漢字時代のものですけれども・・・

  似た例としては、カミヨ(祖先の世)のあの「コノハナサクヤヒメ」に、
  ニニキネさまが贈られたおウタには、共寝に通じるような意味もあるようです。

などと、前エントリで書いていたのですが、これも大違いであったようです。
池田先生と、
「よみがえる日本語」の著者のお一人、青木さまのやり取りのうちに、私もこの言葉を考察させていただきました。

ただただ、浅学の身を恥じるものですが・・・
先生の「いや、そうやって学問は深めていくものですよ」というお言葉に、
気を取り直すことが出来ました。有り難うございます☆


さて、サネという語のあるウタは次の
ニニキネさまが、アシツヒメ(後のコノハナサクヤヒメ)に贈られたウタです。

 

おきつモは ヘにはヨレども
サネトコも あたはぬカモよ
ハマつチドリよ           
    (ホツマツタヱ 24−67)

ここにも、サネの語があります。

は清らかな、は(こころの)根っこ。
そしてトコを、床、寝床と解釈してしまったのですが、
実は「トのヲシテによる」という意味であろうと、池田先生は考察されました。
そういえば、
「クニトコタチ」「キノトコタチ」「トコヨクニ」などの、
トコの語がしっかりとあり、他にもそのような意味は大変多いのです。




「ヒメは、イモオセの貞潔なミチを見事に立てて、
 トのヲシテにふさわしい
、一点の曇りもない清らかな心を示された。

 しかし私は、そのマコトを信ずることができず、疑ってしまった。
 そのような自分は、トのヲシテにふさわしくなく、
 ヒメの清らかな心は、私には与えられないのかもしれない。

 しかし、できることなら、私を再び受け入れてはくれないだろうか?
 使者に立てたオキツヒコの昔のように、
 私は心から悔い、貴女に詫びたいのだ。

 ああ、浜つ千鳥よ。 
 おまえ達のように、仲むつまじく暮らせるものなら。

 どうか、私のこの心を伝えておくれ」

 

青木さまの以前の解説を下敷きにさせていただいて、
私なりに意訳を試みました。

オキツモは、使者に立てたオキツヒコさま。
また、オキツという地名も暗示しています。


この使者オキツヒコさまも、むかし夫婦仲が悪く、
妻をあやうく死なせるところであった方。
アマテルさまのお諭しによって、ご自分の非に気がつき、詫びを入れて仲直りされ、
のちは、お二人で夫婦円満の大事さ(イモヲセノミチ)を人々に教導されるようになりました。

この歌を読まれたコノハナサクヤヒメは、貞節を疑われた嘆きも消え、
喜びの涙と共に、思わず裸足で飛び出して浜を走り、ニニキネさまをお迎えに走られたとか・・・

また、コノハナサクヤヒメの叔父様の血を、はるか後世に引いているお方が、
かのヲトタチバナヒメ
つまりは一族の裔としてつながっておられます。

 

 

さて、ヲトタチバナさまの辞世のおウタに戻りましょう。

サネサネし・・・長い年月を、信じあい睦まじかったお2人。
お子さまにも恵まれ、6人もの皇子がいらっしゃいました。
そのお二人のお心の純粋さ、清らかさを表すサネ。しかしまたは南、は北の意味を持ち、
タケさまが命を下し、城の南北から救出の部隊を城へと向かわせたこともありますし、
また、これらの意味をみな含んでいるとも考えられます。

 

サガムのオノに・・・相模の小野はヲトタチバナさまの母上、
ハナタチハナさまのご実家なのです。

ここで全訳したいところですが、
このおウタに込められた、ヲトタチバナヒメの真心を感じ取るには、
この時の戦いの有り様を知らないと分からないと思います。

これも、記紀にはカットされている部分があり、
また誤訳のために分からなくなったことも多く、
まずは、そこからお話を進めましょう。

このヤマトタケさまのミカリ(征伐)の背景には、
当時の大陸の情勢が影響しています。

それについては別の詳しいお話がありますが、それはまたの機会に。
今は下記を参考になさって下さいませ。

カグノキ トコヨノハナ」・・・後半の右近の橘、左近の桜の絵の後から。

 

※ 参考 「ヤマトタケのお名

Woto_keizu
 

 

【あらまし】

ヲトタチバナの父は、帰化した新羅の皇太子の直系「タジマモリ」です。

先代スヘラギの頃から、半島情勢は不穏なものとなっていました。
また大陸の覇権の力はいずれ、我が国にも及んでくるのではないか・・・
それに対抗するには、国内のこころと意思を一致しておかなければなりません。

11代スヘラギ・イクメイリヒコさまは、心から信頼するタジマモリに
半ば独立国となっていた東北「ヒタカミ」に理解を求め、再びクニをひとつに統一すべく、
その説得や根回しのため、大陸情勢に詳しいタジマモリを密命を下しました。

特にヒタカミの隣国「ホツマクニ」は重要な拠点となります。
タジマモリはまず、そのクニカミ・カグモトヒコの所へ滞在し、
モトヒコの愛娘ハナタチハナと結ばれるほどの信を受けたのち、
東北部を回り各地のクニキミを密かに説いて回りました。

10年あまりの活動の後、一応の成果を得たタジマモリは帰国します。
しかし、心から敬愛するイクメのキミは崩御されていました。
他にこのことを知る者は誰もいないのです。
力を落としたタジマモリは、ノコシブミ(遺書)をワカミヤ(新スヘラギ)に献上し、
イクメのキミの御陵の前に殉死なさったのです。

タジマモリの死後、妻のハナタチハナはヒメ御子を出産。
そのヒメは誠実な父の思い出にちなみ、
ヲトタチバナと名付けられ、
成人の後は日嗣の皇子「ヤマトタケ」さまの妃となりました。

 

月日は過ぎ、
東北に近いホツマクニではヱミシ(不逞の輩)が跋扈し悪さをなしていました。
ホツマクニの隣国ヤマトからは朝廷に、
直接のキミのミカリ(征伐)を請う嘆願が寄せられました。

ここに、スヘラギ「ヤマトヲシロワケ」さまは、
愛する日嗣の皇子「ヤマトタケ」さまにその役目を託されたのです。

タケさまは、見事ツクシ(九州)を平定して帰国されたばかりでしたが、
先にこの敕命を受けた兄ギミは、戦いを恐れて行方をくらまされたのです。
やむなく、弟のタケさまにその勅命が下りました。

先には、この度は兄ギミ・オウスさまへと、ミカリの任を願われたタケさまですが、
ご高齢の父ギミのお心を深く思いやり、
心を定め、勇み立ってご出陣をなさることとなりました。

この出陣の際のヲシロワケさまのお言葉は、
日嗣の皇子ヤマトタケさまへの慈愛に満ち、その深き心と知恵、武勇と誠実を褒め称え、
自分より優れた資質の、スヘラギに相応しい皇子であるとの感動的なものです。

イマシこそ スガタきらしく   (イマシは汝)
モモちから イクにサワラズ
イケばカツ スナワチシレリ
ミはワガこ マコトはカミの

ワレくらく ムケざるミヨを   (ムケザルミヨ           
ツガシメテ タエザラシメル      → 平らかにできなかった世)
イマシこそ アメがシタしる   (アメがシタしるクラヒ
クラヒなり               → スヘラギの御位のこと

                     
           ミコトノリの一部 ホツマツタヱ 39−9より)

 

日本書紀では、やや不足があるにせよ、大方は忠実に記載されているのですが、
古事記ときたら、とんでもないことに、この感動的なミコトノリをほぼ全文カットしています!
それに、父ギミに疎まれたという悲劇の皇子に仕立て上げられています。

また、私が許せんと思うのは、
出立にあたり、伊勢に詣でて伯母ギミ「ヤマトヒメ」にお会いになった時の、
タケさまの父ギミに疎まれているという愚痴と嘆き?!
なんでも、さめざめと泣かれたそうな。

そんなめめしいお方ではありませんっ!

ヤマトヒメも出陣にあたり、タケさまを勇気づけ、
直観にてこの戦の難しさを悟り、遠い昔にニニキネさまが定められ記された
ヒミツノハライ
・・・火と水の難を祓うノリ(法)を授け、

また、ソサノヲさまより伝来のムラクモノツルギを身の護りにとお渡しになったのです。

ヤマトタケさまはきっと、勇気百倍になられたのではないかしら?

なぜって、ご自分はソサノヲさまの生まれ変わりだと信じていらしたようですから。
ソサノヲさまのイミナはハナキネで、タケさまのイミナはハナヒコなのです。
また、このムラクモノツルギは、
ヤマタノオロチ・・・すなわち反乱を起こした大勢力の8人の首領・・・を
滅ぼされた時に発見された、縁起の良いツルギで、

出雲のクニをソサノヲさまが開かれた象徴の品なのです。

      又は火(ヒ)と水(ミ)と土(ツ)の三法であると思われる。
       詳しくは、コメント欄参照のこと。のりとさまに感謝。

                                    (続く)

 

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コメント

熟読するたびに、新たな発見がある。
ヲシテの世界の、つまり、漢字以前の時代の日本の高度さですね、ここに、いつも敬服します。
わたくしの、解かったところなど、ほんの序の口であると思います。
ビーチェさんも、もう、第一線の解明者。
もっともっと深く、深遠な高貴な漢字以前の文明の解明に、皆皆様もチャレンジを!  日本の先進さを、縄文文明から解明へ!
新宮親王様にも、ご安心をいただけますように、努力を続けたいと思います。
         ・
みさだめん よきみよつくる
やまとなる みちをきわめる
そのみちのりを 

投稿: いけだ みつる | 2006年9月10日 (日) 02時21分

ありがとうございます。

ブログの後半1/4くらいは、かつて読んでいません
でした。いま始めて勉強させていただいています。
またものがたりをして下さいね。

ところで、オキツヒコ ヒミツのハライについてですが、

>ヒミツノハライ・・・火と水の難を祓うノリ(法)を授け、

ヒ・・・火
ミ・・・水
ツ・・・土

の3つのハライのことだと思われます。オゴロの話など
出てきますので、土の要素も入っていると思います。

投稿: のりと | 2009年3月30日 (月) 22時27分

>のりとさま

なるほど。
ニニキネさまの昔に定められたノリとしたら、その方が自然ですね。
祖先が尊く認識していた事象としては、この3つは欠かせませんから。
オゴロ(もぐら)の話も、ニニキネさまのニハリミヤ建造の時に出てきましたよね?

余談ですが、私はオゴロさん大好きなんです。
お顔も身体つきも何とも言えず可愛いし、
ビロードのようななめらかな毛も素敵。

山奥で循環農を試みていた時、よく「お目にかかり」ました。
自然農法ではとっても大事にしています。
なぜって、オゴロさんの住み着いている畑は肥えていて良い土に間違いなく、
そのトンネルも、かえって、作物の根を丈夫にしたり、
また栄養吸収の面でも役に立っているんですよ☆

一番古い縄文の土笛のひとつは、この「オゴロ」さんを模って造られているんですが、
その意味が、私にはよーく理解できるような気がしています。

投稿: びーちぇ | 2009年4月12日 (日) 09時38分

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