2010年4月18日 (日)

日本建国 「クニトコタチ」のころ (1) 改訂2010

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初代アマカミ「クニトコタチ」さまは、どんなお方だったのでしょう。


ヲシテ文書から浮んでくるお姿は、

感性豊かに物事を良く観察し、考察し、

創意工夫も優れた方だったように見受けられます。


その上、リーダーとして人に慕われる方。

私ごころが無く、

自ら実践して良い結果が出ると、

どんな人にも惜しげなく技術を伝え、得たものを与え、

人の幸せをわが事のように喜ぶお方です。

また、先を見通すお力も大したものであったようです。


なんだか・・・書いていて、表現する言葉が見つからないのです・・・汗)

クニトコタチさまに申し訳ないと思いながらも、

つたない言葉でも、お許し戴ける・・・

私などは、つい、そのように思ってしまうくらい、

ふところ深く、心豊かで偉大なお方であったと感じております。



もちろんクニトコタチさまの時代は、

ヲシテが書かれた時代より、

はるかに、はるかに、

7千年以上も・・・大昔のことです。

そう。

「これは我が国の伝承の時代」

と言っても良いのでしょう。


そして時は流れ、流れて・・・6千年ほど後。

いままで安定していた気候が、急変します。


そして、

タカミムスヒ5代目・トヨケさんのお若い頃からは、

社会状況も悪くなっていくばかりとなりました。


寒冷化、農作物の減収、貧富の差。

そして悪行に走る人々。


このような困難を打破して悪を正し、

新しい明るい国を作り上げ、平和に治めていくには、

国の根本理念とは何か、因って立つべきものは何かと、

昔からの伝承をふりかえり、

深い考察を重ね、問い続けて、

それを明らかにすることが必要となります。


その根本こそが「トノヲシテ」



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アマカミは「ト」という字の形そのものに、

ハニ(国土)をあらわす□の中に真直ぐに立ち、

両手を高くアメに向かって広げ、

宇宙原理のもとに・・・大自然の恵みを受け、

それを惜しみなく皆に、分け与え続ける人なのです。


恵みを分け頂いた人々は、なんと有り難いことと、感謝の念から、

ますますアマカミを助けて働きました。

それが各自の幸せにも、確実に繋がっていくのが判っていましたから。



クニトコタチさまの建国。

それから続く、ミホカミ・・・古(いにしえ)の3世代・・・は、

まず安定した食を得て暮らすことも、

知恵と工夫の必要な時代でもあったと思われます。


現代でも判るように、

温暖化の途中では、

環境条件がどんどん変わり、

それに対応しなければなりません。


だから、先を見通し考えて工夫しないと、

暮らしが成り立たなくなります。

それでも、ご先祖の方々は、

アマカミを中心に「トノヲシテ」の元に、

心を一つにして、助け合っていかれました。

みんなで幸せな国をつくろうと、希望に満ちて働き続けたのです。





そのような建国の「クニトコタチ」さまのお姿を想い、

トヨケさんや、アマテルカミの尊敬の念は篤く、

あの御世のように「すべてのタミと心一つに」との、

理想への憧れも強かったのだと思われます。


そして遥か昔の御世のことを・・・

わがクニに残る「すべての伝承」を整理して、

何一つもらさぬように、フミに「ソメられた」のです。

(古代は紙ではなく、布のようなものに染めて、ヲシテを記したのかもしれません)



しかし、とても不思議なのは、

どの民族もこのような太古の昔を、神話の形で表しているようですが、

我が国の場合は少しく違い、あくまで人である祖先のお方。

「生きていらした人が為された物事」というニュアンスで書かれているのが特徴です。

いって見れば実際的。現実主義。

作り話、ファンタジーなどは好まれなかったようです。


それは、もしかしたら我が国が地球上では特異的に、

風土が穏やかで、豊かだったことから来ているのかも知れません。

建国期はちょうど温暖化の途中であり、

その後安定した温かい時期(ヒプシサーマル)が数千年にわたり続いたのです。


また列島の形も南北に細長かったので、様々な多様性にも恵まれていましたしね?

台風や地震、火山の噴火などはあっても、

海に囲まれていることから、

異民族の暴力的な侵攻からは守られ、

皆で協力すればなんとか生きていけるような、地理的環境です。


ファンタジーや、奇跡に頼らなくても、

夢を持つことが出来たのではないでしょうか。

そう、努力すれば報われる。


基本的にはそのような風土であったと思います。

その故に死生観なども大変明るく、

この世で生きていくことは大変楽しいことなので、

死んでタマとなり、アモト(大宇宙の中心)へ還っても、

また、なるべく早くこの世に戻って、

コダネに宿り、肉体を得て、

新しい生を楽しみたいというものでした。

これを「ユキキノミチ」と言います。


このように明るい思想を産み出したこの風土は、

いつ頃からこのように成ったのでしょうか?


Yama_kumo


  日本列島の気候は15000年前以降、世界に先駆けて、

  大陸型の気候から海洋型の気候へと移行し、

  日本列島の北緯40度(秋田県八郎潟、また岩手県八幡平付近)以南の、

  多雪地帯を中心として、ブナやナラ類の温帯の落葉広葉樹林が拡大した。

  この温帯の落葉広葉樹の森の中で、

  最古の土器を持った縄文時代草創期の人々が生活を開始した。

                          ・・・(中略)・・・



  福井県鳥浜貝塚の発掘調査によると、

  縄文時代草創期の隆起線文土器を携えた人々が

  14500年前頃から居住したことが明らかになった。

  花粉分析によると、その周辺は、うっそうとしたブナとナラの深い森であり、

  人々は三方湖でヒシの実や魚介類を採集し、

  ドングリやクルミなどの堅果類を採集し、

  イノシシやシカなどの森の動物を狩りしていたことも明らかになった。

                      『稲作漁労文明』 安田喜憲 著  雄山閣 より



もちろん日本建国より遥かに昔のことです。

「当時の」日本列島の人々は、

大陸伝いにやってきて住み着いた人たちで、

現在の研究によると、

大陸の北、あるいは華北(黄河のあたり)からやってきた、

モンゴロイドという説が有力になっています。


この人たちは、全国にほぼ均等に住み着いていたと思われ、

石器時代および縄文時代の全遺跡を丁寧に調べ、

人数を推定した小山修三教授によれば、およそ3000人ほどであったそうな・・・



そして13000年前。

今では「バイカル湖人」とも呼ばれる人々が、

大波のように何度も何度も、樺太方面から押しよせてくるのです。

その数、推定7000人!

そう、今まで住んでいた人々の2倍以上の人々。

しかも北方系の故か、暖かすぎる(!?)西日本には行かずに、

東日本・・・琵琶湖の辺りまでに留まるのです!


東日本の人々は1500人あまりでしたから、

5人のうち4人は、この移住してきたバイカル湖人になりました。


この人たちがやってきたのは、

もちろん安田教授の言われる15000年前より後の気候大変動によります。


彼らは、ビッグハンターと呼ばれていたような人たちの裔で、

鋭い刃を何度でも取り替えて使えるという(当時の最新ハイテク器!)

細石刃石器を携えて、大型動物を狩る人々でした。

マンモスステップの消滅の後に、獲物を求めて移動してきたのです。


ところが・・・

やっとたどり着いた日本列島も、彼らの土地と同じ状況で、

草原はなく、深い森が広がり、追い求める大型動物の姿もありません。


飢えに苦しんだ人々は、やむなく、

食料獲得の手段を変えざるを得ませんでした!


森の生活に慣れている土地の人のように、

定住し、土器を作り、木の実を集め、魚や小動物を捕るような暮らし。


けれども、東日本では5倍以上に急増した人口と、

その後も安定しない寒暖の激しい気候によって、

飢えに瀕することも、まま有ったのではないでしょうか。



この困難を解決なさったのが、

後に「クニトコタチ」と呼ばれた方であったと思われます。

時は1万年前。

縄文時代早期末にあたります。


  ちなみに、安田教授は色々な民族の歴史を検証なさって、

  「気候の変動による人々の移動、

   それに伴う、異文化との接触と、

   人口圧の高い中に、

   非常なる困難が生まれたときにこそ、

   必要な新しい技術や文化が生まれ進歩する」

  という意味のことを、繰り返し述べておられます。




さて、いろいろな資料を総合して、

当時の地図と、人口増減の図を作成してみました。


※ このサイトでの年代は、ほぼ実年と思われる「較正年」を使用しております。

Bc10000_2


Photo_3


Photo_4


さて、

クニトコタチさまの日本建国の時期(1万年前頃)を

上記グラフにて、ご覧下さい。 

変動を繰り返していた気温も、

以後はゆっくりと安定して上昇しています。


そして建国後の縄文前期になると、

東日本で人口が4倍以上、

西日本でも2倍以上に増えているのは、

「飢えなくなったため」ではないでしょうか。



ちなみに、この時代の食の特徴なのですが、

木の実や魚や貝、ときには肉や海草などを、

土器の中で「ごった煮」にして柔らかくし、

芳醇な味を楽しんだり、

燻製の魚や肉を作ったり、

後に縄文クッキーといわれるような、

保存食・携帯食(?)まで生まれました☆



こうして、クニトコタチさまの、

栗を中心とする新しい堅果栽培技術が基になり、

しっかりした快適な住居も得て、

豊かな森や川や海の恵みを活かしつつ、

東日本の人口は、縄文期の中期まで増加し続けることとなります。


西日本との人口差が、異常とも思えるほどに大きくなったのは、

安定し、これから豊かに発展・・・という7300年前(前期終わり頃)に、

鬼界カルデラの大爆発という災害が起こった為ではないでしょうか?


九州では、北の一部を除いて、総てが壊滅状態になり、

四国、中国地方でも火山灰の影響は大きいものでした。

そして、その後の土地は痩せてしまい、

特に九州では、極めて生産性が低かったことがあると思います。




さて、皆さまもよくご存知の三内丸山の最盛期は中期(5000年前頃)であり、

気候が寒冷化し、突如放棄されるのは4000年前、

すなわち中期の最末期に入ってからなのです。


そして、この新たなる寒冷化という気候変動から、

東日本の人口は激減・・・つまり大勢が飢餓により死亡したと思われ、

その為に「始めて」

より温暖な西日本への大移動が起こっていきます。



トヨケさん、イサナギさま、アマテルキミの時代は、

晩期の、

さらに寒冷化が進んだ3000年前頃と思われます。



                                   (続く)

 

(旧版 06/01/08)



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2010年4月 2日 (金)

ウケモチさんの稲はどこから? (3)  改訂2010

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ウケモチ ガ ハツキ ハツヒ ニ ナル ハツホ   トヨクンヌシ ニ タテマツル  (ホツマツタヱ 15−22)

 


建国の後。

 

クニトコタチさまのヤクタリコ(沢山の皇子)は、

ヤモ(国のあらゆる方面)に遣わされ、

そこに住みついてヲシエを伝えて行かれました。


    ※ ヲシテに書かれる8人とか8つの方向という「8」の数字は

      「すべて」という象徴的な意味を持っていることも覚えていて下さいね?


そのお1人が、カの季節の方向・・・西の方面に行かれた、

カの「クニサツチ」なのです。


ちょっと判りにくいのですが、ここで整理いたしましょう。

方向は中央のヲを起点としてキツサネ(東西南北)

それに対応した季節は、4人の代表的な皇子の名を付けられました。


東(キ)=春(タ)

西(ツ)=秋(カ)

南(サ)=夏(ト)

北(ネ)=冬(ヱ)


そして皇子たちは各地方のヤモヌシ(地方のヌシ)と、なられたのです。

後には、クニキミ、またクニカミと呼ばれる御身分です。

・・・この、地方のクニはまた、「カタ」「ガタ」ともいわれて、

さらには、

「アガタ」というコトハに転じていったようです。

181213_6
 

クニトコタチ モ

ノリメクリ クコ ワ ニ

ヤモ オ ナニガタ ト

ウム クニ スヘテ

オノコロ ソ



クニトコタチさまのノリ(法)は周り中に広がっていき、

法(トノヲシテ)により、しっかりとまとまった(クコ)地方(ワ)が、

たくさん生まれました。


    ※ 「ノリメクリ」は又、掛詞になっていて「乗り巡り」とも解され、

      おそらく馬に乗って各地を回られたと思います。


その地方のクニは、「〜ガタ」という名で呼ばれます。


クニトコタチさまが治められたことで、

クニすべてが「オノコロ」という、

恵みあふれる、なごやかで平和な状態に、

まとまって行ったのです。


このオノコロは、とても大事なコトハとして、

文献中に、しばしば使われております。

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ウケステメ(ニシノハハカミ)さんの祖先である、

アカカタノ トヨクンヌは、

カノ クニサツチの次の、

3世代目の「クニキミ」に当たります。

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   文献初出の個所の「アカカタ」では、

   「ア」がアメミヲヤを表す異字体で記され、

   「カ」は西、「カタ」は国、

   また「アカ」は、明るいという意味でもありますので、

   「恵み多く明るい西の国の」トヨクンヌ

   ということだと思います。

 




さて私は、この頃を紀元前8000年頃と推定しています。

前述の縄文時代海上交流ルートから見ると、

カのクチサツチさまは、

文化の古い長江の方に渡られたのかな?・・・と。


環境考古学の安田教授によれば、

石器時代から栄えていたのは、長江の中流に点々と位置する広い盆地群であり、

近くに、洞庭湖平原や江漢平原といわれる宏大な谷底地平原もありました。

そこには多くの人々が集まって暮らしていたのです。

そして、稲(熱帯ジャポニカ)の粗放栽培なども、

細々とながら始まっていたようです。


なにより興味深いのは、この洞庭湖の西岸には、

長江の運ぶ豊かな土の堆積のおかげか、

中国には珍しいと思われる黒土の平原があることです!

クロソノツミ(肥えて豊かな黒い土)と関係があるのでしょうか?


    ウケモチさんの稲はどこから?(2)の中程、クロソノツミの図解


そして数千年後には、

ここに中国最古の都市型集落(城頭山遺跡)が形成されます。


   栽培種の稲の起源は、長江中流域と思われる。

   中国湖南省玉蟾岩遺跡の洞窟の中では、

   紀元前1万2千年前と推定される籾が発掘された。

   これは今までで一番古い籾である。

   よって、この辺が栽培種の稲の起源である可能性は高い。


   ・・・確実に稲作が行われていたと確認が出来るのは、

   炭化米の年代から、紀元前6500年である。   (安田喜憲)


熱帯ジャポニカの栽培は、その後、数百年かかって、

中流から下流地域へと広がっていきました。

その下流の「河姆渡」では、

その後の気候悪化で、さらなる籾の改良が行われたらしく、

水田用の温帯ジャポニカは、ここで誕生しました。

その最古の水田耕作跡は紀元前5300年頃だということです。




ウケモチさんの稲籾はどこから?(1)で述べたように、

日本列島最古の稲のプラントオパールは、

島根県板屋Ⅲ遺跡の、

紀元前5300年の地層の下からも発見されていますが、

この熱帯ジャポニカの籾は、

それより少し前に、長江の河口にある河姆渡から、

直接、海上交易ルートにより、持ち込まれたのではないかと思われます。


また、岡山県にある彦崎貝塚の縄文時代前期の地層(紀元前4000年頃)から、

イネのプラントオパールが、まとまって数千粒も見つかったことは、

その後の稲栽培の広がりを証明したとも言えるでしょう。


とはいえ、佐藤・安田両教授のそれぞれの研究によれば、

我が国の稲栽培は、数千年もかかる大変ゆっくりした広まり方でした。

その理由としては、

ちょうどヒプシサーマルと呼ばれる安定した温暖期が続き、

特に日本の東部地方は、海の幸・山の幸もひときわ豊かであったのです。

食料は豊富で満ち足りていたのですから、

お米のように良い、美味しいものであっても、

手間ひまのかかる作物は栽培され難かったとのこと。


おそらく、年に数度の祭の時に捧げられ

食される程度であったのではないかと、いうことでした。

(彦崎貝塚の数千粒のプラントオパールも、

 祭祀のために集められ捧げられたもののようです)



ウケモチ ガ ハツキ ハツヒニ

ナル ハツホ トヨクンヌシニ

タテマツル キミハ カシキノ

ユフ ニキテ アメナカフシノ

カミ マツル ソロノ ホツミノ

ミケモ マタ ウスツキ シラケ

ハツヒニハ カヰト シルトソ      ホツマツタヱ 15−22より


ウケモチさんが育てた稲は、

8月1日に収穫祭を行うほどに実ったといいます。

それでその貴重 なお米を、

当時の3世代目のアマカミ「トヨクンヌ」さまに捧げました。

キミはユフ(コウゾのような木の皮を紡いで織った布)を、

カ・シ・キ(赤・白・黄)に染めた幣で

「アメナカフシ」を祀り、

その初日には、米を臼で搗いて精米(ウス ツキ シラゲ)して、

粥と重湯(カヰとシル)を作り、供え物となさいました。


ずっと後世のアマテルカミも、

「昔は年に1度しか米を食べなかった・・・」というお話をなさっています。

しかし皆健康で、長寿であったということなのです。

Photo


それが劇的な変化を見せるのが、

紀元前1000年頃の気候変動に伴う食糧不足 ・・・

                                              (安田喜憲)

  

なんとこれは、

6代アマカミ・オモタルさまの時代では?


その危機をのりきるために、

イサナギ・イサナミさまも、アマテルカミも、

続くアマキミ方も、

タミの為と、一心に、

お働きなされたのですね。


安田教授によると、大陸では、それより以前から気候寒冷・乾燥化によって、

食料不足の畑作牧畜の民が、大規模な南下を始め、

長江流域で栄えていた稲作・漁労の民は、

しだいに山地や僻地に追いやられていきます。

その一部は同じ稲作・漁労の人々の住む、

朝鮮半島沿岸や、日本列島にも移り住んでいったそうです。


                    → 寒冷化による大陸の民族移動図




以上さまざまな考察を致してきましたが、

特に環境考古学と照らし合わせることによって、

ヲシテの記述が次々と検証されるのは、

とても素晴らしいことと、喜んでおります。

・・・・ただ・・・勉強が大変ですが・・・汗)


それとともに、現在の私たちが考える国というものと、

当時の「クニ」という概念は、

どうも違っているのではないかと感じました。


なにより「キミ」という無私のお心を持つリーダーを戴いて、

「トノヲシテ」のもと、

「オノコロ」と纏まっていったのが、

私たちの日本(ヒノモトのクニ)なのですから。


カミノヨ(祖先の世)は特に、

人種もいろいろ、出自もいろいろ。

ミヤヒ(思いやりあう)の心で、助け合うのであれば、

何処の人であっても出入り自由と、

クニは開かれていたのですね・・・



だからこそ、

発音しやすいシンプルな5つの母音で、

まず「ヲシテ」が作られた。

次にその字を使って、

コトハ・・・誰にでも解りやすい合理的な言語・・・を、

作り上げたのです。


それは、建国にあたり、

クニトコタチさまと、その周囲の方々の、

最初のお仕事ではなかったでしょうか。



最後に紀元前2世紀より前(もちろんヲシテ時代)の、

発掘された温帯ジャポニカの籾の遺伝子図をご覧下さい。

そのうち1種類は、長江から直接渡来したことが解ります。

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ウケモチさんの籾(熱帯ジャポニカ)も、

イサナギさまが水田に播かれた籾(温帯ジャポニカ)も、

やはり、ご縁の深い長江河口付近から、

直接、持ち込まれたのではないでしょうか。


(旧版 06/07/17)



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2010年3月12日 (金)

ウケモチさんの稲はどこから? (2) ニシノハハカミ 改訂2010

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ミチミ ノ モモ オ タマワレ ハ

ハナミ ノ モモ ハ マレナリ ト

クニツト ニ ナス       (ホツマツタヱ 24−25)


さて、ヲシテ文献を調べてみましょう。


アマテルさまが皆に長寿のための食を説かれた、つまりはお講義なのですが、

以前に伯母ギミにあたられるココリヒメ(シラヤマヒメ)から、

聞いたという実例をあげて、丁寧に説明しておられます。


そしてこれは同時に、

建国すぐからの大陸との直接の行き来について語られている、

きわめて貴重な記録となっています。


大陸との交流というならば、

すぐに渡来人、(あるいは難民)という答えしか思い浮かばない方も多いのですが、

クニトコタチさま以後、つまり縄文時代になると、

こちらからも大陸に渡って行ったことが明確に記されています。


次に上げるヲシテ原文からは、その初期の記録と、

はるか後世のトヨケカミの頃に、中国から、

我が国ゆかりの方が「留学」のため来日されたということが分かります。

これは国史としての記録ですので、ヲヲヤケにかかわる方の話ですが、

そのような行き来は一般人も、古来から自由にやっていたようです。


    ※ 前エントリ一番下にある「古代文明・海上交易ルート図」参照のこと。

15413

 

クニトコタチさまの8人の皇子のひとり、

「カのクニサツチ」は、西の国、中国にわたって行きました。


 クロソノツミは、安聰漢訳では(つまり中国語では)

「玄圃積国」そしてまた「元本當珂故 名赤懸神州以」とあります。

 

赤懸神州とあるのがアカカタで、

そこに住み着いたのがクニサツチの次の世代である、

「アカカタのトヨクンヌ」なのだそうです。

そしてクロソノツミというクニを世々に渡って治めていました。

そして長い長い、何千年もの時がたつうちに、

伝えられた一番大事な「トのヲシテ」の精神も忘れられて行きました。


司馬遷の『史記』の中に「神州赤県」という言葉があります。

時代は紀元前100年頃でしょうか。

また唐の時代にインドに行った求法僧、義浄の『南海寄歸内法傳』の中に、

「神州赤縣之郷」という言葉が、記されていますが、

これは後代の西暦700年頃であるということです。

そして、いずれも「中国」を指す普通の言葉であるとのことです。


また漢字熟語には、玄圃積玉 (げんぽせきぎょく)があり、

詩文の美しいことの例えで、

古の玄圃国の美しく貴い玉石から由来しているようです。


下の図象で、漢語「玄圃国」で表された「クロソノツミ」の本当の意味が判ります。

一口に言うならば「土の豊かに肥えた国」さらに「コロヒンキミ」の皇子「クロソノツモル」も、

「土を豊かにする方」という意味になるのです。

Photo


そして中国においては、玄圃は崑崙山上にあるといわれる仙人の居所・・・

次の文に出てくる言葉、コロヒンが崑崙を指すようです。

そうすると、崑崙にある玄圃国だということになりますね。


中国では実際に崑崙山脈があります。

しかし文に書かれる崑崙山、そこにある玄圃国は現実のものではなく、

神話として「神仙の住む国」ということなのです。

出典は『山海経』や『淮南子』他の中にあり、

中国の周から前漢の時代(紀元前300年〜150年頃)に書かれたといわれます。


もっとも「山海経」の一番古い(紀元前1000年頃成立と思われる)部分は、

当時の大陸の土着信仰そのままに、

疫病や死生を司るという奇怪で恐ろしげな神仙の住むところのようになっていますが、

漢の時代に移ってから「道を教える国」ということになり、

そして時代が下り、道教の発展につれて、下にご紹介するように、

美しい不思議な神話に変わっていくのです。

 

・・・そこは樹木が茂り池が水をたたえる園庭が広がり、

多くの仙人が住むという美しい神の世界で、

穆王や東王父が訪れたとされる。

さらに崑崙が世界の中心にあって、頂上で北極星や北斗七星と繋がっており、

星々を回転させているともされていたようだ。

おそらく月神としての西王母との関連からだろう。

                          → 崑崙


ヲシテでのコロヒン(崑崙?)をご覧下さい。

空想や神話ではなく

「アメの恵み豊かに(作物にも人にも良い)生命あふれる土地」を意味しています!


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祖先の尊い精神的な伝統が消えてしまった。

それを憂いたのが、トヨクンヌの遠い子孫に当たるウケステメです。

何と来日して、

当時ネノクニの近くで一帯を治めていたタマキネ(トヨケ)さまに、

教えを請うたといいます。


これはトヨケカミの晩年に当たるのですが、紀元前1000年頃と思われ、

興味深いところですね。

 

その熱心さと誠実にうたれたトヨケさまは、

ココリヒメ(シラヤマヒメ)と姉妹の契りを結ばせました。

「ヤマノミチノク」を授けられて帰国後、

ウケステメはコロヒンキミ(崑崙王)と結ばれ、

クロソノツモル(玄圃積王)を産んで、

ニシノハハカミ(西王之母)となったそうな。


ヤマは大事なこと、重要なことという意味にも取れますが、

ヤマトの略形かも知れません。

ミチノクは、ミチの奥義ではないでしょうか。

とすれば、当然「トノヲシテ」を深く学んで、奥義に達したということになります。

 



そして、これらの記述の内容から、

紀元前1000年頃という年代推定が出来ますが、

後の中国神話の元になっている可能性も、

充分考えられるのです!


つまり彼の国での神仙思想(道教など)の根っこは、

大陸に我が国から伝わった、トノヲシテと縄文哲学や文化であり、

1度廃れてしまったその思想を、紀元前1000年頃に、

再び復活させたのが、ウケステメさんこと「ニシノハハカミ」

そしてそれが、あまりにも素晴らしかったために、

国亡き後も、この世にはない理想郷として神話となった・・・

 

このウケステメさんは、たいそう長命だったようで、

再来日していますが、最後に来た時(たぶん3回目)には、

ニニキネさんにもお会いになり、土産にミチミノモモ(三千壽桃)を賜っています。

トップの画像の原文がその個所です。

3千も実をつける・・・つまり、とても実の多くなる桃なのですね。

コロヒンでは、花もいっぱい咲いて、実もいっぱい付ける桃は、

めったにありませんと、ウケステメさんも喜ばれたようです。


  ※ 余談ですが、西王母と桃は、

    前記の『淮南子』が初出で、年代は紀元前120年頃でしょうか。

    漢の武帝が西王母を訪ね、一緒に桃を食べた・・・というお話。

    (ヲシテが書かれたのは紀元前600年頃、4百年以上も前なのです)


    この後になると「3千年に1回花が咲いて実を付ける桃」

    「不老長寿の仙桃」になっていきます。


    ずうっと後世の、17世紀になってからの伝奇小説『西遊記』には、

    「孫悟空が西王母の桃を盗み出して大騒ぎになる」

    といったエピソードまで加わっていきます。

    この小説では、西王母の桃園には

    「3千年に1度実り、仙人になれる桃」

    「6千年に1度実り、不老長寿になる桃」

    「9千年に1度実り、天地のあらん限り生きられる桃」

    の3種類があるんですって!

    また西王母の誕生日が、なんと3月3日とは・・・笑)

 

 


ウケステメさんの最後の来日は、すでに、80才近くになっていたと思われます!

でもね、不思議な話ではないのです。

我が国は古きより、長寿のクニとして有名だったからで、

それは独特の、肉を食べないという食文化が影響しています。

ウケステメさんは、それもしっかり学ばれていたのですから。


以下は再来日した時のお話で、

自分の国では、 なかなか食養生が理解されないと嘆かれているのですね・・・

 

15456


我が故郷のコロ(ヒン)の人たちは愚かで、

シシ(獣肉)を好み、そのためにせいぜい百歳、二百歳くらいで、

ハヤカレ(早世)してしまいます。

命に千年、万年を望んでいても、日々肉を食べているのですから。


シナキミも長命を保つという「チヨミグサ」を尋ねて来られました。

・・・(しかし、獣肉を食べ続けていて、そう望んでも無理なことです)

と、ウケステメさんは嘆きました。

 

長寿のための食養生は、はるか建国期の昔、トノクニサツチに始まっています。

ハッキリとした獣肉の禁止が定められたのは、

食生活が豊かになった頃、アマテルカミがタミの長寿を願ってのことでした。

そして、みずから苦い「チヨミグサ」を常食なさり、大変長生きをなさったのです。

この教えは、

詳しく読むならば、ビックリするくらい科学的で行き届いた養生論となっています。

 

さて。


ヲシテに書いてあるコロヒン(クニ)の場所を特定することは難しいです。

地名や国名からは「恵み多く生命にあふれた、土の豊かなところ」ですが、

ウケステメさんが語ったところでは、険しい山々が多い国でもあるそうです。

・・・なんだか、長江の中流付近をイメージしてしまいますね?


     追記(4.6.2010)

                   安田善憲教授『稲作漁労文明』によると、

         長江の中流には、点々と位置する広い盆地群があり、

         石器時代から栄えていたそうです。

         そのうちの1つ洞庭湖の西岸は黄土ではなく、

         黒土の谷底平原が広がっているとのこと。

         「クロソノツミ」には当てはまっているのですが、

         もしかすると・・・?


「ミチミノモモ」のエピソードと共に、

興味のお有りになる方は、こちらに原文を用意しました。

最後の来日の時の記述です。

                   原文は  こちら

 

  ※ 「シナキミ」のコトハですが、本来、Cinaの音源はサンスクリット

    (紀元前1500年頃からインドで成立した言語)にあります。


    ちなみに、

    文化人類学の姜 波教授によれば、この言葉には諸説があるそうです。

    通常に知られている、古代インド人の秦・漢時代の中国に対する呼称である他に、

    サンスクリットでの「辺ぴで遠いところ」を示す言葉でもありました。


    また、Cinaはチャン(羌)族のことも指すそうです。

    羌族はすでに周の時代(前1027〜前256年)には

    黄河中流域に広く住み着いていました。

    歴史的には、商王朝(前1500年頃から)時代の殷時代・甲骨文字の資料に

    記載された遊牧民“先”の末裔と考えられています。


    このホツマツタヱ前半にある記述は、クシミカタマさんのお手によるもので、

    それまでの多くの文書や伝承を取りまとめ、書かれたのが、

    紀元前600年頃のイハワレヒコ(神武)さまの御世なのです。


 


 中国神話の西王母 

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西王母は、中国古代の仙女。

崑崙山或いは群玉山に住む神仙といわれ、

仙女の世界の女王的存在として長く民間で信仰された。

「金母元君」、「瑶地金母」、「九霊太妙亀山金母」、

「太霊九光亀台金母」などの別名がある。

男の神仙と東方を治める東王父に対し、

女の神仙と西方を治めるのでこう呼ばれる。


「山海経」の「西山経」(紀元前1000年頃成立)によれば、

玉山に住み人面で虎歯、豹尾を持ち蓬髪(おどろがみ)といった恐ろしい姿で、

天の災いと五残(罪人に対する処罰法のこと)を司るとある。


しかし次第に美化されて「淮南子」の「覧冥訓」(紀元前120年頃)では、

不死の薬(三千年の桃)をもった絶世の美女とされる。

またさらに周の穆王が西征してともに瑶池で遊んだといい、

(「列子」の「周穆王」「穆天子伝」)、

長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、

漢代には西王母信仰が広く行われた。


  ※ ヲシテ文献中、このアヤ(文)成立は紀元前600年頃。



        

最後に「ウケステメ」さんの御名が、どんなに素晴らしいか、

ヲシテ図象によってご覧下さい。


Photo_3

                             (続く)

☆おまけ☆   中国現代画 偉大なる「西王母」

(旧版 06/07/17)

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2010年3月 5日 (金)

ウケモチさんの籾はどこから? (1) 改訂2010

Tanbo_hana

 

前にも種モミの発見者で、

稲の栽培をはじめたという「ウケモチ」さんのことを書きましたが、

もう一度違った視線で考察を加えてみようと思います。

 

我が国で稲の栽培が始まったのは、最近の発掘調査を元にした考古学研究によれば、

紀元前5千年より前ではないかと推定されるようになりました。

つまり、今から7千年以上も昔のことになるのです。

 

現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、

縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされているが、

水田栽培以外の稲作であれば、縄文時代前期にはその痕跡が残っている。

つまり、縄文時代の地層から、

稲のプラントオパールが続々と検出されるようになった。


プラントオパールとは、

植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が

地中に残ったもののことで、

このプラントオパールにより、

過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。


最も古いプラントオパールというと、

岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されている。

これらをもとに、近年ようやく、縄文時代にも稲作があったということが

考古学界でも認められるようになった。

        (総合地球環境学研究所 佐藤洋一郎教授) 2001年9月対談

 


その後のこと。



中国山地の奥深くにある島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡からは、

なんと7000年以上も前の地層から、ヒョウタンとキビに混じって、

稲のプラントオパールが検出されたのです。


これは縄文早期にあたり、アカホヤ火山灰層(7300年前 補正年)の、

上はもちろん下の層からも出土して年代確定されました。

そしてこの年代は、熱帯ジャポニカとはいえ、

中国の河姆渡の水田遺跡の年代にも相当するのです。

          (元ノートルダム清心女子大学 高橋護教授)



また2005年2月18日共同通信記事。


岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、

イネのプラントオパールが大量に見つかり、

18日灘崎町教育委員会が発表した。

この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。

イネの栽培をうかがわせ、

これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)を

はるかにさかのぼる可能性がある。

縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。


同教委によると、

プラントオパールの数は、土壌1グラム中2000〜3000個。

岡山理科大の小林博昭教授と、

ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、

地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。

イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類の

プラントオパールも検出されているという。


当時、貝塚は海岸部にあり、

イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。

貝塚には墳墓があることや、

イネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、

祭祀(さいし)の際の宴会や、脱穀などの、

共同作業で持ち込んだと推定されるという。

高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、

大陸から伝わったイネではないか」と話している。


縄文時代の イネについてはこれまでも同教授らのグループが調査。

4500年前(縄文中期)の姫笹原遺跡(岡山県)や、

6000年前の朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールを検出してきた。

しかし微量だったことから、上層からの混入や、

中国大陸から風で飛ばされてきたのではないかなどという

疑問の声も根強かった。

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ウケモチさんについて詳しくは、以前のエントリーも読んで下さいね?


                  稲を発見した「ウケモチ」ウケノミタマ

 

ウケモチさんはいつも、ウ(良い)ケ(食べもの)ナ(菜)を探し求め、

あらゆる草木の種などを採取しては研究、改良されていました。


ここの「ウ」は、特殊文字でアメ(宇宙原理)の偉大な力を表しています。

次の「ア」もそうですね。

 

ウケモチさんの熱心な一途なこころを「アニ コエハ」と表現されています。

アメ(アメミオヤ)にお願いする気持ちなのでしょう。

見つかったのはお日さまのエネルギーを受けた、すばらしい種「稲籾」です。

そう、いつもアメのこころと一致していらしたからでしょう。

アからもたらされた種は、本当に素晴らしかったのです。

 

「ヒウルニ ハユル ウルノ ソハ ウルタノ ソナエ」


韻をふまえて、とても美しい文章です。

お日さまのウルナミ、大いなるエネルギーに息づいているさま。

ウルノソ、瑞々しい稲のやわらかい輝きが感じられます。

ウルには潤うという意味もありますものね。

そしてこの現実世界のウルでは、通常の字が使われています。

ソハ「ソ」は、稲を表す特種文字。


この文章は、稲を称える褒めウタのように感じます。


ソロ(田畑の産物)がいかに貴重なものであったか、

当時の想いが、深く心に響いてくるのです。


「ヨルナミニ ハユル ナロナハ ハタノ タネ」


というのは、夜のナミ、つまりお月さまのエネルギーを受けて育つという、

菜っ葉や雑穀のことをうたっています。

ナロナ「ロ」にも、点が入っていますね?

は畑で育つもので、アワ、ヒエなども含まれていますが、

田の稲はお日さまのウルナミを、

畑の作物は月のヨルナミを受けて育つと考えられていたようです。

そして、クニトコタチ以来の、

これまでの「アメをマツル」ミケ(神饌)は、

木の実であったのですが、これ以後は、

ソロを捧げるようになったと書かれています。

 

ヲシテ文献でのこの伝承は、先に書いた考古学の記事とも矛盾しません。


アメミオヤへの良い食物を下さいという熱い願いは、

種籾という形で、からもたらされたというのですから。

我が日本列島でなくても、直接ウケモチさんが頂かなくても、

ちっともかまわないわけなのです。


ウケモチさんが手になさった籾は、

おそらくご縁のあった長江の辺りから、

誰かが「ツト・手土産」として持ち込んだと思われるのです。

なんせ建国からすぐに、カのクニ(中国のこと。華人、華僑の)へ、

クニサツチのお1人が移住、代々住み着いて暮らしていましたから。

そして、私たちが思うよりひんぱんに、

いろいろな人々の行き来は、なされていたように思えます。



その田んぼの状態ですが、実際の研究では・・・


春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、

夏の間は高くなった地下水位にささえられて稲作を行う。

渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの

乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。

反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫出来たであろう。

その意味では、縄文時代の稲作環境を「焼畑の稲作」と

呼ぶことは誤解を生じるかもしれない。

かって渡部忠世先生が言われた「水陸未分化」の稲作と

いうのがより適切なようにも思われる。

                       (佐藤洋一郎) 

 



さて遥か後世、水稲の時代に移ります。


紀元前200年より前の時代の、

発掘された水稲モミ(温帯ジャポニカ)は、大きく2種類にわけられ、

中国・朝鮮両国の発掘モミの遺伝子も調べて、比較したたところ、

日本の2種類のうち、1つは

朝鮮半島には存在しないものであったことが分かりました。


これにより温帯ジャポニカのひとつは、

長江から黄河流域にまで伝わったものが、

中国、山東省(黄河のほとり)付近から、対馬暖流ルートにより、

直接入ってきたという説が現在もっとも有力になっています。


またもっと古い時代のものと思われる熱帯ジャポニカは、

江南(長江のほとり)から直接である、黒潮ルートが考えられること・・・

 

 

岡山の遺跡から発見された籾の遺伝子は、

中国の彭頭山(ほうとうざん)遺跡や、河姆渡(かぼと)遺跡から発見された籾と

同じ遺伝子を持っていたということである。


長江中域にある彭頭山(ほうとうざん)では、

1980年代に湖南省聽県彭頭山で最古の環濠集落が発見され、

稲の散播農法を主流としていたと考えられている。


このように、中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が

続々と発見されており、古いものは1万2千年前に遡る。

ここで見つかった炭化稲籾は古いもので1万2千年前のものとされている。

     ※ 以上はもちろん熱帯ジャポニカのこと。


長江河口に近い下流域に位置する、河姆渡遺跡では、

約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、

稲の水田耕作については、

長江下流に起源するとする説が今では有力とされる。

     ※ 温帯ジャポニカの誕生。それ以前は熱帯ジャポニカであった。

 

                        (佐藤洋一郎)

 

下図は環境考古学の安田喜憲教授による、古代文明の頃の気候区分と、

海上交易ルートです。

大陸と我が国、双方での遺跡発掘品(翡翠・玉製品他いろいろ)

また気候、植生の比較により、明らかになったのだそうです。

 

我が国最古、島根県の山奥の7300年前のプラントオパールも、

さらに、

ヲシテ文献にあるナカクニ(琵琶湖付近)のウケモチさまの稲籾発見も、

この交易ルートを見れば、なるほどと、肯けるのではないでしょうか。

Photo_2

 

私はウケモチさまが育てられた稲は、

長江の古い時代の、熱帯ジャポニカに違いないと思います。

 

さて、現在認められる朝鮮系の温帯ジャポニカは、

これとは全然別のルートで大陸南部から半島に伝わったものであり、

それが日本に達したのは後のことであったと言えるでしょう。


つまり水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種がすでにあったということです。

そして、佐藤氏によれば、縄文の人々はフットワークがよく、

大陸へ渡るなどは軽いことであったと述べられています。

 

一般には今でも、弥生人は朝鮮からやって来た人々であり、

その人たちが、稲作を伝えたと信じられています。


ところが、もっともっと何千年も前の古い時代から、

我が国ではすでに稲作が行われていたことが、

佐藤教授を始めとする研究者により、イネのDNAを調べるという手法や、

環境考古学の安田教授などの精密な検証「年縞」の元に、明らかとなったのです。


              佐藤教授対談「稲のたどってきた道」(2001年9月)

              安田教授対談「年縞について」(2004年 夏)
 


 

次のエントリでは、ヲシテ文献をさらに詳しく調べていこうと思います。        

                             (続く)

(旧版 06/07/17)

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2010年2月19日 (金)

アマテルカミの お馬 (2) 本当は・・・どんな意味?

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最近、文献を読んでいますと、

急に、気になって調べたくなるコトハが増えました。

今まで、「こういう意味よね・・・」なんて、

当たり前のように思っていたのですが、

その当たり前のコトハを、もう一度字形からも確認してみたいというような・・・

これは『よみがえる日本語』に取り組んで以来の、

むしろ楽しいワクワク現象のようです。

それと共に、

すべてをちゃんと説明するということは、

本当に難しいというのがますます判ってきて、途方にくれることも多くなりました。

けれども、それはきっと、

やっとヲシテを読む資格が出来た、

そう。スタートラインに立てたのかも知れません。





例えば

ホツマツタヱ19のA「ノリノリ ヒトヌキマノアヤ」冒頭の一節。


「アマテラス ヒツギ オ ユスリ」


はあ・・・アマテルさまが御位を譲られたのね?

なんて、早とちりしないで下さいね?

前後をしっかり読まないと、全くの大間違いになってしまいます。

もちろんこのような極端な例は、有り得ないことです。

しかし、ある一節のコトハだけで、その意味を考えてしまうことが、

残念なことに、まだまだ、あるような気がいたします。


Photo_3

今回は、この原文・原字を、各自でお読みになって、

どうぞ考えて頂きたいと思います。


さて・・・私が注目した個所です。

皇子ワカヒトさまに、

「アマテラス ヒツギ オ ユスリ」

と続きますと、つい、

「日継ぎ」という漢字混じりの言葉が思い浮かびます。

ですけれど、

ヒツギは日継ではなく、本来日月を意味しているのでは、ないでしょうか。



ふと、そう思って調べてみますと、

ヒツギヒツキは、同じくらいの頻度で(意味も同じに)使われていることがハッキリしました。

そして「ヒ」は、例外なく太陽を表す異字体が使われています。

お月さまの「ツキ」には、通常も異字体は用いません。

そして地球では、

太陽の光や熱の恵み、月の影響の元に水の恵みを受けていて、

すべてのものが命を育んでいるのですから、

アメの恵みを表すときには、必ず日と月のコトハがセットで使われる例が多いのです。


となりますと、この中濁点は強調に使われているのかも知れません。

「アマ」は、アメの語尾変化したもので、次の語とひとつになります。



アメミヲヤの恵みが地球に明るく降りそそいでいる、

その(目に見える形)日と月。

キミの御位も、そのような意味を持っていて、

「世を恵み、明るく豊かにする」ということなのですね・・・

日継ぎという漢字を使うと、このような深い意味がまったく感じ取れません!

ですから、

「この世での日月のようなお役目を、お譲りになった」


本来は、このように読み取るべきなのではないでしょうか。

そして、この意味が、そのままお名前になったお方は、

アマテルカミ、ただ、お一人だけ。


そうしますと、後の漢字時代に出てくる言葉の、

その誤訳の酷さが、しっかりと明らかになります。

それは、アマテルさまの御孫で、

ニニキネさまの御兄ギミ、アスカノホノアカリ(アスカヲキミ)さまの御名。


「天照國照彦天火明尊」あるいは「天照国照彦火明命」

この方の御位を継がれた、ニギハヤヒさまと一緒くたにしていますしっ!

もっと、メチャクチャなのは、

「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」という漢名が一書にあるんです。

これ・・・アスカノホノアカリさまですって!

クシタマも、お名前になるはずの無い褒め言葉なんですけどっ! (怒)


アマテル → 日月の意味を説明する、アマテラスの略語。人名はアマテルカミだけ。

クニテル  → ニギハヤヒさまの真名。

テルヒコ  → アスカノホノアカリさまの真名。




文献のお馬の話に戻りましょうね。

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      この絵馬は江戸時代、三代将軍・家光の頃のもので、

      丹波篠山の春日神社に奉納されました。

      しかし、古代の和馬の優れた体格、性質を受け継いだ、

      堂々たるクロコマであることがよく判ります。

      山坂の多い我が国では、胸幅は広く逞しく、

      後ろ足の腿も尻も筋肉はしっかりと発達いたします。

      そして、戦場でも臆することなく突進してゆける勇壮さ・・・

      荒ぶる勢いまでが表現されています。

      このような馬であれば、戦いの時など、

      軍装でずっしりと重くなった男性が乗っても、

      どこまでも疾走していけるでしょう。

      我が国に、このような古代の血筋を見事にうかがわせる、

      和種のお馬たちがよみがえるのは、いつの日のことでしょうか。


さてヲシテでは、馬のことを「ムマ」「コマ」と記します。


平安時代の『倭名類聚抄』・・・我が国、最古の漢和辞典・・・には、

馬の古訓は「むま」であると記されています。つまり「うま」は、後世の言葉なのですね?

また「こま」は、大陸からの馬「大馬」と対比させた言葉で、

なんと、「小さい馬」「子供の馬」であり、小馬あるいはと書きます。

そして時代が下ると「普通の馬」を意味する言葉になっていったそうです。


しかしヲシテ時代においては、

「ムマ」「コマ」には別の意味があって、

しっかりと書き分けられていました。


「ムマ」は、自然な状態にある馬、

あるいは「馬という動物」の意味です。

それに対して「コマ」は、人が調教して乗馬用に訓練した馬なのです。

この書き分けを見ると、

我が国において、人が野生の馬を馴らし、

使うようになった時代が、ほぼ推定できるようです。

Hotuma1817_3

このフタカミは、イサナギ、イサナミさま。

そしてお若かったお2人が御位をお継ぎになると、(コマにお乗りになって)

国中あまねく、「ノリメクリ」

細やかなことまでご指導されたという記述です。

人々がネトネトの水田で苦労しているのをご覧になって、

「ムマ」やウシの力を使いなさいと。




この時代から馬のことが記されるようになっています。

調教や馬術は岳父(イサナミさまの父)の、トヨケさまが完成された技。

その子世代・・・つまり、フタカミの時代・・・紀元前1000年くらい?には

「ムマヤヲサメ」という役職まで出来ていたようです。

トップの原文の最後に

「ヲハシリハ ムマヤヲサメソ」と、

フタカミのお言葉が書いてありますから。


そしてこれ以後、前述のアマテルさまの天地創生の比喩以外は

ほとんどの記述が調教された馬である意味の、「コマ」に変わっているのです。

Photo_2

さて、アマテルカミに献上されたお馬のひとつに、

「ヒツメ アオコマ」がありました。

蹄の強靱なアオコマって、どんな馬だったのでしょうか。


「アオって、毛色じゃないの?

 だけど、白馬の節会(あおうまの せちえ)ってあるわよね。

 結構、古い時代からのものだし・・・

 それに白は清浄な色だから、やっぱり白なんじゃない?」

「いえ、青馬って、黒い毛色の馬なんですってよ!」

「・・・・・・・・・?」



言葉は、時代により変わっていきます。

訓読み、あるいはヤマトコトハといっても、さまざまなのですね。

まずは、漢字時代以後〜昭和初頭期までの言葉、全てが載せられている、

一番信頼できる『大言海』に当たってみることにしました。


あを(青)  ・・・「あお」という項目は無い。

     (一)晴天ノ空ノ如キ色。(二)青緑ノ泛称。(三)六位ノ衣袍ノ深緑ナルヲ云フ。

     (四)青毛ノ馬ノ略。ソノ条ヲ見ヨ。

     (五)未熟ノ果実。(六)人柄、技前ノ未熟ナルコト。

あをげ(青毛)

     馬ノ毛色ノ名。黒色ノ潤沢ニシテ、青ミ立チテ見ユルモノ。

     古ニ云ヒシ、黒緑ナリ。

あをうま(青馬)

     (一)青毛ノ馬。クロミドリ。又青駒。

        後世ハ専ラ黒毛ノ馬ヲ、あを馬ト云ヒ、単ニあおトモ云フ。

     (二)青、白、雑毛ノ馬ヲモ云フ。

あをうまのせちゑ(白馬の節会)

     此儀式ニ、初ハ、青毛馬ヲ牽カセラレキ、

     馬ハ陽獣ニシテ、青ハ、青陽ノ春ノ色ナリ。ト云フニ起レル事ナルベシ。

     初ハ、青馬ヲ牽セラレタルニ、後ニ、白毛ノ馬トナリ、

       文ニハ白馬ト書キナガラ、

       語ニハ、ナホ、古ヘノママニ、あおうまト訓メリシナリ。


これで漢字になってからの「青」の言葉の意味や移り変わりは解りました。

この『大言海』には、検証として上記の言葉がどの古文書に記されているかも、

文例として全てが載せられていますので、

言葉を調べる時には必ずこの辞書を用いなければ、お話になりません。

なにしろ「広辞苑」は、これを基に、

近代風(?)に簡素化省略され、新しい言葉を加えて作られているのですから。


さて、漢字化される以前・・・何千年も前からのコトハ、

私たちの最初の言語であるヲシテでは、どうなっているのでしょうか。



アオというコトハは、全文献中に52例があります。

そして大きく2つの意味を表しています。

ひとつは、ある状態を示していますが、

もうひとつは、その状態を踏まえた色そのものとして。


         キ ハ ハル ワカハ 

ナツ アオハ  アキ ニヱ モミチ

フユ オチハ                 (ミカサフミ キツヨチノアヤ)


最も基本的な、アオという色の説明ですね?

木は、春には若葉が萌え、夏には青(深緑)の葉となる。

秋にはニ(丹、つまり赤色)の色の紅葉。

冬は落ち葉となる。

つまり夏に、活力に満ち照り輝いている濃い緑の葉の色がアオ

同じように 「サナエ アオミテ ナツヲツク」

このようなアオハの例は、たくさんあります。

次は縄文哲学の例。


ヤイロ ノ ニキテ 

ミナミ アオ ニシ ハ クレナイ

キタ ハ キ ニ ヒガシ ハ シロク

アイ モ イロ                (ミカサフミ タカマナルアヤ)


宇宙のはて、トコシナヱとの8つの際には、

ヤイロ(8色の)ニキテが立っています。

南(サ)にはアオ、西(ツ)には紅(クレナイ)、北(ネ)には黄(キ)、

そして東(キ)にはシロの色が立てられているのです。

ア(ミヲヤ)のエネルギー(イ)は、

このように美しい彩り(イロ)として現れます。


方角にもこのように相応しい色があって、すべては自然を良く観察して決められ、

その中でも特に、 南を表す「サ」は、明るく豊かに潤い栄える、

という意味から尊ばれていました。

畑でも、田んぼでも南向きの、日当たりの良いところが、育ちも良く、収穫も上がることは、

誰でも知っていますよね?

そして夏を迎える頃、大きくなった苗や果樹の葉っぱは、日ごとに緑を濃くしていくのです。

ですから南の色、夏の色は、もちろん「アオ」・・・濃い緑

ご先祖さま方は、この栄え・豊穣を予感させる色「深緑」を、とても尊んでいらっしゃいました。


このような観察から「勢いが強い」とか

「若さあふれる」という意味も生まれてきました。

若い女性は「アオメ」、元気な民をアオヒトクサ」と、しばしば記してあります。

実は具体的な色そのものではなく、より哲学的な意味を表しているのが、

「アオ」というヲシテなのです。


アがオになったもの・・・そのチカラが人の目には

深緑に見え、輝く・・・みたいな。



  Photo_8


さて「アオコマ」の場合はどうでしょうか?


「アオ」という色は深緑ですから、馬の色としては考えられません。

それにアマテルカミに献上されたお馬は、「コカネ ヒツメ ノ クロコマ」と、

ちゃんと別に「クロ」という色が記されているのですから、黒い馬でもありません。

別のアヤに、アマテルキミのお乗りになったテクルマの、

左をイフキヌシが、右をクマノクスヒ(アマテルさま皇子)が、

「シロ クロ コマ ニ」 乗ってお守りなさった・・・と。

だから白い馬でもないのです。




以上の考察、字の分析から、

「ヒツメ アオコマ」は、間違いなく、

蹄が強靱で、大変元気で勢いのある、調教された献上の馬であると、

断定できると思います。


ソサノヲさまの悪戯の例では、この「アオコマ」のコマを略して、

ナシロ(苗代)シキマキ(重蒔き)アオ ハナチ

ミノラス(稲は実らなかった) ミソノ(アメに捧げる稲の田)などという、

とんでもない記述がありますが、

「アオ」が、このような勢い盛んな若いコマであれば、

放たれた時、喜んで元気に駆け回り、

そこが苗代や畑ならば、踏み荒らしてしまう・・・

ね?・・・大変自然な成り行きではありませんか。

 

 

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2010年2月 6日 (土)

アマテルカミのお馬 (1)

Photo_3
サクラハ ナレハ マタノ モチ・・・


「コレ ソラ クモリ アラサリキ」



ホツマツタヱの19B「ノリノフミ テルタエノアヤ」

このような、いかにも晴々とした記述があります。


ハタレ大乱も平定されて、国は平和を取り戻し、

安らかな日々が流れておりました。

そして、立派に成人なされた日継ぎの皇子・オシホミミさまは

御位をお継ぎになり、正式に9代アマカミとなられました。

そして新しい都は、

トヨケさまの思い出も懐かしいヒタカミの「ケタツホ」に引き移されたのです。



アマカミが政を執られるミヤのある場所が、今でいう都です。

文献では「アメ」とも記されることがあります。

が、他に、

特別な伝統を表す「ツホ」という言葉もありました。



建国の地であり、イサナギさまの都でもあった琵琶湖西岸の「オキツホ」

アマテルさまの即位後、最初の都であった「ハラミツホ」

アマカミの都ではないのですが、

別格としては、建国期にタカミムスビの本拠と、

クニトコタチさまが定められた「ケタツホ」

この3カ所だけを「ツホ」というコトハで表していました。




さて、アマテルさま。

状況によって、各地のいろいろなミヤにて政をお執りになっていました。

そして譲位をされた後は、イセに落ち着かれたと書かれています。


Photo_6

      トキニ ツキスミ 

オオクマト ヒツメ アオコマ

タテマツル 

      カミ オモシロク

オホスレハ クマトニ タマフ

ミアエ ニハ 

      ヌヱアシモチ ガ

ガサクサ モ コケウ ハコヘナ

イタヒラコ ススナ ススシロ

スセリ ナツ コノナナクサニ

ノソクナリ 




ちょうどその頃。

ツキスミ(九州、ツクシともいう)のオオクマトが、

ヒツメ(蹄)が強靱で、

大変元気で勢いのある若コマ(乗馬用に調教された馬)を、献上しました。

アマテルカミは大変お喜びになり、

クマトの為にミアヱ(御餐)を催されたのですが、

ヌエアシモチという障りが起こす、

ガサクサ(タチの悪い腫瘍のようなものか?)をも除くという、

薬効のある七草を馳走なされました。





アマテルさまが、ゆったりとお暮らしになれる日々が、

ようやく始まったのですね。

そして、何と「春の七草」

アマテルさまが身体に良いとして

お選びになったものだったのです!


しかも、オシホミミさまのご即位は、

ハルノハツヒ・・・元旦のことでしたから、

1月7日に七草がゆを食べる習慣は、この時からなのでしょうか?

ちなみに現代でも春の七草は、

ごぎょう、はこべら(ハコへナ)ほとけのざ(イタヒラコ)すずな、

すずしろ、せり(スセリ)なづな(ナツ)と、

まったく同じなのです。




さて次の月、桜はすでに葉が茂っていたと記され、

その満月の日・・・2月の15日のこと。



Photo


      サクラハ ナレハ

マタノ モチ 

      コカネ ヒツメ ノ

クロコマ ノ タカギ ガ ヒケハ

タテマツル 




黄金のように貴重な、それはそれは強いヒツメを持った黒いコマを、

タカギ(前・タカミムスヒ)が引いて参内し、

アマテルさまに献上致しました。

この方は、アマテルさまの従兄弟にあたります。

そして共に、トヨケさまにミチを学んだ親しい仲でもありました。


前代の終わり頃から、

アマカミのミユキ(行幸)といえば、

格式を重んじた規模の大きなものになって行きました。

そしてお乗りになるのは、何人もの人が引く、ミテクルマか、

肩で担ぐミコシに限られていたようです。

その両脇には高位の武官や皇子が馬に乗ってお守り致しますし、

もちろん多数のモノヘ達も供を致します。


しかし御位を譲られた今後は、

アマテルさまが伸び伸びと、ほんの少数の供だけをお連れになって、

馬に乗って、自由にあちこちにお出かけになれるようにとの、

前・タカミムスヒ(7代)タカギさんの

本当に温かく行き届いたお心遣いだったのでした。




       ミツホ マナヰニ

ノリミユキ シハシハ マツリ

キコシメス 

      コレ ソラクモリ

アラサリキ 




そしてアマテルカミはその温かいお気持ちを受け、

心も晴れやかに、そのクロコマにお乗りになって、

懐かしいご両親のおられたミツホ(御ツホ、すなわちオキツホ)や、

今なお慕わしい、トヨケカミが眠られているマナヰに、

しばしば行かれては、

篤くお奉りをなさっていたといいます。


本当に伸び伸びと、御心のままに・・・

「コレ ソラ クモリ アラサリキ」




このように文献では、

アマテルさまのご心境を、

本当に安らぎに満ちて、明るく記しています。


2_2現代の和馬     天馳号   


さて、ここの個所における、

この時代にしかなかったコトハ、表現を考えてみましょう。



「ヒツメ」アオコマ

コカネ
「ヒツメ」



漢字時代になると、

「ヒツメ」は、駿馬・優れた馬という意味に変わって行きます。

そのせいか何人もの方が、何の疑問もなく、

「秀つ馬」と訳されているのです。


また「蹄青駒」とか、「黄金蹄の」と、

まあ・・・単純に、そして表面的にヒヅメと受け取り、

そのまま漢字を当てはめて書いておられる方もいるのですが、

なぜ、そうなるのか・・・当時の具体的な意味などは、

残念ながら何も伝わって来ないのですね。



けれども、このヒツメというコトハは、

本当に特別なことを表しているらしく

この献上の馬2例と、

縄文哲学的な比喩1例のみ(下記)にしか使われていません。




ウヌノテ ノ ウツロヰ オ ムマ

ウヰノテ ノ シナト ハ クツハ

ヒカリ ムチ オテ ニ クニタマ

ノリメクル オトハ ホオコオ

ウヒコ ニヱ ニ アカル ヤマソ

ノテ ムスヒ ノカセ ニ カワク

クコ ハニ ニ ヒツメ ノ アト ハ

ノラ ト ミチ
               (ホツマツタヱ18-7)




当時の哲学用語がいっぱいあって、

ここは読み解くのが大変難しいのですが・・・汗)


ただ、この個所は、アマテルカミが、

この天地・宇宙の生成の初めからを

御孫のニニキネさまに理解出来るよう、

判りやすいたとえ話を使って語られているのです。



アメノミヲヤは、

ウツロヰ(ウツホのカミ)を馬、

シナト(シナトヘ・カセのカミ)を轡(くつわ)に

ヒカリを鞭にしてクニタマを乗り巡られました。

その音は「ホオコオ」と響き渡り、

まだドロドロ状態であった地は煮え、

熱が加わることで、高くなり山となったのです。

(なんだか、火山の噴火を思わせますね?)

そして、「ノ」という調和して固定するエネルギーが働くと、

その風にドロドロは乾かされて、

ウツロヰ(馬)のヒツメ(蹄)の跡は、

野原と道にと成っていきました。





ね、このように「ヒツメ」は、

アメミヲヤの(目には見えない)お馬ののことであり、

この世界を創造するために働いたのです。



下の図は、クリックで大きくなります。

Photo_9

ヒ・・・・数字の1、ひとつ

     (日・太陽をイメージして)

     強く活かすもの、良いもの、優れていること



ツメ・・・「ツ」は、活かすエネルギーが力強く動いているさま

     「メ」は、そのエネルギーにより、形を変えながら続いていくさま

     爪という意味に、しっかり適合している。




そして実際にも、動物のうちでは馬だけが、

足の裏や、指の力を使わずに、

たった1本の「指の爪」だけで全体重を支えているのです。



こういうことをしっかり観察なさっていた、

我がご先祖さま方は、

本当に素晴らしい方々であったと思いませんか?





今度は古生物学から見てみましょう。

馬の先祖ですが、その四肢の指は200万年前には

真ん中の1本だけが発達し、

その爪は強くなって、身体を支えるほどに進化しました。

後の指はみな退化して無くなっていったのです。

そして固い1つの爪だけを使うことにより、

運動のエネルギーは体重の負荷と相まって、

圧縮されて強い推進力を生み出します。

つまり、大変速く軽快に走ることが出来ました。




さて、

馬の先祖は二つのグループに分かれていきました。

1つは今の外産馬の祖となった、西アジア地方。

そして、日本の馬の先祖は、東アジアにおいて、

3万3千年前頃〜1万2千年前頃まで、

今のモンゴルからシベリア地方まで広がっていた、

寒く乾燥した冷涼ステップ(雪の無い草原)・・・マンモス・ステップともいう・・・

で暮らしていました。

「マンモス動物群」と名付けられたグループの中に分類されているのです。

文字通り、マンモスを始めとして、トナカイ、ヘラジカ、バイソン、

ウマ、オオカミ、キツネ、ヒグマ、ホラアナライオン、オオヤマネコ

などが入っています。

                 マンモス動物群・渡来ルートほか


これらの動物のうち、

マンモスとトナカイは樺太やカムチャッカ半島付近の北方から入り、

北海道までで止まりました。

けれども、ウマや他の動物は本州まで来ていたのです。





その頃は日本列島も地続きか、

冬期には僅かな狭い海峡は、凍り付いた道となっていました。

また第4氷河期の終わり頃でしたので、

山の他は、列島全体にせいぜい林が散らばっているくらいで、

どこにも乾燥した宏大な草原が広がっていました。

下の写真のようなイメージでしょうか・・・


2_3   

 その頃の古地図と、炭素年代より正確な「年縞」による検証


 

そして馬は、草食動物の中では小さい体格でしたが、その分少食で済み、

また速いスピードで持続的に走ることで、

敵から身を守って、生き抜いてきたのです。

ですからウマにとって爪を痛めることは、走れなくなることであり、

すなわち死に繋がっていた・・・

このようなことを考えますと、

強い蹄を持つ馬が、優れた馬であるということが出来ます。





さて、野生の馬や、

放牧されて自然にまかされている馬たちは、

蹄も自然そのままで、どんなに走っても大丈夫なのです。

ですが、

人が馬を使うということになりますと話は別で、

人を乗せたり、重い荷物を牽いたりすれば、

どうしても全体重を支える蹄には、余分な負担がかかってくるのです。

ですからこの点から見ても、

強靱な蹄は、何より馬の優秀さを表していたと思います。


            ※ ちなみに、この東アジア系の馬は、

              特に蹄が強いことで知られています。

              1万年も後の末裔である、

              あのチンギス・ハーンの軍馬たちも、

              特別の蹄の保護はしていませんでした。

              代え馬を連れて行軍したのですね。

              我が国でも江戸期までは、

              馬沓という藁などのブーツのようなものを、

              必要に応じて使うだけであったのです。


              しかし、これらはずっと後世のことであり、

              上古の日本においては、自然のままであったようです。




実際的なご先祖さま方は、見かけより何よりも、

その一番大事な本質を重んじられて、


ミヲヤをお助けする馬に

つまりはアマテルカミへの献上の馬だけに、

「ヒツメ」という褒め言葉を

付けたのではないかと思うのですが・・・


譲位なされたとはいえ、アマテルカミは、

比べることが出来ないようなお方だったのです。

トヨケカミもご遺言で、

「このお方は、建国のカミ、

 クニトコタチさまが再来なさったような

 まことに尊く偉いお方であることを心しなさい」

と、みなに言い残されました。






蹄鉄で保護された現代の、

特に西洋馬にしか接することが出来にくい世の中では、

ヲシテを勉強している私たちでさえ、

このような、

当時の「ヒツメ」に対する深い想いは、

なかなかに理解が難しいのかも知れません。

                               (続く)

 

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2009年12月12日 (土)

カトリ、カシマカミとお馬さんの話 (2) 改訂版

Photo_3

在来種・野生の御崎馬(宮崎県都井岬) 小柄で健やか。


さて、カシマカミ・タケミカツチの父上は「カトリカミ」で、

清廉な方として知られています。


聖なる山「カクヤマ(富士山)」とその一帯を預かり、治めたカミです。

この「カ」は、カクヤマの

「トリ」は守る、治める。

ですから「香取神」という漢字当て字はマアマアですけれどね・・・

香久山の守りですから。


このお二人の関係はなんと、神社の由緒にもなく、

どんな方か良くは分からないと書かれています。



この父ギミも実に素晴らしい方でした。

「カトリカミ」イミナ(実名)は「フツヌシ」

他にヲハシリ、ミカサヒコとも呼ばれ、

ムマヤヲサメ・馬司長官として名をはせました。

はい。

系図を見て下さいね?


・・・乗馬の達人で、武勇にも優れ、

アマテルキミのもと、我が国初の、騎馬軍団を訓練し作り上げたのです。


このことがハタレたちのクーデターの時、迅速に行動でき、

味方を勝利に導いた大きな要因ともなりました。

フツヌシの祖父「トヨケ」さんが、馬の見分け方から訓練の仕方、馬具の使い方などを、

詳しく書き残し、また直孫に実技もろともしっかりと伝授したのです。

だからアマテルさんとは従兄同士の仲ですね。


フツヌシさんのところには、日嗣の皇子や御子、重臣の子弟から、

ある程度の身分ある家の若者たちまで、

みなノリノリ(乗馬法)を習いに行きました。


ノリノリも内容はいろいろです。

大きく「チミチ・イツ・アレ(地道・逸・荒れ)」があり、

ことに荒れ乗りをマスターできた方は少なかったようです。


下の原文を、声を出して読んでみて下さいね?

全編このような五七の美しいリズムで書かれているんですよ。


norinori_1


馬に乗るということは、チミチ、すなわち地道(並足)を大事な基本とするのです。

ここには乗り始めの心構えが、本当に細やかに描写されています。


まず、馬子に手綱を預けてから、馬の右から乗るべきこと。

鞍に座ったら、鐙(アフミ)の位置を足に合わせて、ゆとりを持たせ、

しっかりと踏ん張れるように鐙ナワの長さを調節すること。   

また自分の腿の感触や腹帯の弛み具合も確かめ、

気を込めて腰を安定させ、

様子を見つつゆっくり歩ませはじめます。


決して急がず、やわらかな気持ちで、

馬の足取りや息遣いから、

馬の心を読み取って、こちらも心を合わせることが、

何より大事な、乗馬法のカナメであるということです。



このくだりは、前にも書きましたが、

私にとって理解するのとっても難しかったんです

特に6行目の「マチニヰキアケ」・・・うーん。なんだろう。

まだ動いてないのに、息が上がる?・・・・ヤマトコトバでも古いからなあ。


そこで、まず古語辞典を引いたら、マチは「襠・ゆとり」みたいでした。

それでもその先がわからない。

散々悩んだ末思いついたのは、今年84才になる母の姉のことでした。

幼女の頃から乗馬を習い、その颯爽とした乗馬姿を30数年ほど前に、

見たことがあったのです。

伯母は機嫌良く、


「マチニヰキアケ(ゲ)の意味?・・・その言葉は良くわからないけど。

 でもね、鞍に上ったらまずは、足の長さに合わせて

 鐙のヒモを調節するものなのよ。手綱を取る前に必ずね」


と、電話の先で楽しそうな口ぶり。


「そう、足先から握りこぶし一つぐらいかなあ・・・

 でないと、鐙を踏ん張れないでしょ。」


そうか、そうなんだ。だとするとヰは数詞なんだ。

「5キ」ゆとりをもたせ、鐙を上へ上げる!

そういえば、息は「イ」キだもんね・・・それをうっかり見落としていたんだ!

急いで、原本を出しました。

そうしたら原文はちゃんと「ヰ」に数詞のハネがあるではありませんか。


ああ、池田先生がHPに書かれていたのは、このことだったんですね。


「ヲシテをカナに書いてしまうと、少なく見積もっても、

 情報の50パーセント以上が失われる」と。


カナをにらめっこしていてもダメなんです。

またヲシテの文章でも、振り仮名だけ読んでいては、何も分からないんですね。

それに、ある程度意味が分かると思うと安易になる。


古い時代の言葉の意味は、今の私たちの概念じゃないかも知れないのです。

これって初心者の傲慢さなんですね。

やっぱりヲシテの文字に真直ぐに、無心で向かい合わなければと、

ふかーく反省したことでした。



常に馬と心を通わせて、信頼を得ることが大事です。

馬は生まれっぱなしでは、何も知らないのですから、

何かに驚いて暴走したとすれば、乗り落ちることになるのは、

当たり前のことです。

つね日頃から訓練して、よく教えれば賢くおぼえるものです。


さすがムマ丿カミ、馬という動物のことを良く理解していらっしゃいます。

そういう基本から始まって、

弓矢を使うとき、ツルギで戦うときの綱の長さ、腹帯の締め方、

はては綱の材質、握る場所に至るまで、微に入り細に渡り、その詳しいことといったら。



そしてなにより重要な極意は、馬と息・心を合わせた後、

天地を貫き通す気(エネルギー)を、ゆるぎなく手綱から馬にまで通すこと。

これを「ヒトヌキマ」というのですが、

人馬一体になって乗りこなすには、

そういうエネルギーの使い手であることが、本当に必要だったのです。


                    Uma2


このワザの根底には、深くそして長い、心の伝統が秘められているのですが、

そのことも、子細に語られています。


ひとくちに言うなら・・・

宇宙そして、天地が誕生する時に、

アメミオヤ(宇宙原理)がそのエネルギーを宇宙にまわり巡らせるありさまを、

比喩として、アメミオヤが馬に乗って駆け巡る姿に例えたのですね。


また、建国のアマカミ「クニトコタチ」も、

これは現実に馬に乗って国中を回られて、民を教導なされた。

中興の祖であるイサナギ・イサナミも、

共に馬で全国を行幸なさり、具体的な水田稲作法と、

言葉の、つまり国語教育や道徳までも教えられたのです。


アマカミといつも共に居て、お助けする役目の馬。

民にとっても、

馬は労働を助けてくれる、家族の一員であった事でしょう。


馬と心を通わせることは、アメよりの大きな力とつながること。


そして、繋がっていなければ、

馬だけではなく、作物でも、モノであったとしても、

ましてや、人と人の間でも

意志の疎通がうまく行くはずはありませんよね。


「ヒトヌキマ」の言葉は、そのような深い意味を含めながら、

今日にそのワザを、確かに伝えるものです。



また、現代での流鏑馬(やぶさめ)・・・馬上で弓を射るワザを、

戦いという体験の後に完成したのも、

この方、カトリカミ(フツヌシ)と思われます。



norinori


と、これはハタレの乱後のアマカミからの勲功授与を、後にしるしたフミです。

このようにヲハシリ・フツヌシは「ヰツヲハシリ」とも呼ばれるようになりました。

ヰツとは、稜威という神聖な言葉です。

ひとりの人が功績により、いくつもの名前を持っている習わしが、

「記紀」では完全にカットされていますので、

現代の神社でも、分からないままに重複してお祀りしていたり、

違う神さまに数えているケースが多いのです。


フツヌシさんも香取神社のほか、熱海の伊豆山神社(祭神・伊豆山権現)に、

はっきりしないまま祀られていらっしゃると考えられます。

つまり「イツノヲハシリ」稜威雄走神(いつのおばしり)、

・・・そして推測ですが、伊豆のヲハシリという訳なのでしょうか?

実際にもヲシテ時代には、この辺を「ヲハシリノサカ」と呼んでいたそうです。


Norinori_2


こんどは、そのフツヌシ(ヲハシリ)さんに教えを受けて「ムマノカミ」を継ぎ、

さらに精妙なワザを編みだした方。

(アチスキ)タカヒコネ、のちの「フタアレカミ」です。


お父ギミはソサノヲの御子「オホナムチ」で、

お祖父さま・ソサノヲさんも、

従兄弟にあたるフツヌシさんから免許皆伝され、

ノリノリ(乗馬法)を教えていらしたみたいです。

アマテルキミはタカヒコネさんにとっては、大伯父さんということですね。

母方からたどれば、アマテルさんの孫にもあたっていますが。

お母さまは、アマテルカミの姫ミコにあたる、タケコさんですから。



ついでながら、このタケコさんはコトの名手。

琵琶湖の竹生島にお墓があるのですが、

後に仏教化?されてグチャグチャになり、弁天さまとして祭られておられるのです。

他の2人の妹ギミも、江ノ島、阿芸の宮島に葬られました。

つまり日本三大弁財天とは、

アマテルカミの三つ子の姫ミコさま達なのですよっ!



Up_2

丈夫で粘り強く賢い木曽馬・・・特徴は腸が長いためお腹が大きい。だから粗食にも耐えるのです。Photo by poutyuraka  
この馬は乗用ではなく、力役用の輓馬?・・・それにしても栄養が良すぎみたい。


次のくだりでは、タカヒコネさんのお講義で、

馬についての詳しい解説が書かれています。

原文は長いので、こちらで、ご覧下さい。



「まず、その馬の生まれつきの性質を知る事が大事です。

 例えば、ヒタカミ(宮城を中心とした東北)の馬は、

 がっしりと大柄で、性質は大人しいので、

 1年ほどで乗り慣れることが出来ます。

 チミチから始めて、馴れたら荒れ乗りへと訓練していくのです。


 ツクシ(九州)の馬は健やかです。

 だいたい半年くらいで馴れますし、

 早乗り、イツカケなども一通り出来るようにはなるのですが、

 早いだけに、技は中程度のものなのです。


 またコシクニ(北陸)の馬は大柄で、筋肉も程よく、

 従順で物覚えも良いので3,4月で馴れて、

 それなら速駆けもと急ぐのは、やはり失敗の元ではないでしょうか。


 (相対的に)南の馬は小柄で、すぐに馴れるのはよいのですが、

 あっさりした性格なので、いざという時のイサオシ(勲功)が上がりません。


 しかしそういう産地の差も、

 血筋や毛色の良し悪しも

 育て方によって変わるものなのです。

 良く良く乗り慣れることによって、

 その馬の本質や能力を知らなくてはなりません」


ここまで読んでいただくと、誰でも確信なさることでしょう。

やっぱり馬は大昔から日本にいたのだということを・・・

          ※ この各地の馬の特徴は、言うまでもなく紀元前のお話なので、
            今わずかに残る、在来馬の性質とは、まるきり違うということを
            ご承知下さいね?



渡来人たちが馬を初めて日本に連れてきたのは確かなことである。

それまでは日本には馬がおらず、従って特権階級しか乗ることが出きない、

たいそう貴重なものであった・・・という説が一般的です。

しかし、まったくもって、嘆かわしい限り。

渡来人たちが・・・というからには、西暦500年は過ぎています。

しかしヲシテ文献では、トヨケさんの時代からムマのことを詳しく書いています。

紀元前1000年頃には・・・ね?


しかも前に書いたように、

水田が本格的になった頃のアマカミ・イサナギさんははじめて農業に獣力を導入し、

民の労力を削減しました。

「もし、馬を持っていれば馬を、牛ならばそれに鋤をつけて

 田の荒起しや、重い荷を牽かせなさい」と。

農民でも馬を持っていたという何よりの証拠ではありませんか。

いわゆる、美しい馬、見栄えのする馬は、

後世に渡来人が持ち込んだと言えるでしょう。

現代で珍重する、アラブ馬、サラブレッドみたいにね?



でも、

タカヒコネさんが説いているように、南から北まで、

やや小柄だけれど働き者の、丈夫な地馬は沢山いたんですね。

そして馬は、昔から日本人の大事な、特別の仲間だったのです。

その中でも適性のある馬を、

乗馬のために訓練をしたのではないでしょうか。


このように親しまれ、大事にされてきた和のお馬さんですが、

天地創造の宇宙哲学にも

ムマは聖なる比喩として登場しています。


 

また、異変の時に素早く移動できる事からも、

馬は災厄を祓うとされ、

その賢さから、馬だけは、

他の動物と違い、ヒトと似たタマを持つとされてきました。



                 Uma9


朝廷で行われていた白馬の節会。(あおうまのせちえ)

また神社に神馬が奉納されるのも、

流鏑馬(やぶさめ)の神事は、

ムマヤオサメの、

ヲバシリ(フツヌシ)さんの香取神宮が大元であると言うことも。

武道のワザをもって「カナテ・武聖」と称えられたのは

カシマカミがその始めということも・・・。


香取神宮、鹿島神宮の12年に1度の午年の大祭は、

午の年に、両神社同時に行われるのも、

このフミ「ノリノリ ヒトヌキマノ アヤ」から、

本当に良く理解できると思いませんか。


アマテルカミの外孫、

(アチスキ)タカヒコネさんことフタアレカミ。

二荒山とか、二荒神社といったら、この方にご縁があると思われます。




追記 (1)

明治34年、体格の良い軍馬を作るための「馬匹去勢法」によって、

種牡馬及び将来の種馬候補以外の、

和種在来の雄馬は全て、去勢されてしまい、

外来の馬との混血が強く推進されました。

さらに、昭和14年には「種馬統制法」によって、それがさらに徹底されたそうです。

この結果、

多くの地方では短期間の内に、純粋な和馬が消滅してしまいました。


現在わずかに残る各地の和馬は、

たまたま僻地など、交通不便なところだった為、

法律の網からもれた馬の子孫たちだと思われます。


また戦後に「もどし交配」といって、原種に戻す努力がされてもきました。

けれども地方それぞれ、あまりに頭数が少なく、血が濃くなりすぎて、

いわゆる近親交配の害が出てきているといいます。

心ある方々が、さまざまな工夫をされて守っておられるとはいえ、

このご時勢に、どちらも資金不足、人手不足。

いまだ危機的状況にあることを、心から憂いております。


どこの神社さまでも、奉納の神馬や流鏑馬のお馬は、

和のお馬さんが当たり前・・・というのは夢なのでしょうか?

戦国時代の映画でも、和馬は使われていないのですよねえ・・・涙)



追記 (2)

和馬を愛し、優れた乗り手でもある友人が教えてくださったのですが、

神社の斎庭を、カミさまの宿られたヒモロギをお乗せした馬を引き廻る(引き馬神事?)

その馬の口を取って導く人は、

その時のカミのもくろみ(お示しになりたいこと)によっては、

完全な「なんば歩き」にしなくてはならない場合があると教えてくださいました。

・・・うろ覚えなので、もしかしたら不正確かもしれませんが・・・。


そして乗馬の時も、

人馬一体となるときのエネルギーは「なんば」なのだそうです。

馬の左と人の左、馬の右と人の右。

心が通い、動きもぴったりと合一したときに、

一体となって、天地のエネルギーと繋がるのでしょうね。

「なんば」は真に、

日本人の所作の原点だと・・・深く思ったことでした。


この日本古来の歩き方がどんなにアメミヲヤ(大自然)と一致して、

運動的にも無理が無くて、 素晴らしいかを、

少しでも知って頂きたいと願っております。

なのに。

残念なことに、この所作が消えていったのは、

明治以後、

西洋式の手を大きく振り、右手・左足、左手・右足の軍隊式歩き方が

導入されたことが原因です。


追記 (3)

鹿島神宮の神職の次男だったのが、かの剣聖・塚原卜伝です。

ゆかりの古剣道が「鹿島新当流」として伝わっています。

また、香取神宮では「香取神道流」という、

室町時代の中ごろに立てられた、

最古と思われる古武道が伝わっているのです。

この流れから、

塚原卜伝の師「松本備前守正信」を始め「上泉伊勢守秀綱」など

多くの剣術家が輩出し、

このフツヌシ・ヰツヲバシリさまは、武神としてカシマカミと共に、

崇敬を集めてきた歴史があります。

また、騎乗し弓矢を使う技を教えられたこの方にふさわしく、

星鎮祭という神事も行われています。

これは星と化した悪神を射て祓う神事で、

ハタレ大乱の際の、フツヌシさまのお働きを彷彿とさせるものですね?

神事の後は1000人もの弓道愛好家が弓を射るそうです。

 

(旧版 06/09/13) ,

 

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2009年12月 4日 (金)

カトリ、カシマカミとお馬さんの話 (1) 古来の神社、そしてサルタヒコさま 改訂版

torii
素朴なヤシロ


漢字時代になって
「古事記・日本書紀」が書かれたため、

本来の神社の意味も忘れられてしまっています。


それこそ、天皇家に近づいて己の権勢欲物欲で巧妙に支配した歴史が、

いまの神社にも色濃く現れ、もとの祀られていた人やカミまでも、

分からなくなっているのです。


また、大陸との交流によりシャーマニズムというものが広がり、

仏教渡来とともに宗教という色が、神社をも覆ってしまいました。

私たちが伝えてきた自然な懐かしい心情、

父母からはじまって繋がる大元の祖先との交流の場。

それをあらわすのがミヤ・ヤシロであったし、

カミさまたちは、祖先の方々だったのにね。


それでも・・・古代からの、見えない絶えない自然なエネルギーは今に現れ、

伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮・・・白山明神などなど、

数えきれないくらい、いっぱい残っているのは本当に嬉しいことだと思います。

でもどこの神社のご由緒を見ても、すごくおかしいの。

たとえ伊勢神宮であっても、

なぜこのカミさまが祀られているのかは良く分からなくなっているのです。

全てのよりどころが、「記紀」しかないからですね。


また古来のカミさまのお名も漢字。

音に漢字を当てはめたわけで、

漢語に翻訳したのは渡来人たちだったとのことなのです。

2世3世といえども、違う文化で育った人たちです。

日本古来の感じ方も文化も深く身にしみてはいなかったでしょう。

つい自国語の似た音、似た意味を使ってしまったのは、

やむを得なかったのかも知れません。

また漢字には、中国での成り立ちの意味が濃い、象形あるいは表意文字として、

その本来のイメージを伝えてしまうんですね。

神仙思想シャーマニズム覇権のエネルギーを・・・

こりゃあもう、すさまじいものです。

いってみればオカルトチックだし恐ろしい。

それまでは、そんなものはなかったのに。


初めて漢字語源を解き明かされたのが、白川静さんです。

1冊でもそのご著書を読むと敏感な方には理解できると思いますが、

何とも言えぬ異民族文化の違和感

しかし、それを伝える、さまざまなご研究は、

中国に先駆けて本当に偉大な素晴らしいものと思います。

白川さんはヲシテ文献をご存知じゃないらしいので、本当に残念なことですが。



また、我がエネルギー技法の師も言われました。



「漢字は始めはみな象形文字ですが、

 のち会意文字というものが生まれてきました。

 しかし、すべて由来は呪(しゅ・じゅ)

 つまり、まじない、呪術なのですね・・・」


呪術想念を使い自分の意を通そうとする技です。

漢字が導入され、大陸の異民族のそういうシャーマニズムが全土を覆ってしまったのも、

無理はなかったとはいえ、とてもとても・・・残念なこと。

私たちの祖先、偉大なリーダーたち。

その歴史も業績も消されてしまって、ひどい誤訳のまま、

稚拙な神話になってしまっています。

あんまりだあ・・・と思うことしきり。



例えば、私が大好きなサルタヒコさま。



どうにか表すとしたら「去ルタ彦」でしょう。

「私ごごろを捨て、本拠を去っていこうと決めた男です」との名のりなのですが。

そしてそれが彼の本質を表す名前として、

尊敬を込めて以後そう呼ばれるようになりました。

つまりは潔さ、決断力、行動力

本当に正しいことを選び取り、実行する無私の方だと。


お家の名前を表す「シラヒケ」の方がホントは分かりやすいんです。

シラヒケ・・・ああ、すごく効く治療で名高い薬学のお家

建国の時からの高貴なアマカミのお血筋の・・・

でも気さくで、偉ぶらないお方なのよね?

今までのそういう名声や受け継いだ財産を捨てて、

一介の男として生きる。

そういう爽かさ、凛々しさです。

それをねえ・・・猿田彦とはなんですか!(怒)


だいたい我が国の伝統では、

「人でなし」になった悪者を、嫌われていた動物の名で表すのです。

オロチとか、イソラ、キツネ、ヌエ・・・

また、猿もあまり良い意味に使われてはいないのです。


サルタヒコさまについて、 

「よみがえる日本語」の著者の平岡さまの考察が素晴らしいので、

ここに要約して、ご紹介させていただきます。


「ウカワカリヤニ

 ミアエシテ アイマツナガタ

 サルタヒコ」         (ホツマ 24−31)


「ナンチワガナオ

 アラワサハ ワレモイタサン

 カエコトス」     (ホツマ 24−33)


上記は、サルタヒコさんのニニキネのキミへのお返事(カエコト)です。

「ナガタのサルタヒコ」が名乗られたお名前になります。

もちろんナガタは彼が先祖代々統治をまかされていた地名であり、

それも由緒正しい建国の地であったのはいうまでもありません。

しかし、実は掛け詞のように

「ナガタ」も「サルタ」もそれぞれ大事な概念を含んでいると思われます。

「タ」が共通ですから、そこから、それぞれの意味を考えてみると:

 

「ナガタ」・・・ 貴方の楽しみ

         貴方の助けになる

         貴方の助けになることを楽しむ

「サルタ」・・・ 幸せを広げるように治める

         幸せを広げるのを助ける・楽しむ

         私を去って治める

         私を去るのを楽しむ


このように考えますと、「ナガタのサルタ」は、

アメノミチヒトノミチの両方を表した名前であるといえると思います。

だからこそ、建国の地を守り、

そして後に、アマテルカミの聖地を守る役割になられたのではないでしょうか。


「ナンヂワガナオ アラワサバ」は、

まさに「ナガタのサルタ」を実践するのであれば、という意味になり、

ニニキネのキミへのはなむけの言葉としてふさわしい言葉といえると思います。


「ワレモ イ タサン」は、

「ニニキネのキミがそうなさるお気持ちならば、

 私も心を尽くしてお助けいたしたいと思います」

といったところかと思います。


また、この真髄をハラから分かり、体現し、

行動でも表し続けた人であるがゆえに、

アマテルカミから、治世の要として信頼を得続けたのではないかと、

思うに至りました。

2432

平岡さまの解説の原文、前のくだりをつけて読んでみてくださいね?


さて、上の原文2行目に

「ナガタガワ」というコトハがあります。

そして●の注意マークが付いているのですが、この濁点は写本によってまちまちで、

この2点濁点は、ずっと後世に付け加えられたと思われます。

そして、濁点の最初は、

否定的なことを表すのに使う、いわゆるヒゲ濁点だけであったろうというのが、

現在の考察です。

例えばカガミ(鏡)には、

良いことを表す「カ」と、良くないことを表す「ガ」が使われています。

人の心を映し出し、良い悪いの判断をする器モノなのですね。

 

Photo_4

長い間の書写によって次に書き加えられたのが、助詞(と当時考えたもの)の中点・・・

次に加えられて行ったのが、外濁点であろうかと。

ともかく各時代の写本筆者が考えて、解読の便宜のために書き加えたようです。

ですから、各写本まちまちで難しいのですが、

ともかく、ヒゲ濁点以外は最初は無かったものと考える方が、

真実に近いのではないでしょうか。

              ※ 私どもでは最近、一番新しい二点濁点だけは、
                とりあえず文献からカットして考察するようになりました。

 


したがって上記の文は「ナカタ カ ワ」・・・ナカタが私です・・・と。

後の方の原文にサルタヒコさまのことを「ナカタウマレノ ツチキミハ」とありますので、

ナガタ(あなたの楽しみ)も、ナカタで良いようです。


ワレハ イセノ サ

ナカタ カ ワ

ナンチ ワガ ナオ

アラワサハ

ワレモ イ タサン

カエコト ス


私はイセのミチの現れである「サ」・・・明るく潤い豊か・・・の実践、

人の助けになることを楽しむ・・・すなわち「ナカタ」が、

(出身地とともに)私自身を表していると思います。

(名乗りましたように、私ごころを捨て、この地からも去る決意ですが)

もし貴方が、私の名でもある「ナカタのサルタ」

すなわち「アメノミチ」と「ヒトノミチ」を実践なさるお気持ちであるならば、

私も心を尽くしてお助け申し上げますと、

ニニキネのキミに返事をなさいました。



このような、サルタヒコさまの人柄を表すエピソードは、

他にも沢山ありますので、

そのうちにまとめて書いて見ようと思っております。




さて、このように誤訳を上げればきりがないのですが、

前にも書きました、

「カシマカミ」タケミカツチ・ヒサヒコさんもそう。

鹿島カミでは誤訳も良いとこです。



Up

在来種である丈夫な木曽馬、お腹が脹らんでいるのが特徴。(クリックで大きくなります) Photo by poutyuraka



カシマは右のトミ、右大臣のことで、政ごとを実行に移す最高責任を担います。

現代では制度も内容も違いますけれど、首相にでも当たるのでしょうか。

アマテルカミの右の臣であったオホナムチさん。

しかし失政による、その右の臣の解任(俗に言う出雲国譲り)という

大きな事件がありました。


その時フツヌシさん(ヲハシリ)と、息子のヒサヒコ(タケミカツチ)さんは、

軍を預かって出陣なさいました。

そして軍勢にも「カシマタチ・右大臣解任」という名がつきました。

その時の大功績によりカシマタチのカミ「カシマカミ」の名を賜ったのです。



カシマカミ・ヒサヒコさんは、それ以前のハタレの乱の時も大活躍しました。

父譲りの騎乗しての弓矢のワザ、ツルギを持っての戦い、体術はことに優れ、

その豪勇はイカツチ(雷)をもひしぐという、当代随一の強者でした。

アマカミからその卓越した武術に「カナテ」

カナ(輝いている。また右の意もふくまれる)、

(手の意味と、方法とか術の意味を含む)

・・・この場合は武聖とでも意訳しちゃいましょうか?

別の使い方としてコトの「カナテ」というのもありますが、

これも琴の名手・達人といった意味を含んでいると思います。

今で言えば人間国宝級の褒め名を頂き「カフツ(ツ)ノツルギ」を賜い、

その時からヒサヒコさんは「タケミカツチ」と呼ばれるようになったのです。



しかし勇ましいことばかりではありません。


同時に心優しく、まことに深い思いやりの方で、

戦い征伐した敵をも憐れみ、

なんとかタマ(現代で言うタマシイ)だけでも救ってやりたいと、 

大伯父「ツワモノヌシ」親子が心を合わせ実現した技法「タマカエシ」をもって、

祀リを斎うときにも父と共に参加し、

心こめて悪人達のタマの浄めを行ったのです。


この頃の重臣・リーダーたちは、このように、みな厚いミヤビの方々でした。

そのミヤビから出る「人はみな同じである」という信念は堅かったのです。


アモトからこの世に来るタマはみな同じです。

でも現世というところは、正しくあろうとしても、困難なこともある。

持って生れた性質もあり、環境もあり、教育もあり、運もあります。

自分たちは恵まれているからこそ、正しいことを貫けたのかも知れない。

その感謝・謙譲・思いやりの気持ちが、常にあったろうと思います。

運悪くねじけて行く人だっているだろう。

望まなくても、どうしようもなく罪を重ねる人もいるに違いない。

そして、罪を死で償ったからには、

その迷い、ケガレを払い浄めて、生まれたときの清らかなタマとなり、

心安らかに、アモトにお還りなさい。

そして、またこの世に帰って人となるときには、

ミヤビに満ちた楽しい人生を送れるように。


これが「タマカエシ」のノリ(法)なのです。


心をアメミオヤに通しつつ「ツワモノヌシ」の子、

「ココトムスヒ」がノト(神拝詞)を書きあげたのでした。

このココトムスヒは、前に書いたあの素敵な長身の「アマノコヤネ」さんのお父上です。

ヒトリヒメのこと、ヒタチ帯のこと、息栖神社のこと、覚えていらっしゃいますか?


忘れた方は、こちら。

            ・・・文の中頃に書いてあります。    (続く)

 

(旧版 06/09/13) ,

 

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2009年11月27日 (金)

縄文固有文字「ヲシテ」 改訂版

Photo

こんさまのブログには、「言葉」というテーマで、
日本語について、素晴らしいエントリが書かれています。
そこで、私ももう少し詳しくヲシテの字のことをご紹介したくなりました。

まず、このヲシテという言葉です。
今はっきりしてきたのは、ヲシテがそのまま「字」という意味も持っていること。
「ホツマ辞典」から、転載させて頂きました。

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重要なことは、建国以来、文字というものが、
文化、文明を人々に伝え、教えるための道具として考えられていたこと。
ヲシは、教えるの語源であり、
は、手段という意味を含んでいたことです。


また、前にも書きましたの字が、
目に見える字形からも、国土と、その上に立ち、両手をアメに高く広げ、
アメよりの恵みを受けるアマカミの姿を表していました   

                      ※ 上記掲載しましたホツマ辞典文中にも、原字が見えますよね?

そして、アマカミ・・・つまり天皇さまが   、
アメとクニとの仲介をなさるお役目、大自然からの恵みを受け、
国土と民に、惜しみなく、
常に与え続けるお方であられるということを、
たった1字で表しています。


これが我が国の建国以来の基本理念なのです。
そして、同時に上に立つものの規範、憲法とでもいうべきものとして、
世々に・・・幾千年を経て、現代までも伝えてきたのです。




前のことになりますが、皇后陛下は御心を表明され、
「皇室は祈りでありたい」
と、仰せになったのです。

このお言葉は、建国以来のご皇室の一番大切なお役目を、
見事にお伝えになっていると、私は深く感動致しました。



天皇さまのお仕事の第一は、

国の祭祀主であられることです。

このことは、
推古(すいこ)天皇さまにおいては

「群臣(まへつきみたち)、共に為(ため)に心を竭(つく)して、
神祇(あまつかみくにつかみ)を拝(ゐやびまつる)るべし」

という詔が下されていますし、

大化の改新の後には、
孝徳天皇さまに、
臣の蘇我石川麻呂より献言がありました。


「先(ま)づ以(もっ)て神祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いは)ひ鎮(しづ)めて、
然(しかう)して後に政事を議(はか)るべし」


鎌倉時代には、

「禁秘抄」を順徳天皇さま御自ら書かれ、
後代の天皇さまの為に、常日ごろ心がけることとして、


「凡(およ)そ禁中(きんちゅう)の作法、神事を先にし、他事を後にす。
 旦暮(たんぼ)敬神の叡慮懈怠(えいりょけたい)無く、
 白地(あからさま)にも
 神宮並(ならび)に内侍所(ないしどころ)の方を以て
 御跡(おんあと)と為(せ)ず」

とお教え下さっているのです。

江戸時代の後水尾天皇さまも、
光格天皇さまも。

そして、

明治天皇さまも・・・
今上天皇陛下にいたるまで。



まず神祇が第一のお仕事と

敬虔に厳粛に

毎日お祈りなされるのです。





さて。

縄文文字はこのように、ただのかなカタカナのような、
またアルファベットのようなものではありません。


日本語では、平仮名と漢字が使われている。
平仮名は、文字と発音が対応付いた表音文字である。
簡単に習得できる反面、同音異義語の区別ができない。

そのため、平仮名のみの文章では、
意味を区別する必要があるので思考が断続的になりやすい。

漢字は、文字に意味が対応付いた表意文字である。
同音異義語も区別できるので、直感的な理解に役立つ。



と、こんさまは解説されていましたが、


実に縄文文字ヲシテは、表音と表意が結びついており、

簡単な、異字表記によって、

同音異義語などが区別できるという、

素晴らしいものでありました。



基本は48文字ですが、
いま解明されている異字体をいれますと、
実に138文字ほどにもなりましょうか・・・
しかも、元の文字形を崩さずに、容易に識別できるような優れたものです。


もう一ついえることは、

5つの母音も、10の子音も、

それぞれに

哲学的な意味があることも分かりました。

しかも、それが結びついた文字となり、

さらに単語を形成する時に、

さまざまな深い内容を表すことができるのです。

例えば漢字の「山」という字は、下記のような象形文字です。



Yama_sirakawa_5
   




次にヲシテでは、実に、このようになるのです。

概念も、構造も、まったく違っているとお思いになりませんか?




Yama_w




そして、なんと。

日本中で一番長く日のあたる場所は、富士山頂なのです。

我が祖先の方々は、まず山の形にとらわれず、
そこがどんな場所であるかを考えられた。
そしてその考察から「ヤ」と「マ」の字を選び、命名されたのですね☆

これはまた、重大な意味を含んでいます。

まず、字ができてから

言葉が作られていった・・・のですから。

このゆえに、簡単なカタカナ・ひらがな表記では、
情報の1割も伝えることが出来ません。

またその表記を元に、
漢字直訳といいましょうか、そのような形では、
とんでもない誤訳の重畳となるために、
私達は、あくまでヲシテ表記にこだわっているのです。





もうひとつ、例を挙げてみましょう。
実は私の失敗談なんですけど・・・ (^^;)

見事に初心者だった頃のお話です。

ある時カトリカミ、カシマカミのことを、
夢中になって調べていました。
で、カトリカミはどうも、(ヰヅ)ヲバシリまたは、
フツヌシとも呼ばれたお方のようです。
ヲバシリさんは、我が国で初の騎馬軍団を作り上げた方。

そして「ノリノリ ヒトヌキマノ アヤ」という文書に出くわしました。
つまりは「乗り法の・・のフミ」?・・・とでも訳しましょうか。



        uma



私は馬に乗ったことが数回あります。
といっても、阿蘇の観光用の馬にね? 笑)

祖父や父、それから曽祖父は、戦前(もちろん私が生まれるずっと前!)
馬に乗っていましたが、もちろん田舎のことです。

現代でいえば、自家用車ってなもんでしょう。

母は東京育ちでしたが、動物好き一家のことで、
小さい時から乗馬を習ったそうです。
ま、そういうわけで、ものすごく興味を引かれた訳です。




ところが、これが微に入り細にわたる文章で、しかも長い。

ヲシテも良く覚えていませんでしたので、
とりあえず、カタカナ書きにしてにらめっこしました。


この文は、アマテルカミの御世から、
だいぶ後に書かれたみたいに思えます。
なぜって、かなり分かりやすいヤマトコトバに思えて、
ルンルンしていました・・・が、その中の1節。
見事に引っかかりましたよっ!


ムマノミギヨリ
フミノボリ シクヤスクラノ
アフミナワ マチニヰキアゲ
コゝロミテ



この、マチニヰキアゲっていう一文が・・・???

結論を申し上げると、このはただのではなかった。
数詞だったのです。

カタカナじゃ分かんないよう! 泣)


はい。右が普通のヰね。左が数詞でハネがあります。



wi_wi

ちなみに、ある人はこのように 誤訳しています。

襠に居木あげ試みて?!
待ちに息あげ試みて・・・?!

なんのこっちゃ。

あはーん・・・写本の字が違ってたのかな?
何冊かの別写本で照合・確認してないのよね。

で、私の場合・・・

さんざん苦労して分かったことは、ヰキとは、5キ。
その当時での長さの単位のキ(寸とほぼ同じ長さです)
5キは、5寸ぐらいの長さでした。

マチ(ゆとり)を取って、鐙を足先の届くところから、
5キ(五寸ぐらい)上にあげてみて、
足を踏ん張れる、ちょうど良い位置を、いろいろ試して・・・

が、正解でしたっ!

実に12文字を、現代語に正しく翻訳するには、
58文字を費やさないと、分からないのですからねっ!!!


も、もちろん木の意味もありますし、東の意味もあり、
これらは、文脈と、言葉の構成によって類推していたのですが、
最近の研究では、文字の形から意味が驚くほど明解に説明できることが解りました。

次には、この苦労して読解した、
「カトリ、カシマカミとお馬さん」
という、
その頃の文をアップしてみましょうか・・・ (^0^)v 


さて、もう皆さまはご存知かと思いますが、

嬉しいことには、この数年の研究の成果として

「よみがえる日本語」が出版されました。

お手に取って読んで頂ければ幸いです。

 

(旧版 06/09/13) ,

 

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「よみがえる日本語 −−ことばのみなもとヲシテ」
   http://www.amazon.co.jp/dp/4625634075/
   http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32245608
   青木 純雄・平岡 憲人 (著), 池田 満 (監修)
   明治書院  3990円

 

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2009年9月 7日 (月)

両陛下のプレゼント「アマガツ」 改訂版

Princeskiko

                                     ご懐妊発表の日に開花した秋篠宮殿下お手植えの蘭「プリンセス・キコ」

親王殿下

お誕生日おめでとうございます。

心からお祝い申し上げます。

 

昨日の奉祝のエントリに続き、
当時の報道からの記事に手を入れたものを
謹んで掲載させていただきます。




さまざまな報道の中に、アマガツ(天児)のことがありました。

なんでも、両陛下が新宮さまへの最初のプレゼントとして、
張り子のペアの狛犬と、
アマガツのお人形を用意されておられるそうです。
そして、
さまざまなサワリやケガレを代わりに受けて、
皇孫殿下をお守りし、健やかにご成長遊ばされるようにと、
そのアマガツは、枕元に飾られるとのことでした。

 

「アマガツ」は大層歴史の古いものです。


これを考案し、作られたのは
アマテルキミの妃のお1人である、ハヤアキツヒメ・アキコさま。
お父上は、
アマテルさまの実姉のヒルコヒメをお育てになった、カナサキさまです。

カナサキさまといえば、祖先シマツヒコ以来、海運や造船に長けた一族のお方。
住吉大社や、広田神社(西宮)奈良の春日の杜を本拠として活躍なされた、
当代一の実力者、重臣のお一人です。
後にはアマテルさまの代理として、筑紫にミヤ(福岡・住吉神社)をおき、
九州全体を治められこともありました。


その愛娘、アキコさまも聡明で教養の高いお方であり、
アマテルさまの皇子もお1人、もうけられたのです。
また、
ツ(西)のスケキサキ(筆頭の妃)として、アマカミのご信頼は厚く、
ミクサタカラ(三種神器)のツルギを預かるという、
重要な地位にあられました。

このお方のすぐれた業績を、ホツマツタヱには1アヤをさいて伝えております。
「アキツヒメ アマガツノアヤ」12アヤ
がそれです。



あのハタレ大乱のおり、
アマテルキミは御輿の中で、三歳の稚児を袂の下に置き、
ご自分のイキを敵のハタレどもに読まれぬように図られました。
イキを読むということは、心を読まれることなのです。

そのため、無心な幼子を袂の下にしてイキを分からなくして防備されたのです。
悪い者共の思惑は外れ、かえってアマテルさまにイキを読まれ、
心を知られて討ち滅ぼされたとか。

以下は 
その幼子をお召しになり、褒められた文です。

Amagatu01

この幼子は、ハフコと記されていますが「這う子」と訳している人が多く、
以前は私さえ、そう思っていたのです。

ところが。

研究が進んで、文字の図象の意味が明らかになった今では、
これは明らかなる誤訳ということができます。

はアメからの新しい命を生みだすエネルギー。
はその新しきエネルギーが力強く動くさま。
は上を受けて、その力強い力を、
見えるもの、つまりこの現世のものと形作り定まるという意味です。


        ※ このヲシテの図象について詳しく説明されているのが、
          文献解明には必携の解説書「よみがえる日本語」です。
          ブログトップにて御紹介しておりますが、
          何方にも是非、お手に取って頂きたいと願うものです。



ナンチ ハフコノ 
イサオシハ モロニ スギタリ

幼子の持っている純粋で無垢な力の功しは
まことに「抜きんでている」と
アマテルキミは仰せになりました。

まだ、お召しになった意味も良く判らず、
無邪気にアマカミの前で、歩き回っている幼子。
にこやかにキミはその幼子を讃められたのです。

その場はきっと和やかで、笑い声なども上がり、
明るく楽しかったに違いありませんね?

そして、この幼子の
無垢であるからこそ持つ「強い純粋な力」に、

アマガツノカミという名前をお授けになったのです。
「キミマモレ」と。


この由縁により、

キサキ・アキコさまは布を使って、
カミウタ(アマガツノカミを呼ぶ効力のあるおウタ)
を込めて作る、魔物除けの人形を考案されました。
その人形のこと「アマガツ」または「カンガツ」と申します。


はアメを表わす特殊文字。

の図象の相(子音)はその力を全て受けまとめ、下に降ろします。
この相の働きが、さらに下の字をくっつける働きをして、
まとまったコトハとなって行くのです。
の態(母音)は○形のウツホですので、
見えないエネルギーで、まだ固定されてはいません。

       ※ 次のガなのですが、
         濁点全般について現在研究中であり、
         正確なことはまだ言えない段階です。
         しかしここでは、元々はであり、
         後に五七のウタの調べ、口調によって
         濁点が発生したのではないかと私は思っています。
       ※ コメントにて、さらに詳しい説明・訂正を致しました。

は光り輝くアメからのエネルギーが下っていること。

はその力が集まり、力強く動き出していること。


 

それは、ちょうどアマテルさまの日嗣の皇子オシホミミさまが即位なされ、
チチヒメマキサキ(正妃)として、娶られる時でした。

そのチチヒメさまのために、心を込めて「アマガツ」を作られたのです。
いつもチチヒメさまの先払いをして、悪いものを祓い守られるようにと・・・

以来アマガツは、ひとの代わりとなり、邪悪な思いや嫉みを受け取り、
その人を守る役目のモノとなりました。

Photo

アマガツノカミのチカラは素晴らしく、たとえ魔物であっても、鬼であっても、
お呼びすれば退治できるというカンチカラなのです。

後の漢字時代になって「天児」という字になりましたが・・・はて。
含みのない言葉になってしまったような気もするのですが・・・
というより、まったくの誤訳であると言って良いかと思います。

最後にハヤアキツヒメさまの「カミウタ」をご紹介いたします。

 画像はクリックで大きくなります。


Akiko_uta_3

 

ともあれ新宮さま、皇孫殿下が

両陛下の

健やかであれという、心からの祈念のもとに贈られた

アマテルキミ伝来の、アマガツのお人形に守られて

これからも

すくすくと、ご成長遊ばされますよう、

心から願っております。


                                

(旧版 06/09/13) ,

 

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