日本建国 「クニトコタチ」のころ (1) 改訂2010
初代アマカミ「クニトコタチ」さまは、どんなお方だったのでしょう。
ヲシテ文書から浮んでくるお姿は、
感性豊かに物事を良く観察し、考察し、
創意工夫も優れた方だったように見受けられます。
その上、リーダーとして人に慕われる方。
私ごころが無く、
自ら実践して良い結果が出ると、
どんな人にも惜しげなく技術を伝え、得たものを与え、
人の幸せをわが事のように喜ぶお方です。
また、先を見通すお力も大したものであったようです。
なんだか・・・書いていて、表現する言葉が見つからないのです・・・汗)
クニトコタチさまに申し訳ないと思いながらも、
つたない言葉でも、お許し戴ける・・・
私などは、つい、そのように思ってしまうくらい、
ふところ深く、心豊かで偉大なお方であったと感じております。
もちろんクニトコタチさまの時代は、
ヲシテが書かれた時代より、
はるかに、はるかに、
7千年以上も・・・大昔のことです。
そう。
「これは我が国の伝承の時代」
と言っても良いのでしょう。
そして時は流れ、流れて・・・6千年ほど後。
いままで安定していた気候が、急変します。
そして、
タカミムスヒ5代目・トヨケさんのお若い頃からは、
社会状況も悪くなっていくばかりとなりました。
寒冷化、農作物の減収、貧富の差。
そして悪行に走る人々。
このような困難を打破して悪を正し、
新しい明るい国を作り上げ、平和に治めていくには、
国の根本理念とは何か、因って立つべきものは何かと、
昔からの伝承をふりかえり、
深い考察を重ね、問い続けて、
それを明らかにすることが必要となります。
その根本こそが「トノヲシテ」
アマカミは「ト」という字の形そのものに、
ハニ(国土)をあらわす□の中に真直ぐに立ち、
両手を高くアメに向かって広げ、
宇宙原理のもとに・・・大自然の恵みを受け、
それを惜しみなく皆に、分け与え続ける人なのです。
恵みを分け頂いた人々は、なんと有り難いことと、感謝の念から、
ますますアマカミを助けて働きました。
それが各自の幸せにも、確実に繋がっていくのが判っていましたから。
クニトコタチさまの建国。
それから続く、ミホカミ・・・古(いにしえ)の3世代・・・は、
まず安定した食を得て暮らすことも、
知恵と工夫の必要な時代でもあったと思われます。
現代でも判るように、
温暖化の途中では、
環境条件がどんどん変わり、
それに対応しなければなりません。
だから、先を見通し考えて工夫しないと、
暮らしが成り立たなくなります。
それでも、ご先祖の方々は、
アマカミを中心に「トノヲシテ」の元に、
心を一つにして、助け合っていかれました。
みんなで幸せな国をつくろうと、希望に満ちて働き続けたのです。
そのような建国の「クニトコタチ」さまのお姿を想い、
トヨケさんや、アマテルカミの尊敬の念は篤く、
あの御世のように「すべてのタミと心一つに」との、
理想への憧れも強かったのだと思われます。
そして遥か昔の御世のことを・・・
わがクニに残る「すべての伝承」を整理して、
何一つもらさぬように、フミに「ソメられた」のです。
(古代は紙ではなく、布のようなものに染めて、ヲシテを記したのかもしれません)
しかし、とても不思議なのは、
どの民族もこのような太古の昔を、神話の形で表しているようですが、
我が国の場合は少しく違い、あくまで人である祖先のお方。
「生きていらした人が為された物事」というニュアンスで書かれているのが特徴です。
いって見れば実際的。現実主義。
作り話、ファンタジーなどは好まれなかったようです。
それは、もしかしたら我が国が地球上では特異的に、
風土が穏やかで、豊かだったことから来ているのかも知れません。
建国期はちょうど温暖化の途中であり、
その後安定した温かい時期(ヒプシサーマル)が数千年にわたり続いたのです。
また列島の形も南北に細長かったので、様々な多様性にも恵まれていましたしね?
台風や地震、火山の噴火などはあっても、
海に囲まれていることから、
異民族の暴力的な侵攻からは守られ、
皆で協力すればなんとか生きていけるような、地理的環境です。
ファンタジーや、奇跡に頼らなくても、
夢を持つことが出来たのではないでしょうか。
そう、努力すれば報われる。
基本的にはそのような風土であったと思います。
その故に死生観なども大変明るく、
この世で生きていくことは大変楽しいことなので、
死んでタマとなり、アモト(大宇宙の中心)へ還っても、
また、なるべく早くこの世に戻って、
コダネに宿り、肉体を得て、
新しい生を楽しみたいというものでした。
これを「ユキキノミチ」と言います。
このように明るい思想を産み出したこの風土は、
いつ頃からこのように成ったのでしょうか?
日本列島の気候は15000年前以降、世界に先駆けて、
大陸型の気候から海洋型の気候へと移行し、
日本列島の北緯40度(秋田県八郎潟、また岩手県八幡平付近)以南の、
多雪地帯を中心として、ブナやナラ類の温帯の落葉広葉樹林が拡大した。
この温帯の落葉広葉樹の森の中で、
最古の土器を持った縄文時代草創期の人々が生活を開始した。
・・・(中略)・・・
福井県鳥浜貝塚の発掘調査によると、
縄文時代草創期の隆起線文土器を携えた人々が
14500年前頃から居住したことが明らかになった。
花粉分析によると、その周辺は、うっそうとしたブナとナラの深い森であり、
人々は三方湖でヒシの実や魚介類を採集し、
ドングリやクルミなどの堅果類を採集し、
イノシシやシカなどの森の動物を狩りしていたことも明らかになった。
『稲作漁労文明』 安田喜憲 著 雄山閣 より
もちろん日本建国より遥かに昔のことです。
「当時の」日本列島の人々は、
大陸伝いにやってきて住み着いた人たちで、
現在の研究によると、
大陸の北、あるいは華北(黄河のあたり)からやってきた、
モンゴロイドという説が有力になっています。
この人たちは、全国にほぼ均等に住み着いていたと思われ、
石器時代および縄文時代の全遺跡を丁寧に調べ、
人数を推定した小山修三教授によれば、およそ3000人ほどであったそうな・・・
そして13000年前。
今では「バイカル湖人」とも呼ばれる人々が、
大波のように何度も何度も、樺太方面から押しよせてくるのです。
その数、推定7000人!
そう、今まで住んでいた人々の2倍以上の人々。
しかも北方系の故か、暖かすぎる(!?)西日本には行かずに、
東日本・・・琵琶湖の辺りまでに留まるのです!
東日本の人々は1500人あまりでしたから、
5人のうち4人は、この移住してきたバイカル湖人になりました。
この人たちがやってきたのは、
もちろん安田教授の言われる15000年前より後の気候大変動によります。
彼らは、ビッグハンターと呼ばれていたような人たちの裔で、
鋭い刃を何度でも取り替えて使えるという(当時の最新ハイテク器!)
細石刃石器を携えて、大型動物を狩る人々でした。
マンモスステップの消滅の後に、獲物を求めて移動してきたのです。
ところが・・・
やっとたどり着いた日本列島も、彼らの土地と同じ状況で、
草原はなく、深い森が広がり、追い求める大型動物の姿もありません。
飢えに苦しんだ人々は、やむなく、
食料獲得の手段を変えざるを得ませんでした!
森の生活に慣れている土地の人のように、
定住し、土器を作り、木の実を集め、魚や小動物を捕るような暮らし。
けれども、東日本では5倍以上に急増した人口と、
その後も安定しない寒暖の激しい気候によって、
飢えに瀕することも、まま有ったのではないでしょうか。
この困難を解決なさったのが、
後に「クニトコタチ」と呼ばれた方であったと思われます。
時は1万年前。
縄文時代早期末にあたります。
ちなみに、安田教授は色々な民族の歴史を検証なさって、
「気候の変動による人々の移動、
それに伴う、異文化との接触と、
人口圧の高い中に、
非常なる困難が生まれたときにこそ、
必要な新しい技術や文化が生まれ進歩する」
という意味のことを、繰り返し述べておられます。
さて、いろいろな資料を総合して、
当時の地図と、人口増減の図を作成してみました。
※ このサイトでの年代は、ほぼ実年と思われる「較正年」を使用しております。
さて、
クニトコタチさまの日本建国の時期(1万年前頃)を
上記グラフにて、ご覧下さい。
変動を繰り返していた気温も、
以後はゆっくりと安定して上昇しています。
そして建国後の縄文前期になると、
東日本で人口が4倍以上、
西日本でも2倍以上に増えているのは、
「飢えなくなったため」ではないでしょうか。
ちなみに、この時代の食の特徴なのですが、
木の実や魚や貝、ときには肉や海草などを、
土器の中で「ごった煮」にして柔らかくし、
芳醇な味を楽しんだり、
燻製の魚や肉を作ったり、
後に縄文クッキーといわれるような、
保存食・携帯食(?)まで生まれました☆
こうして、クニトコタチさまの、
栗を中心とする新しい堅果栽培技術が基になり、
しっかりした快適な住居も得て、
豊かな森や川や海の恵みを活かしつつ、
東日本の人口は、縄文期の中期まで増加し続けることとなります。
西日本との人口差が、異常とも思えるほどに大きくなったのは、
安定し、これから豊かに発展・・・という7300年前(前期終わり頃)に、
鬼界カルデラの大爆発という災害が起こった為ではないでしょうか?
九州では、北の一部を除いて、総てが壊滅状態になり、
四国、中国地方でも火山灰の影響は大きいものでした。
そして、その後の土地は痩せてしまい、
特に九州では、極めて生産性が低かったことがあると思います。
さて、皆さまもよくご存知の三内丸山の最盛期は中期(5000年前頃)であり、
気候が寒冷化し、突如放棄されるのは4000年前、
すなわち中期の最末期に入ってからなのです。
そして、この新たなる寒冷化という気候変動から、
東日本の人口は激減・・・つまり大勢が飢餓により死亡したと思われ、
その為に「始めて」
より温暖な西日本への大移動が起こっていきます。
トヨケさん、イサナギさま、アマテルキミの時代は、
晩期の、
さらに寒冷化が進んだ3000年前頃と思われます。
(続く)
(旧版 06/01/08)
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