2013年12月23日 (月)

ヲシテ文字が消されたわけ その4 ヲシテにチカヒ

Mizuumi

 

「ヲシテ文字が消されたわけ」と、
こうして思いをはせ、がんばって記紀を読みつつ、
書きつづっているのですけれど、
とにかく、まずは、自分で納得できる・・・筋を、
なんとか発見したいと思っています。

それで浮んできたのが、この言葉です。

ヲシテ二 チカヒ    (ホツマツタヱ 8−75)

 

「トのヲシテ」に逆らう者は、建国以来、罪とされてきたのですが、
それでも改心して
「ヲシテに誓う」ならば、許されてきたという歴史があります。
人によっては、その後の誠実さと努力、そこからの功績によって、
アマキミのお側に侍り、学ぶことを許されたケースも。

かのハタレの大乱を起こした首領たちの1人「ハルナ」は、
後に熱心に、アマテルカミの下でミチを学んでいたようです。
その方言は、なかなか面白いけれど、
私にとって理解するのは困難なものがあるのが、ちと残念です。

 

また、
「カダノミコト」の口添えもあって、許された狐憑き「キクミチ」の大族。
その後「カダノミコト」の眷族となり・・・
つまりあの「お稲荷さん」と、お使いと言われる「お狐さん」になったのです!

「眷族」というのは、けっして家来になったわけではありません。
でも各自の自覚のもと、世々末代に至るまで、
人知れず田や畑の虫を払い、獣を払うという仕事をなすとヲシテに誓ったのです。
そして、彼らについてはカダノミコトが責任を持つ、
つまり教導するということだったのでしょうね。

誓いを破ったら、もちろん滅ぼされることになっていました。

 

かくして「カミノヨ・祖先の世」は、乱れている時でさえ、
「トのヲシテ」というノリ(法)の筋が、きっちり通っていて、
ゆるぎがありません。

それは建国以来、歴代のアマカミさまたちが、
本当に自分を捨て「タミオ ヤワス」国民を和やかに、幸せにする・・・
という目的のためだけに、
生涯を捧げられてこられたからだと思うのです。

自分の幸せより、国民の幸せのために働く。
他が幸せであることが、ご自分の幸せなのです。
これが「ト」といわれる建国以来の、
最高法の指し示すことでありました。

 

まともな親であれば、みな察しが付くことでしょう。
(昨今は残念なことに、だいぶ変わってきましたが!?)

子供が幸せなのが、親の本当の幸せなのですよね?
で、連れ合いが幸せそうにしていることが、妻の幸せ。

自分の思い通りではなくても、好みでは無くても、
それは横において、子供のため、連れ合いのため、
我を忘れて頑張った揚げ句に、
皆が信じ合い、ニコニコと和やかに過ごせるならば、
どんな苦労も我慢もふっとび、本当に嬉しいものです。

 

しかしそれは、決して相手を甘やかしたり、おもねることではありません。
本当の幸せのためには、決然たる威き心が必要です。
自らを鑑みながら、
自然の理にそった判断や行動を為すことが要求されます。
これこそ、トのヲシテを支える、ロのヲシテなのだと思います。

故にこそ、キミのなさることが理に適わぬ時に、諌言するのが、
トミの重要な役目でありました。

 

【アヰサ】

アのヰサメ キミはトミあり

ヲヤはコの トモにタカラの

メクルナリケリ 

と、フトマニには記されています。

アのヰサメとは、アメ(ミオヤ)・・・自然法則のコトワリから来る、
理性的な良し悪しの判断なのです。

 

そしてまた、いちばん大事だと私が思う言葉。

ヒトナルミチハ トオモチヒ

ソノモトハ ロテ       (ホツマツタヱ 18−22)

 

Motoharote_2  長年文献を研究されている、池田先生はこの個所を、
 こう解説して居られます。

    ※ 池田先生の書『モトハ ロテ』

 「ここでのロテ、つまりロのヲシテの意味合いは、
  トのヲシテの成立への前提条件についての提示にある。
  ミヤビの心をもって他の人へ(良い)事を及ぼそうとした時、
  まずもって自分自身の自立が成り立っていなくては、
  なにごとも成就できるはずもない。

  トの基(もと)には、ロがある。

  アマテルカミのお考えには、筆者はいつも敬服するところである。
  ロ(ろ)、とは詰まるところ、現代的な表現であらわすと、
  自立・自主責任・自主独立の精神、
  あるいは自分自身のアイデンティティ
と言えるのではあるまいか。」



このように、
日本の最も大事な、心の伝統として、
トノヲシテと、それを支えるロのヲシテこそ、
変わらないものであるし、
変えてはいけない絶対の掟なのだと思いました。

そう。
日本の心とはこれ。
日本の伝統とは、これにつきるのではないでしょうか。


それなのに、ヲシテ時代が終わった後の
記紀に書かれている世の中は、
もう、ムチャクチャなありさまになっています。
皇位を、権力と思い違いし、利権を求めて殺し合う人々。

日本書紀を、古事記を信ずるならば、
天皇さまも皇子さま方も、例外ではないのが悲しい。

あの名君、12代景行天皇さまの2代後から、
それは始まっているごとく書いてあります。
本当なのでしょうか?


真相は闇の中なのですけれど、
約500年後(記紀成立時)の解釈としては、そんなことも当たり前であり、
筋は通っていると考えられたのでしょうね。
それほど、その時代は酷い世の中に変わっていたのです。

では、ヲシテの記録が終わった景行天皇さま以後、
記紀の何が信じられるかということですが、
少なくとも、あったことを拾い出すことしかありません。

つまりは、
何月何日に、新羅からの使いがあったとか、出兵したとか、
だれだれが、勅により死を賜ったたとか。
地震があった、作物が日照りで飢饉となった。
疫病で国中の人が死んだ。
熊襲が税を納めなかったので、だれに命じて討伐し、
何日に帰還した・・・とかの、事実の記載のみです。

まあ、生まれた、死んだというのは、理由はどうあれ、
ごまかしにくいのでは、と考えています。

その事象をもとに、
どのようにして、またどんな理由で、
世の中が、人の心が、変っていったのかを
考えて、推論していくしかないのではないか。
私の結論は以上のようなものでした。


しかし、アマテルカミの御世の、ハタレの大乱も、
ささいなこと・・・アマテルさまが後に自省と共に述懐なされた言葉、
「ヒトシズクヨリ ナガレマシ」ということで、
はじめは、ヒトシズクの水滴に例えられるような、地方官の不正事件。
そして、アマテルさまのキサキのお1人の恨み、嫉みからはじまり、
後の8年にもわたる、全国的な騒乱を招いてしまった訳でしたから、
ほんのちょっとのことを見過ごすというのは、
事と次第によっては、大変恐ろしい結果を生むのですね。

もしかして、
仲哀天皇さまの御世にも、
この水のヒトシズクのような「ささいなこと」が起こり、
見過ごしたのではないか。
私にはそのようにも思えるのです。

畏れ多いことではありますが、その始めが、
異母弟君、アシカミカマミさまの勅殺にあると思うのです。

いくら御父のヤマトタケさまをないがしろにし、
献上品の白鳥4羽を奪っただけで、いきなり死を賜るなんて、
何とも感情的で、理にあいません。

またその早世の後、スヘラギ崩御を隠しての、皇后さまの新羅出兵。
これは、ますますおかしいです。
仲哀さまが反対であったことはハッキリしていますから、
誰かがお命を殺めたという説も、あながち嘘とも思えないのです。

ことによると、大陸の珍しいお宝が欲しかった・・・?
皇后さまの一派は、物欲にかられておしまいになったのかもね。

以上はまだまだ、無邪気な推論です。
もっと、掘り下げて見ると・・・
そこには、新羅の血を引く勢力との争いがあったのではないか。
そのようにも思えるのですが。


半島との外交は、
ヲシテ時代では大らかなものだったようです。

初めての渡来の人の記録は、紀元前56年、
ヒトノヨの10代・ミマキイリヒコ(崇神天皇)の御世。
その39年、新羅の皇太子アメヒボコガ弟チコに位を譲り、
我が国の治世を慕って渡来、帰化しました。
キミは望むままに、好きなところに住むことをゆるします。

つれてきた供のものや、陶工たちは、近江のハザマタニへ住み着き、
ヒボコはその後、イズシマのフトミミの娘マタオを娶りました。
そしてその子モロスケは、お召しを受けてトミとなり、
11代のイクメのキミにお仕えするようになったのです。
このアメヒボコから四代後が、心の通いあったキミに殉じた
あの忠臣タジマモリであり、
その娘は、ヤマトタケの愛妻ヲトタチバナなのです。

 

その後19年経って、今度は加羅国の皇太子ツノガアラシトが来日します。
加羅とは古く三韓時代には卞韓と呼ばれていたようで、
いまの釜山あたりを中心とした国でした。
その東には新羅(辰韓)また西には百済(馬韓)があり、
加羅国はその間にはさまれた立地なのです。

5年後帰国のおりには、ミマキイリヒコのお名を、加羅国に贈っています。
しかし、この皇太子帰国の時の土産物を新羅に奪われたと、
加羅、新羅両国は戦争状態になり、
ミマナ(加羅国)からの要請により、ミマナ ヲシ(援軍のようなもの)を遣わされ、
そして、ヲシ(勅使)のシホノリツは、無事平定に成功して帰国しました。

後、ミマナからはミツギが届きます。
しかし、いま考えるような属国としての貢ぎでは無さそうです。
感じとしては、お礼?・・・みたいな気がするのですが。
だってね、1回だけなんですもの。

ミマナからはもう1回、次の11代イクメのキミのご即位の時、
ミツギを上げ、祝いを述べにきています。

公式な記録は以上なのですが、
民間レベルでの行き来は、あったと思います。
なにしろ、九州からは近いですから・・・
でも、それは特筆すべきことでもなく、日常のことだったでしょう。
なにしろ、我が国はおおらかで、
来るものはこばまず、去るものは追わず・・・のようでした。
不都合が起こらなければ、良かったのですね?

 

以上のようなことを勘案すると、
まず仲哀さまが、海の向こうに豊かな国があることはご存知のはず。
すでに新羅の王家の方が、230年以上も前ながら、
この国を慕って帰化しているのです。
そして、朝廷の重臣になられた、その子孫のタジマモリのことは、
100年位前で、有名な方ですから、しっかり覚えておいでのはずです。
今で言うなら、やはり殉死された乃木将軍のような存在なのですから。

異母兄弟が、母方に、その血を引いていることも・・・!?

 

さて、もう一つの背景。
皇位がだんだん重いもの、いわば力が強力なものとなっていた、
そういう事実も読み取れます。

例えば、天皇さまの御陵ですが、
第9代・フトヒヒ(開化天皇)さまから、目立って大きく、
直系が100メートルを超すものとなっているのです。
実に神武天皇さまの3倍の大きさです!
いうまでもなく、立派で大きな御陵を作ることは、
民の負担も大きくなっていたと推察できるわけですね?

さらに、もう一つの精神的な要因は・・・
世の中の平和ボケではないでしょうか?

 

欠史8代といわれている、その前の方々の御世は、
まことに平和で、ゆったりと過ぎていったように思えます。
ヲシテ文献でも、記述は少ないのです。
その中の7代フトニ(孝霊)さまのくだりだけは、ちょっと面白い。

なんと、御年80才を超えて、ハラミヤマ(富士山)に登山されています!

Fuji_hutoni

 

  ハラミヤマ ヒトフルサケヨ

  フジツルノ  ナオモユカリノ

  コノヤマヨコレ          第7代スヘラギ オオヤマト フトニ 御製

                            (ホツマツタヱ 32−4) 

 

フトニさまは、献上されたこの山の絵を見られてから、大へん興味を引かれたようです。
古事にも思いをはせ、尊んでおられたとか。
そうですよね・・・イサナギ、イサナミもこの山頂で
世継ぎを求めて祈られたのですから。
アマテルカミを象徴しているかのような、聖なるお山なのですよね。

そして、このお山に登るのが、フトニさまの念願になりました。

御位をお譲りになって後の、生涯1度の登山を記念して、
その時捧げられた藤の花から思いつかれて、
このお山を「フジノヤマ」と、新たに命名されたのです。

なんだか・・・ほほえましく、そして平和ですよねえ☆

 

この方は他にも、

3つ子が生まれた時、どの子もアメから戴いた尊いタマなのであるから、大事にするようにと、
迷信を信じて間引くなどの当時の習俗を、古事を引きながら禁じておられます。
カミノヨの名君ニニキネさまの皇子も三つ子でしたし、
それに、このフトニさまのお子にも三つ子が生まれたのです・・・

暖かい、良いお方だったのですね?

 

そしてこのような、穏やかな500年もの平和は、
幸せに馴れてしまい、
もしかして、タミやトミなどの、
現状維持や、贅沢や、怠惰や、ことなかれなどの、
マイナスの心持ちを、いつしか育んでいったのではないでしょうか。

上記のフトニさまの御世にも、
既に迷信・・・シャーマニズムが入り込んでいますもの。

また、知られず、私腹を肥やしていたりも・・・あったかもね?


そして崩御のあと、御陵を大きく造られ鎮まられた9代・フトヒヒさま。

ご生前、諌めを奏上した重臣の言葉を取り上げられず、
前帝の妃を、皇后になさっていますっ!

これは、義理の母上ですから・・・・タブーを恐れぬ、とんでもないこと。
キミという御位では、ことに人倫にもとることや、自侭は、
今まではありようもなかったことです。

ひたすら国が安らけく、皆が心1つに、幸せであることだけを考えて、
己を捨てて生きられるのが、キミであり、アメナルミチでありましたから。

この三輪の臣は、この故に職を辞し隠遁しています。

 

Aisa_3

 

  この方の裔が後に、再度召し出され、大神神社の斎祇を司られることになり、
  またヲシテ文献の1つを編纂し、景行天皇さまに捧げた、
  重臣オオタタネコとなるのですが。

このように、ほんの少しづつ、
ヲシテの精神は薄まっていったのでしょう。

 

キミ御自ら、それに気がつかれ、建て直そうと努力なされたのが、
10代からのスヘラギさま方でした。
しかし、1度変わっていったものを正すのは、
本当に難しいものなのでした。

そのゆえか、キミも悪人に対しては、
たいへん厳しく当たられるようになります。
最初から反省して、従うのならともかく、
戦いになると、もう降伏しても許されることは殆どなく、
勅殺されるのが常となりました。


こういう時代背景を踏まえながら、
仲哀さまの事件や、神功皇后の新羅遠征、何度もの討伐を考えると、
見えてくるものがあるのではないでしょうか。

 

この場合は、朝廷の権力を半島にも広げ、利を得ようとする皇后派と、
良き日本の伝統の
「トの精神」を守ろうとする、(ゆえに)新羅同情派

 

これは異な考えのように思えますが、
帰化した新羅の人々は教養あふれる、血統も正しき誠実な方々。
大陸の「力の王権」というものを嫌い
穏やかで、理の通った聖なるスヘラギの国の人になりたいと、
地位も特権も捨ててやって来られたのです。

だからこそ、伝統的なアメナルミチには、特に忠実な方達であったのは、
充分に納得できると思います。

まるで乃木将軍のような、タジマモリ派とでもいいましょうか。

   現代では金美齢さん、石平さん、ラモス瑠偉さん etc.
   本当に日本の国を愛し、我が国を護るために全力を挙げておられます。
   また、王貞治さん。
   日本を愛し、また父の国、中華民国(人民共和国では無い!)を
   愛しておられますよね?

しかも新羅は一族の故里の地です。
一方的な侵攻には、大反対しているはずだと思うのです。

 

おそらく、ご皇室も重臣、豪族たちも、
この2派に分かれ争ったのではないかと、私は思うのですが。

仲哀さまの異母兄弟アシカミカマミ、皇子のカゴサカ、オシクマ両皇子の勅殺。
そして、実は仲哀天皇さままでも、
皇后さまを擁する、新羅侵攻派によって弑殺されたのではないでしょうか。

そして天皇さまの死は、新羅侵攻が終わり、皇子が生まれるまで隠されました。


それは、この時とばかりに反対派が立つのを防ぐためではなかったか。

皇后さまが世継ぎを産まれなかったら、
やはり仲哀さまのお子である、兄皇子のカゴサカさま、オシクマさまのどちらかが、
皇位を継がれることになるでしょうから。

「神功皇后さまの皇子は、生まれなければならなかったし、
新羅は、連帯しようとする勢力を押さえるためにも、
叩かなくてはなりませんでした。

 

そして、その後、
儒教思想が我が国に入ってくるのです。

これをめぐって、国はまたもや激しく、
血腥く、揺れ動いたのでした。

 (完)

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2013年12月20日 (金)

ヲシテ文字が消されたわけ その3 仲哀天皇さまからの時代

Hanamomo



その1、その2と、漢字導入仏教伝来によって、
ヲシテが消され、忘れられたと書いてきたのですけれど、
途中から、実はもう一つの大きな理由があったのではないかと、
おもい始めました。


調べれば調べるほど、このふたつの事件以前に、
日本の心の世界に、見えない形で侵入し、
それとは分からない形で日本をむしばんでいたもの・・・
それが、どうもあったようなのです。

儒教思想の伝来です。

それにかかわる?、私にとっての理解できない人物はまず、お2人。
仲哀天皇さまと、その皇后さまです。
仲哀天皇さまは、かの「ヤマトタケ」の皇子でいらっしゃいます。
ですから、最も日本的な古来の伝統を大事にされていたのではと思います。




けれども・・・日本書紀によれば・・・
ヲトタチバナと御父ヤマトタケの皇子(つまり腹違いの弟)を、
些細なことを理由に殺されているのです。


ヤマトタケさまが病気で急逝なさり、
そのタマ白鳥になって翔んでいかれたというイメージは、
残された悲しみにくれる方々を慰めるものでした。

これは文献にもしっかり書かれています。
そして、その悲しみの中で、ご遺言を守るという形で、
ヲシテ文献は終わっています。




で、続く日本書紀には、曰く。

御父を偲ぶために、仲哀さまが、白鳥を見つけて献上せよとの詔を出されます。
捕まえた白鳥を見た、弟ギミが
「白鳥も焼けば黒鳥となる・・・」と軽口?を言われ、
その鳥をを献上にきた人から、取り上げてしまったとか。

そして、たった、それだけの理由から、
「亡き父君に対する不敬の罪」で、
この弟ギミ「アシカ ミカマミ」さまは勅命により、殺されます・・・!!!



こんなこと、ヲシテ時代にはあり得ないお話しです。
はっきりと皇位を狙い、反逆し、ために殺された方は何人かいました。
でも、その理由も経緯も、
「ヲシテに反する」という、
(憲法)違反の罪であったのは明らかでした。

それに、アマテルさまの時代には、すでに刑法が完成し、
1つごとの罪により、量刑が科せられていたのです。

   殺人は400クラ(暗?)、但し尊属は200クラ
   物を奪ったら60クラ、キミの恩を忘れた行いは100クラ
   ヲヲヤケに関する場合、上記に200クラ加算
  
 罪の合計が360クラになれば死刑。

   100クラを超えると、アガタ(郷土の集団)からの追放。
   200クラ超で、クニ(地方諸国単位)からの追放。あるいは遠島。
   300クラ超は、髪と爪を取り剥ぎ、入れ墨をして追放。
   400クラを超えれば、本人は死刑の上、一族郎党へも処罰が及ぶ。



仲哀天皇さまの時代は、もちろんヲシテが国字。
文献が記され、奏上されたのは2代前なのですから。
この事件はでっち上げ?・・・陰謀?
真相は何だったのでしょうね。

それに、仲哀さまの他のご業績からは、
父君からの古来の伝統をしっかりと守られているように拝されます。
そして、この君も異様に短命であられました。
なんでも神のお言葉を信じなかったからだそうです!

これも・・・ほんとかいな・・・と思うことしきり。


で、その神のお言葉というのが、これまた変なのです。


(神功)皇后に神懸かりして、

「海の向こうに(朝鮮半島)に金銀にみちた豊かな国、
 新羅があるから、それを与えよう・・・!?」

おまけに

「兵を率いて討とうとしている熊襲の地は貧しく、戦う甲斐がない」

・・・などという大意のご託宣まであるんですね。


これって、どうよっ!

まったくの侵略戦争
ヲシテに反するムチャクチャなお話じゃありませんか。

それに、天皇さまは

「海の向うを見わたしたが、
 空ばかりで国らしいものは何も見えなかった……」とかね。


そんなこと、仰るはずがないのです!
曾祖父の垂仁天皇さまの代には、新羅の話がちゃんと記されてますし、
海の向うに国があることはご存知のはずです。

で、信じなかったので、神の祟りでお亡くなりになったんですって。
神の祟りなどは古来あり得ないことなのに。



そして、残された神功皇后。
神懸かりされただけあって、大変ご神託に熱心でした。
そして天皇の死後は、自ら神主となられ、
神託の神の御名を尋ねられたところ、

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかき・いつのみたま・
あまさかるむかつひめのみこと

なんとなんと、アマテルさまのウチミヤ(皇后)になられた
セオリツヒメ・ホノコさまではありませんか!


称え名は「アマサカル ヒニ ムカツヒメ」
あのミヤビ(無私の、他を思いやる和の心)の優れる御方であられました。


        セオリツヒメノ 
  ミヤビニハ キミモ キサハシ
  フミオリテ アマサカル ヒニ
  ムカツ ヒメ ツヒニ イレマス
  ウチミヤニ


妃の位は、もちろんキミの下位にありました。
しかし、セオリツヒメ・ホノコのお心は、まさしくトのヲシテそのままの、
私が全くない、和の心であられ、それゆえ、キミ(アマテル)は
位という階段を自ら踏み下りて、対等に遇されたのです。
つまり、輝くヒ(キミ・天皇)に、ムカツ(向かって立つ)ヒメ。
そしてウチミヤに入れられた。
……妃それぞれの賜る局で、キミのお召しを待つのではなく、
この方だけは、キミと同じ所に住まわれることになった。

また、他の妃の頂点に立って、キミをお支えする為に、
妃たちを、公平にまとめられた。
これはウチミヤとしてのヲヲヤケのお仕事です。

他にも、キミが地方に行幸なさって不在の時に、緊急なことが起こると、
臣の助けを借りながら、政ごとも代行されておられました。
ミコトノリ(詔勅)というのはキミだけのものですが、
ウチミヤはコトノリ(勅)を発することが出来たのです。

この他にも、まだ祀っていないという神名が出てきますが、
これも、とんでもない間違いです。
コトシロヌシ(役名ですので、何人もいらっしゃいました)とか、
イサナギさまが、ミソギされた時の3人のカミとかね。

  



ま、日本書紀が書かれたのは、

実際の事件の頃から、

500年以上経ってからですものね。

ヲシテはとっくに消えていたために、

判らないままに書かれたのですね。






さて、神託に従って、
妊娠されているというのに、神功皇后は兵を率いてご出兵になり、
やすやすと戦に勝たれて、新羅は属国になったのです。

帰国後すぐに生まれた皇子と共に、
他の反対派の皇子や、加担した者たちを滅ぼして、
自ら摂政として、なんと70年近くも政ごとを、お取りになったと。



とにかく、ヲシテ文献以後の記録はそのまま鵜呑みに出来ないことばかり・・・
どうにも辻褄が合わないのです。


ヲシテは、古代ヤマトコトバの解読は難しいけれど、
内容には矛盾がありません。
人の繋がり血筋なども・・・系図に書いても、いい加減なところが無い。
分からない人があっても、それをそのまま記していますし、
全体にも混乱が無くスッキリしています。


こういうことからも、我が国の古来の哲学や心持ちが
記紀では、まったく変質しているのが解ります。
これは儒教による
中華思想そのものではないでしょうか。


で、私の次に引っかかった事件は、
次の応神天皇から
仁徳天皇の御世のことです。

ここでも皇子がお二人、謀反ということで糺されて居られます。
これが・・・どうにも引っかかる。

皇位をめぐって、特に記されている皇子は4人です。
皇太子になられたお方は、大変聡明なお方で、
初めて儒教が伝わった時、教典という形で学ばれています。


時に374年、百済の阿直岐という者から、それを学んだというのです

御父、応神天皇はさらに請うて、使者まで使わして、
有名な学者の「王仁」を招くことになさいました。
そして、なんと半年後には王仁が百済から渡来、教書を授けたと。


この
阿直岐は帰化して後、史(ふびと)となり、
王仁も同じく「書首等・ふみのおびと」となり、
我が国の学者、学問の総帥となりました。




 

つまり、以後、特にエリートには

外つ国の思想教育がなされたのですね。

現代の戦後教育とまったく同じじゃないですかっ!


儒教は革命思想を含んでいます。

ですから、その思想の説く「正義?!」のための戦いは容認される。
したがって、殺し合いも当然のこととなります。



やはりヲシテが消された、そのきっかけは、

この儒教思想の定着から始まったというのが、

正確な分析ではないでしょうか。

しかし、それに抵抗する人々もいたのです。

伝統保持派とでもいいましょうか。


弟君が、最初に儒教を学ばれた皇太子で、
仁徳天皇となられた兄と、仲の良い弟君は2人とも、もちろん渡来学門派。
弟が皇太子であり,最初に儒教を学ばれたと言います。

聡明で儒教をいち早く身に付けられたこの皇太子、
「うぢのわき いらつこ」の母君は、帰化人の娘であられたとのことです。
だから、言葉も思想も容易に理解され、
誰よりもすみやかに身に付けられたのではないでしょうか。

ただ、不思議にも応神天皇の後、お二人で皇位を譲りあった揚げ句に、
優れた兄に皇位を継いでもらうため?・・・
皇太子であるこの聡明な弟君は、自殺なさって居られます。
・・・明らかに儒教からの「禅譲」なのですが、自殺までなさるとは!?

ヲシテに添った考え方では、
皇太子の地位を、勝手に譲るなどとは、
皇太子という地位の責務を忘れ、その地位を貶める
とんでもない行為ではないかと思われます。
皇太子の位を決めるのは、天皇の詔勅のみなのですから。


仁徳天皇さまに糺されたもう1人の皇子「はやふさわけ の みこと」は、
お血筋からもれっきとした護国派、伝統派であり、
女性問題が発端で、謀反の心ありと殺されておしまいになりました。

これもしっかりとおかしい話で、
仁徳さまが望まれた媛は、すでに40才を超え、
すでに、はやふさわけさまとは長年の相愛の仲であられたようです。
皇子さまももちろん40才を過ぎて居られます。


で、このはやふさわけさまは
実は、あの「継体天皇」さまの祖であられたという説があります。

『和解三尾大明神本土記』808年
『皇代記』1274年頃
『日本皇帝系図』1308年頃
『水鏡』1330年頃
『神皇正統録』1330年頃
『神皇正統記』1339年頃
『神明鏡』1430年頃
『和漢年契』1796年

しかし記紀では、
継体天皇さまの祖は「わかぬけ ふたまた おうじ」とされ、
出典は『上宮記』7世紀頃に成立したと推定される、1例のみです。
現在は釈日本紀などに逸文が残っています。

しかし、謀反人とされておしまいになったから、
都合の悪いことは消されてしまったと、
そのような推測も出来るかも知れません。



この一連の事件は、

儒教受け入れ派と伝統保持派の対立ではないか。

仲哀天皇さまから徐々にそれは始まって、

どんどん対立が激しくなり、

ついには伝統保持派を抹殺して行った。

これにより国は混乱の闇に堕ちて行ったと

考えることも出来ますね。




松本、池田両先生は、そのように解しておられます。

このことに関心を持った方は、今までいないようで、
現代の研究者も記紀そのままに、

これを引き継いでいるということです。


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2013年12月17日 (火)

ヲシテ文字が消されたわけ その2 蘇我氏と聖徳太子

Haru

さて、このような経緯を経て、
ニギハヤヒさんの裔として、物部氏は誕生し、
代々アマカミ、スヘラギを守り、国内の治安維持に働いてきました。

今までの伝統を重んじるのは当然のことでしょう。

カミ(祖先)を祀ること、農主体の質素で実質的な建国以来の生活伝統です。
そこへ、言ってみれば豊かな、贅沢とも思えるような、
新しい他国の文化が入ってきたのです。

時代の様相は変わってきていました。




蘇我氏は、それでも8代スヘラギ(孝元天皇)の血を引いているのではと思われるのですが、
いきなり6世紀の初め、歴史に登場します。
それまでは無名の人物であったと言ってよいのですね。
そして根回しがうまく、また機を見るのに敏であったようです。


当時の中国は長い戦国時代、あの「三国志の時代」が終わり、
からという、新しく力の強い、そして安定した王朝が国を統一していました。
は以後280年にわたって、中国を支配します。

大陸からは、どんどん異国の文化や技術が入ってくるようになったのです。

また朝廷でも、聖徳太子のころは遣隋使、
後には遣唐使の制度を作ったり、技術者を招いたり、定住者に特別の配慮をしたりして、
珍しく優れたモノを取り入れるのに熱心でした。

蘇我氏はすかさず渡来人たちと深く親交を結び、
宗教や文化、 新技術を積極的に取り入れ、富を増やし、
そしてついに、彼らをも支配するほどの力を持つようになりました。

一方で、天皇のお側には次々と美女を送り込み、 天皇の外戚となることにも成功します。
あの「聖徳太子」「推古天皇」も、蘇我氏の血を色濃く受け継いでいるのです。

   
    戦後アメリカの文化が入ってきた時とおなじだなあ。
    古い伝統的なものはダサイわけです。
    そして飛鳥時代の頃のナウで、ステキでオシャレなものは、
    渡来のモノ・・・中国の文化であり、仏教でした。




そして、ついに仏教に帰依したいという崇峻天皇(もちろん蘇我系)が現れます!

それに反対した物部氏は、
14才の厩戸皇子(のちの聖徳太子)も参加した、
蘇我の軍勢により滅ぼされたのです。

しかし蘇我馬子は、その後対立するようになった崇峻天皇を弑し奉るという、
我が国始まって以来の暴虐をなしました。
そして、より意のままになる、姪である「推古天皇」を立て、
仏教に熱心で人柄も秀でた厩戸皇子(聖徳太子)を摂政にすることにも成功。
蘇我氏の天下となっていきました。

それからというもの、法隆寺を始め次々に寺が建てられ、
仏教が隆盛を極めるようになります。




さてここで。

私は長年、聖徳太子という方に疑問を持っていました。
太子はなぜ、物部を滅ぼす方に付かれたのか。

仏教に熱心であられたとはいえ、
太子はお人柄からいっても、権力をふるうということとは、
無縁のお方に拝察されます。

「和を持って尊しとなす」というお言葉のある、17条の憲法にしても、
古来の「トノヲシテ」の精神を、しっかりと引き継がれていると思うのです。

だからこそ、後世にまで「聖徳」というお名で讚えられたのですね。

もちろん、伝統のカミ祀りも大事にされていたことは、
日本書紀の二十二巻にも、下記のように記されていることで分かります。


   十五年春二月一日、壬生部(皇子、皇女のための部)が設けられた。
   九日、詔して
   「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、
    つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、
    神々の心を天地に通わされた。
    これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。

    今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。
    群臣は心をつくして、よく神祇を拝するように」と言われた。

   十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。(宇治谷 孟 訳)

Nihonshoki_1

しかし、それほどのお方が、
蘇我馬子によって、継承権を持つ物部派の皇子・・・異母兄弟・・・を弑された時も、
なぜ黙っておられたのか・・・?
一族の長とはいえ、臣である蘇我馬子の、
天皇さま弑逆をなんと思われていたのか・・・?



けれども、こうしてヲシテ文献から始まった歴史を、
一続きにして調べ直しているうちに、少しずつ分かってきたように思います。


権力が表に立つと、かならず闘争が始まる。
蘇我氏の血筋といえども、
逆らったら殺されてしまうのです。

物部氏との対立の頃、太子はまだ14才であられたし、
後ろ盾も他には無かったわけですものね?

権力闘争の渦中にありながら、
太子は政治というものを、しっかりと見極められたのではないでしょうか。
そして摂政となられて、実権をもたれてから、
国を安らけくと、最大限の努力をなされたのだと思います。

しかし残念なことに道半ばで皇太子のまま、ご逝去になりました。
太子ほどのお方でも、ご心労が過ぎたのではないでしょうか。

権謀術数の中で、理想を追及すれば、
今も変わらず、それは大変な心身をすり減らす激務となります。

そしてまた政局は、蘇我氏を中心にして動いていくのです。


このように、蘇我馬子の時代から、
恐ろしいことに、
ご皇室に対してさえも、思いのままに支配しようとする、

権力への野望が生まれたように思います。

また、そういう力に翻弄され、
尊い皇子さま方も安穏ではいられなくなりました。
次なる権力を見定めないと、お命まで危うくなるのです。

古来の日本には無かった、恐ろしい世の中。
これはまったく大陸の覇権の思想です。



言ってみれば、中国の思想に乗っ取られたわけです。

日本が古来の日本ではなくなった、

最初の時がこれでした。



以来1400年余り。

権力への欲望が今もなお、日本を覆っています・・・




さて、元へ戻ります。

蘇我氏が実権を握って以来、
今までの神社というものは、民衆の反感を買わないようにしながら、
仏さまたちに巧みに中身をすり替えられていったのですね。
また、新たにでっち上げた神さまと入れ替えたりもしました。

そして物部の輝かしい歴史を消し、
カミのミチの痕跡を残さないように、禁書・焚書を行ったのです。
政治的な観点、自己正当化からも、それまでの歴史の 書き直しは徹底していました。
あたかも仏教が伝えられ、漢字を手に入れて、 文字もなかった後進国に、
やっと文化・技術が花開いたかのように。

(日本書紀巻二十九に「帝紀および上古の諸事を記し、校訂させられた」
 と記されているのが、明らかなる書き直しの最初だと思われます 


それは、国を支配する為にも大変有効な手段であったのです。
ヲシテは、基本文字が48字。
誰でもが読め、子供でも覚えやすい形ですから識字率は大変高かったと思われます。
しかし漢字が国字となった時、支配階級しか身に付けられないのは当然のこと。
権力の強化、支配の強化。
民にとって長く長く続く、災いと不幸の種となった、
「よらしむべし、知らしむべからず」の始まりでした。


その手段が「日本書紀]であり、「古事記」であったのです。
実に聖徳太子の没後90年頃のこと、平安時代初期にあたります。


    でも、まあ良くこれだけ都合のいいところだけ拾ったよなあ・・・

    けれど太子はきっと、あの世でびっくりし嘆かれたでしょうね。
    「そこまで、やってしまったのか!」と言って。
    だって、太子は民を大事にされたお方でしたから・・・



ヲシテ文献と上記の文書を注意深く比較すると、
どのように書き換えられたかが良く分かります。

もちろんそれによって、国中を天皇のもと、 強力に1つにまとめるという利点がありました。

太子亡き後、その理想に反して、世は乱れていったのですから。
まとめるのには、なんといっても宗教を使うことが早道です。
ここに、強力な政治的意図が働きました。


    私見ですが、それまでの日本には宗教はありませんでした。
    伝統的なカミ祀りとミヤがあっただけです。
    宗教というものは、教義があり、信者があり、布教をするものです。
    それから見ても、本来の神道・・・
    と書くのは、抵抗があるんですが・・・は、宗教ではありませんね。
    「カミのミチ」は、祖先が伝えてきた生活の知恵だったのですから。
    けれどここに宗教としての「神」と「神社」が作られてしまったのです!
    しかも仏教とも競合しない形で。


仏教の方から見ても、布教にさほど差支えはなかったようです。
宗教らしいものが無かった地なのに、人々はみな素朴で聡明でしたし、
教えを広めることは、どんなにやり甲斐のあることだったろうかと思えます。

形としての神道が整えられても、仏教には貴族や朝廷からの篤い支援もあり、
ますます広がっていきました。
それに、仏教の神髄はまことに素晴らしいものであったことは事実なのです。
また権力によって強固に支配される事となった民にとっても、
宗教は心の支えとなっていったと思われます。


Koyasukannon_2


ここで私は言いたい。

宗教の必然性は、
この世が苦しく、辛い時に成り立つのです。



ヲシテ時代は、ままならぬ事は起こっても、
この世は楽しいものであったのに。

アマカミは父のように、ウチミヤは母のように、
民を愛し、子や孫として自ら導かれたというのに・・・

民ものびのびと、農に商に技にいそしみ、
また才能のあるものはヲヲヤケに取り立てられ、
アマカミをお助けしたというのに。

権力と支配のあるところ、
この世は苦しく辛く、宗教が唯一の心の支えとなるのは、
他の国々を見ても良く分かるのではないでしょうか。




仏教が普及するにつれて漢字もしっかり定着していきました。
公文書は聖徳太子の頃から、すべて漢文になったことですし、
漢字読み下しという新技法(翻訳法)まで発明されていたのです。

文章はほとんど漢文のまま(正確には和漢文)ですから、
上流階級の三割以上の渡来人との意志疎通にも、
中国との外交にも、大変役に立ちました。

その後、ヤマトコトバの音通りに、 似た漢字を一字一字当てはめ書くやり方も流行、
和歌を中心に、カタカナ・かなの独自な字も成立したことから、
日常生活にもさして不便はなくなりました。
「万葉仮名」といわれるものが、それです。


そして紀元800年ごろを過ぎると、

「我が国には漢字以前には文字が無かった」

という説は見事に定着したのです。



弥生、飛鳥時代から奈良時代を通って、平安初期までの、ながーいお話でした。




 注   漢字伝わる。「漢委奴国王金印」の頃か・・・
     推定紀元50年ごろより、
     大国となった中国との外交があったらしい。

     一方12代スヘラギ景行天皇(在位71年〜130年)までは、
     ヲシテ文字がヲヲヤケに使われていたことが、
     「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「フトマニ」などの
     古文書発見により、証明された。

     また上記により、
     さらに古い「ミミノハ」「ミソギノフミ」「カグミハタ」「ヨツギノフミ」
     などをはじめ、数多い先行文献があったことが分かる。
     文書の内容から、紀元前4000年以上も昔の建国期に
     ヲシテ文字はすでに存在したと推定される。

     景行天皇前後から、徐々に漢字が帰化人を中心として広まり、
     ヲシテと漢字が混在している時代となる。
     この時代より、ヲシテの形も少しく変わり始めている。
     このような変化や用語からも、
     それぞれのフミの成立年代が推定可能となった。

     私見によれば、第14代仲哀天皇以後、神功皇后の時代から、
     
ヲシテは見捨てられ始める。
     大陸の影響はますます大きく、文書は次々と漢字に訳されていった。

     仏教伝来、538年。
     物部氏滅亡、崇峻天皇仏教に帰依、587年。


     620年、聖徳太子時代。
「天皇記」「国記」という歴史書成る。
     両書、「乙巳(いっし)の変」
蘇我氏滅亡時に焼失。645年。

     
日本書紀撰上始まる・・・帝紀、上古諸事の記定。681年。
     完成したのはおそらく、710年頃と思われる。
     
    「
先是一品舍人親王奉勅修日本紀至是功成奏上紀卅卷系圖一卷」続日本紀720年。

     
古事記完成。712年。
     但、最新の研究によれば、でき上がった日本書紀を元に書かれ、
     何らかの理由で、こちらを先に奏上したという。

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2013年12月16日 (月)

ヲシテ文字が消されたわけ その1 物部氏

Soushun


ヲシテ文献は、消えたのではなく、意図的に消されたのです。

現代でもよく言う「政治的配慮」ですね、どう見ても。
自国の文字を消しただけでなく、歴史自体を書き換えました。

どんな風にって?
時の権力者に都合が良かったのは「神話」にしてしまうことでした。
つまり、それによって天皇神格化という 今までに無かった概念を作り上げたのです。
神の天下ったのが天皇の血筋であると・・・
祖先を表す「カミ」は消され、「神」が誕生したのです!

生きていた人々を強引に、漢字での「神」にしてしまったのですね。

ここに脈々と続いていた日本独自の思想も、心のよりどころも

ぷっつりと断ち切られてしまいました。



すでに中国では「天帝」という、唯一神を作り上げていました。
天帝に選ばれたのが国を治める絶対的権威の「皇帝」です。
おそらく、それに対抗する思惑も働いたのです。

独立国としての立場を守り、乗っ取られないようにする・・・

小さくても、日本という国の権威を高めるためにも、

「日本書紀」「古事記」は書かれなければならなかったのかも知れません。


一方で、ヲシテで書かれた歴史書を読んで、
本当のことに気が付くといけないというので、
禁書・焚書も徐々に、そして徹底的に行われたと思われます。
その時期は、おそらく蘇我
氏が物部氏を滅ぼした頃から、
奈良時代を通じての、かなり長い間だったのではないでしょうか。

聖徳太子の時代から、歴史の編纂という名を借りて、

ヲシテの内容は変えられ始めたのです。



その発端・・・蘇我氏と物部氏の対立。

この2つの家系の対立は、朝廷における勢力争いでした。
物部氏は、血筋から言っても名門です。
名君と言われた10代アマカミ「ニニキネ」の孫、
クニテル「ニギハヤヒ」さんを祖とする家の裔ということになっています。

詳しく述べるならば、10代アマカミはお二人で、

公に2つの朝廷があったのです。

時に、紀元前800年頃でしょうか。



Tizu_kaminoyo

                  注 地図は現代のものに、当時の場所を記しました。


クニの中央にミヤコを置き、東北のタカミムスビ家(御父の「オシホミミ」さんは
ヒタカミノミヤに居ます)と連携しながら、
ナカクニを治めていらしたのが、
後の10代アマカミ「アスカノ ホノアカリ」テルヒコさんで、
ミヤは移して飛鳥の地に置かれました。
神聖なお山「カグヤマ(富士山)」を戴こうと、飛鳥の地にあるお山にもカグヤマ(現・天香具山)と名を付けられ、カグヤマヲキミの別名もお持ちです。

しっかり余談になりますが。

この日月の皇子(皇太子)ナカクニ赴任にあたって、
ご使用されたのが「アマノイワフネ」と呼ばれた御座船です。
このお船は「イワ(クス)フネ」と申し、特別に飾られ祓い浄められた種類の舟をさし、
祖父ギミのアマテルカミが船旅をお勧めになったことから、
アマノ(アマキミの)イワ(斎われた)フネと名付けられたような気がします。

・・・原文には、帆を揚げて、大空を翔る鳥のように渡っていった
という表現がなされていますが、それゆえか、
ここでも神話に書き直す時に、漢字による誤訳が生まれていますよね?
曰く「天磐(楠)舟」で、磐のように固い木で造った船で、空を飛ぶんですってさ!!
こんな誤訳が生まれちゃったから、
現代のトンデモのお方達には「超古代文明」などと、オモチャにされています。 
なんでも超古代の日本は、ものすごい科学文明があって、世界を支配し、
時空を超える乗り物「天磐舟」または「天鳥船」で、飛び回っていたとか。
・・・・まったく! 怒)



一方、ニハリノミヤをはじめとし、
各地にミヤを置いては食糧増産に成功した
ニニキネさんは、
共に日月の皇子(皇太子)となり、
ハラミノミヤを本拠となさいました。

そして10代アマカミになられた後は、要請のあった九州にもミヤを置き、
その頃最新の潅漑技術や土壌改良を指導、
本州に次いで水田稲作を築き上げることに全力を尽くされていたのです。

ついでの話ながら、ニニキネさんの後のホオデミさんも皇太子時代には
「ツクシヲキミ」となられ、さらに精力的に農業指導に取り組まれましたし、
当のニニキネさんも、ソヲのタカチホ(霧島の高千穂岳)でカミアガリなさいました。

12代アマキミのウカヤフキアワセズさんが薨去なされたのも、
ミヤザキのミヤなのです。
こちらの朝廷はこの時代、九州・ツクシを大変に重要視されていたのですね。

いまの時代も、九州は農業には良いところです。
なんといっても、気候が温暖で暑過ぎず、寒からず。
全国でも農には恵まれた土地柄なのです。
2代にわたって土地改良なされたのは、そのことが国力に大きく寄与するとの
判断があったからなのでしょう。

それゆえ後に、タケヒト・イハワレヒコ(神武)さんも、
お若い頃ミヤザキに居られたのは自然な事なのです。
薨去が迫った頃、父ギミが中央から呼び寄せて日月を譲られ、そのままウカヤキミの後を治められたわけで。

また、実は祖母ギミもカコシマ生まれですし、母君もツクシのご縁を色濃く引いても居られます。



さて。

保守的で凡庸で、ちと頑固でもあられた兄ギミと違い、
ニニキネさんは進取の気概高く柔軟で、
治世の才能も、お人柄も素晴らしい名君であられました。


また側近にもクシヒコさん、アマノコヤネさんという当代切っての才能のある方々が、
しっかり補佐し、黄金のトライアングルともいうべき、
素晴らしいチームワークで事に当たっていました。

クシヒコ・アマノコヤネのお二人は、もともとは兄ギミの臣でありましたが、諫言して聞き入れられず、共に辞職なさっていたのです。そして、ニニキネさまが日月となられた時に、こちらにお仕えになられたのが真相です。


しかしまあ、このように、ご性格も運も異なるご兄弟でしたが、
仲は大変良く睦まじいものであったというのが、
何ともステキなお話だと思います。



で、兄ギミ「アスカノ ホノアカリ」さんは・・・

憚り多い話しながら、
失政もあったし、プライベートでも何かとゴタゴタが多く、御子にも恵まれていらっしゃいませんでした。

心配した重臣のカクヤマが娘「アメミチヒメ」に、
その兄タクリの御子を養子に付け入内させたのですが、
他のキサキに、御子の身分が低い(実家が臣)と蔑まれ憎まれて、
その独断でお二人を実家へ戻してしまったようです。

驚いたアマキミは、そのキサキとの縁をお切りになり、
再度二人を迎えられようとしますが、
母君は入内されたものの、ご養子はミヤへお還りになりませんでした。

これは、筋としては当然なのです。トミはキミにはなれないのですから。
ご実家ではそれに気がつかれ、有り難い仰せながら、
後のことも考えられて、畏れ多く固辞なされたのではないでしょうか。

それ故、崩御なされた後、弟ニニキネさんの孫のお1人、クニテルさんが
アマテルカミのお声がかりで、ご養子となり、

11代アマカミ「ニギハヤヒ」となられたのです。


Keizu_2tyotei_1


ところが、この方も世継ぎがお生まれにならず、
そんなこんなの結果、朝廷の重臣であった「ナガスネヒコ」が、
公に対し良からぬことをしでかすにいたりました。

他朝廷の神聖な「ヨツギフミ」の密かなる書き写し事件。
また、お上・ニギハヤヒもご存知ないうちに、
ナガスネヒコの専横と独断の振る舞いが世の乱れを引き起こし、
それらを他から糺されると、武力によって勝手に海上封鎖などを行い、
などと・・・騒動は大きくなり、ついにいわゆる「神武天皇東征」を引き起こしたのです。

イハワレヒコ(神武)はツクシのミヤザキミヤから、
これを収めるため出立されました。

しかし、早まったナガスネヒコが独断で始めた戦いは激しく、
イハワレヒコの3人の兄ギミも亡くなったのです・・・




すべてが明らかになった後、アマカミ「ニギハヤヒ」さんは責任を感じられて、
みずからナガスネヒコを罰せられ切られた後に、イハワレヒコに従われました。

ご本人は元がニニキネさんの孫なのですから、ひ孫に当たられるイハワレヒコさんにも、親しみを感じておられたと書かれています。
また「イハワレヒコ」も、クニテル・ニギハヤヒさんの「マメ」正直で誠実な心をしっかりと感じ取られました。

ですから、この事件は双方に本意ではなく、たいへん不運な出来事であったのです。

「ネンゴロオシル
 ニギハヤヒ ワガナガスネガ
 ウマレツキ アメツチワカヌ
 カタクナオ キリテモロヒキ
 マツロエバ キミハモトヨリ
 クニテルノ マメオウツシミ」   
(ホツマツタヱ 29−58より)


イハワレヒコの即位、カシハラミヤでの新朝廷開きの祀りに
ニギハヤヒさんの養子(たぶん)になった「ウマシマチ」が、
こちら方の十種神器を捧げ、キミの臣籍降下をヲヲヤケにしました。

ここに正式に2朝廷の時代が終わり、1つの朝廷となったのですね。

このウマシマチさん。
前述のご実家に帰られ、日月の御位を固辞された「タクラマロ」の御子なのです。
父方はホノアカリさんのキサキとなられた「アメミチヒメ」の血筋。
母上は、かのナガスネヒコの妹なのですけれど。

ナガスネもキミには、忠義をつくしたのでしょう。
それ故キミには、ナガスネを哀れと思われるお心があったのですね・・・

また、もはや日月という地位(皇位)とは関係なくなりましたので、
ご養子も可とされたのではないかと思います。

ニギハヤヒさんの御子としての名跡のもと、
このように新朝廷に始めから忠義を示されたため、

ウマシマチさんはモノべのカバネを頂戴し、

物部氏の祖となっていきました。

これは、大きな事でした。
激しい戦があり、こちらの皇子3人も身罷られたほどでしたが、
ニギハヤヒさん、ウマシマチさんの誠意ある行動に、
恨みも残さずきれいに治まったのです。


この方々の関係や、事件の真相は、

もちろん記紀に書かれてはおらず、

ただヲシテ文献だけが伝えています。  



お話は元に戻って。

さて、そもそもの、お人は良かった「アスカノヲキミ」ホノアカリさん。
ニニキネさんが、新しいニハリノミヤを建てられた時、
わざわざ一番の腹心の臣を遣わされて、心から祝って下さった優しい兄ギミ。

ニニキネさんが神器を受け全国を回られる時にも、
まず最初にこの兄ギミのアスカミヤを訪れ、喜んで頂いたようです。

・・・しかし後世、その弟ギミのお名の陰に隠れてしまわれました。

お気の毒なことに、そのお墓さえ、御陵などと呼べるものではなく、
人里離れた山の中、土を盛り墓石を建てただけです。
ただ、この形は本質的には伝統的な御陵とも言えないことはありません。

後世と違い、アマキミのお墓(御陵)も、このように質素なものでした。
名声の高かったお方は、すぐにカミヤシロができ、後世には立派な神社となっていきますが。

けれども「ホノアカリ」さんのお墓は、そのままにうち捨てられ、
ヲシテ文献が消された後、記録も残されなかったため、
漢字の誤訳も相まって、ご養子のお名と間違えられ、
「ニギハヤヒ」さんのお名が記されているのです。


文献に書かれた場所、お好きだった「シラニハヤマ」に今もなお、

アスカ ホノアカリのキミは安らかに鎮まっておられます。


Honoakari


私は結構この方が好きです。

キミとしての治世の才能はおありにならなかったけれど、
失敗も多かったし、頑固でもあられたけれど、
良い兄ギミであられました。

だれもが、弟ギミを褒め称えている時にも、
それなりに、ご自分ではベストを尽くされていたのだと思うのです。

だから、劣等感や嫉みなどというものには無縁でいらしたようです。

これって、大したことと思いませんか?

どうぞ、ホノアカリのキミのお墓の近くに行かれたならば、
お参りをなさって下さいませね?
奈良県生駒市内、白庭山中にあります。
けれども大変見つけにくく、徒歩で長時間さがす羽目になるかもですが・・・

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2013年12月 7日 (土)

カグノキ 「トコヨノハナ」

Sora_akebono

 

カグは別名タチハナ(橘)といわれ、建国のシンボルの木なのです。

 

「カグ」は初代アマカミ「クニトコタチ」が定めた
「トノヲシテ」の象徴でもある、最も尊い木、
そしてその花を「トコヨノハナ」と呼び、国花のようなものであったと思われます。

いうまでもなく「トコヨクニ」は我が国の初の国号です。
というノリ(憲法)で治まっている国、つまり立憲君主国だったのです。

ノリという言葉は通常は法と訳されますが、
この「ト」だけは、なにものにもまして貴く、
他のノリは変わることがあっても、
これだけはクニある限り、永遠に守るべきものでありました。

 

クニトコタチはアワウミ(琵琶湖)の辺にあったご自分と、

日月の皇子(位を継がれる皇子)「ヱのクニサツチ」のミヤ、

次の皇子、トのクニサツチのミヤ(東海)、

またタのクニサツチのミヤ(東北・ヒタカミ)とに、

それぞれカグを植えられて、モノザネ(象徴)となさいました。

どの国も「ト」の、

人を思いやる心「ミヤヒ(汝の幸せのために)」を忘れないように。

カグの花のように、

いつまでもその心が香り立ち、広がっていくように。


皇子は8人いらしたのですが、全国それぞれの地方に住み着かれました。
他に、中国ヘ行かれたという「カのクニサツチ」を加えた4人の皇子以外の、
ホ、ミ、ヒ、メの各皇子たちについては、
行き先やご業績なども記されておらず、残念ながら不明となっています。

しかし特筆すべきは、
この方たちが「クニカミ」の初めであったということです。

 

 

カグの花はウタにも詠まれています。

それはあの有名なお話、
八代アマカミ・アマテルさんがイワムロに隠れられたときでした。
記紀での、いわゆる「天照大神の岩戸かくれ」の事件です。

 

この「イワムロ」も、実は祓浄めた建物という意味にも訳すことができるのが、
最近になって分かってきました。
イワあるいはイハは、斎うという意味があります。
もちろん岩、磐という意味もあり、文脈から読み取るべきなのでしょう。

 

  ※ ヲシテ文献における「イワ」と「イハ」の使い分けについて、
    私なりに調べたのですが、よく分かりませんでした。

    そして漢字時代になるとイワはほとんど見られなくなり、
    言葉をイハと書くように変化しています。

    池田先生によれば、ヲシテ文書にも
    明らかなる使い分けが出来ていない字もあり、
    むしろ、その時代は音だけが大事であったのだろうと・・・

    「アハレ」は別の例ですが、アワレと書くことは後世の漢字時代にはありません。
    よって、哀れも、あ晴れ・あっぱれも、同じに「アハレ」と書いています。

    ヲシテ時代では、前者はアワレ(哀れ)、 
    後者はアハレ(あ晴れ)と厳格に書き分けています。
    このように、字の書き方などは、時代によっても変わっていくのですね?

    また、言葉自体が変わっていくことも、ヲシテ文書ではよくあることで、
    それによって、その事件などの年代を推定できるということでも、
    長い長い年月を経てきた文書であることが、証明されていると考えられます。
    なによりヲシテ文書は、それ以前のフミをまとめ書かれたものですから、
    先行文献の、成立年代による文言の差異は、大変自然なことと思います。

    例えば「アメミオヤをマツル」も、
    クニトコタチ時代には「アメとツチをマツル」
    つぎに「アメナナフシをマツル」となり、
    アメミオヤの語は、アマテルさん時代からなのですから。

 

イワムロは、私としては「斎い浄めた部屋」と考えています。

だって、事件が起こったのはイサワノミヤですし、
わざわざ山に登って岩屋にお入りになるというのも私には不自然な感じがするのです。
それに、深く悲しみ苦しまれた方が、
そういう、アマカミしか入れない聖なる部屋に篭られて、
心を鎮められることは、考えられないことではありません。

でも、側近の方々はまるで、やみ夜に閉ざされたような思いになられたことでしょう。
何日もお出ましにならないとあれば、政ごとも滞りますし、
なによりキミのお心を想うと、みな胸が痛むのです。

 

なにしろ気にかけておられた弟ギミ・ソサノヲさんのせいで、
妃のお1人が亡くなられたのですから。

弟ギミに対しては、怒りよりも哀れみ、
そして兄としての指導に足りない所があった・・・そのような自省の念。

しかし妃を死なせることになったのです。
上に立つものとしては、私情を捨てて裁かねばならないのです。
おそらく死刑にしなければならないと思われます。

また、心から愛しておられるウチミヤ・ホノコの可愛い妹でもある、妃・ハナコ
なんのトガもない素直なその方の死は・・・ただ、ただ、哀れと胸に迫ります。

アマテルキミのお苦しみは、それはそれは深かったと思われます。

Ho7_35

 

イワムロ(浄め払った建物)にお篭りになった、アマテルキミのお心を、
みんなでお慰めしようと、ヲモイカネ(アマテルの妹婿)が歌を作り、
舞いの名手ウスメたちが、葛をタスキにかけ、粽(チマキ)をホコに見立て、
病除けのオケラ火を焚いて場所を浄め、
サユリ(ささ百合)を活けて清らかに飾りました。

伝統のナガサキ(汝ガ幸キ)は、落ち込んだり悲しんでいる人を、
慰めたり励まそうと歌い踊られる、建国以来の神聖な踊りなのです。

ウスメたちの心を込めた舞いは美しく、
ワザオキ(専門の、この場合は歌い手)の歌とともに、活き活きと続きました。

 

Ho7_38

 

「愛しいお妃さまが亡くなられた。
 でも、彼女の麗しさは、
 カグノキのように、
 カミさまになられても、
 いつだって香ってくるのです・・・」

篭られた部屋の中で、悲しまれ悩まれていたアマテルキミは
この歌を耳にされ、かすかに微笑まれました。
皆の想いが通じたのですね・・・

そして、そっと戸のすき間から、外を窺われたところを、
タジカラヲが、一気に戸を開けてしまい、御手を取って、外へいざないます。

すかさずツワモノヌシが入口にしめ縄をかけ、封じ、
「もうムロへは、お還りになりませんよう・・・」と
想いを込めて心から、申し上げたのでした。

本当に胸を打つ・・・心の繋がりあう場面ではありませんか。

 

 

このように、建国以来のミヤビの踊り歌「ナガタ」は
ナガサキ(あなたの幸福)という名前で、長く歌い踊り継がれていたのです。

思えば太古の昔から、お祀りで諸人が集うときの踊りでした。
祖先の人々は、楽しいとき、悲しいとき、ことあるごとに、
集まった、いわば人との出会いの時には、この「ナガタ」
「あなたの幸せ・楽しみのために、何をしましょうか」
と、みな共に歌い、
舞い踊って心を繋げあってきたのです。  


もうひとつ、カグノキにまつわる家系があります。

アマテルカミのウチミヤ(今でいう皇居)に、サクラカグが献上され植えられました。
これが、今に伝わる左近の桜、右近の橘の源流なのです。

Tatibana_sakura

 

献上したのは、ヤマスミ・サクラウチさんです。(本貫地は富士の南山麓)
桜の木で夫婦の結びつき具合がわかり、またカグノキに異変が起こる時には、
政ごとに何かの不都合が起こっている・・・このようなことでした。

後に、このことはハッキリと証明されることとなります。

 

そのサクラウチさんの嗣子が「オオヤマスミ」
2人の妹ヒメは「アマテルカミ」のウチミヤ(この場合は皇后)ムカツヒメ・ホノコと、
同じく妃になり、ソサノヲさんの乱暴による事故で、亡くなったハナコです。

オモイカネさんは、ハナコさまのことをナガサキのウタで、
亡くなられても、想い出はカグの花のように香っていますよ・・・
と詠われたのですね。

ホノコさん、ハナコさんの兄であり、ヤマスミの嗣子であったオオヤマスミは、
後に相模平野の高台部を開墾し、シンボルとしてカグノキを植えました。

そして、ここを受け継いだのが、前エントリに出てくる末の御子「マウラ」さん。
以後代を継いで皆、タチハナノキミと呼ばれるようになったそうです。
そしてずっと後の子孫が、カグモトヒコさん・・・と、こうなります。    

Ho24_111_2

 

この地を偲ぶのが神奈川県厚木市の小野神社です。

祭神はヤマトタケさまなのですが、
明治以前は「閑香明神社」という名前で、祭神も違っていたとか。
けれど、まことカグノキの由緒にも、ふさわしい神社名だったとおもいます。

ですから古社はオオヤマスミ、マウラ、またこの系統の方々と、
もしかしたら、縁のあったヤマトタケさまも、共に祀っていたのかも知れませんね。

 

タケさまは「オノのモトヒコ」さんの城に先陣を置き、ヲトタチバナさんを預け、
反乱軍と戦われたということと、この神社の古名、場所は合致しています。

Ho39_21_1

 

ホツマクニの「カグモトヒコ」を味方に留めるために、
ヲトタチバナヒメ(モトヒコの孫で、ヤマトタケの妃)とホズミテシを、
またサクラネマシ(モトヒコ嫡男)を、先に実家へ使わしました。
そしていよいよ出陣なされたのです。

この作戦はうまく運び、
ヒタカミの敵方も
、なんとかモトヒコを味方へつけるべく招いたのですが、
首を縦に振らなかったと記されます。

そして

Ho39_22_4

相模の小野にあるモトヒコのミヤを本営となして、
(ホヅミ)テシ、(サクラネ)マシらの武将が、モトヒコと共に守りを固めた所へ、
エミシ(賊軍をいう。アイヌでは無い)が攻め上ってきて、取り囲みました。

この後は、ヤマトタケさまの奮戦になりますが、それはまた、後の機会に。


 

 

さて「カグ」は、最初に書いたように、橘・柑橘類だと思われますが、
クニトコタチが「カグ」を植えた東海にある美しい山を、
その時以来「カグヤマ」と呼ぶようになりました。
後の「ハラミヤマ」現代では「富士山」です。

ハラミヤマは、イサナミさまがこの山の上でミソギをなさり、
日嗣の誕生を祈り、そしてアマテルさまを孕まれた由来によるものです。

 

アマテルの孫、10代アマカミ・ホノアカリ(アスカオキミ)さんの時は、
もう山のお名前が「ハラミヤマ」と変わっていました。

そして、この方がアマカミの御位をお受けになり、
首都をアスカに移された時に、
そこのお山にも、懐かしく床しい古名を付けられたのですが、
それが今の「アメノカグヤマ・天香久山」です。

ホノアカリさんは伝統を重んじる方だったのでしょうね。
お名も「カグヤマオキミ」の別名があります。                                            

Mikan_hana_1
                                   ミカンの花

 

最後に。

「カグノキ」はどういう木であったか、未だに分かっていないそうです。

でも八代の「高田ミカン」という、小っちゃなミカンを思いだしました。
鹿児島でも同じ種の「コミカン」がありましたが、
他の地方では見つからないのではないかしら・・・
それとも八代のように、流通には乗らないで、地元の人だけが食べているのかな?
ピンポンボール位の大きさで、とにかく香り高く、甘いのです!

最近になって、同じ熊本県人吉の、山の中のある集落には、
この小ミカンの他に、原種に近いと思われる、
「カグ」と呼ばれるミカンがあるということを知りました☆

味はやはり、小ミカンよりは甘味も薄いそうですが・・・
今、なんとか苗木を取り寄せようと思っています。

イサナギ・イサナミも、全国を回り、行く先々でカグを植えられたそうですし、
イサナギの曾祖父さまは、ツクシ(九州)をまかされ治めていらしたので、
もちろん九州にもカグは植えられたと私は思っています。


【おまけの追記】

本日(6/17)になって、
熊本県八代市高田のコミカンはたいそう由緒が古いものだという記事を見つけました。
伝説にはなんと、タジマモリさんが出てきたりして?!

まあ、記紀以後の記録を元にしていますので、
タジマモリさんの話は創作でも、
もっと優れた品種が後に伝わったということは、うなずけます。

研究所の見解では、ヲシテに書いてある「カグ」「タチバナ」は日本固有のもので、
柑橘類としても極めて耐寒性に富むものであったろう・・・
すなわち、いわゆるミカンとは違うのではないかということでした。

記紀においてさえ、不充分な記述ですが、
タジマモリさんより遥か古の古来のものとして書かれています。

【伝説、伝承】

田道間守(タジマモリ)の“橘”導入伝説は景行天皇(西暦71年即位)の時代であるが、
それ以前の神代に「橘」の存する記述がある。
それは記・記すなわち、古事記神代記上巻、又日本書記巻之一である。
      

さて、伝説というのは、全国に似たような話が多いのであるが、
和歌山の蜜柑栽培史に大きな影響の出てくる熊本県八代市のみかん伝来を調べてみると、
八代においても「田道間守伝説」がある。

経緯は和歌山と同じであるが、田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、
その皇子、景行天皇(西暦71年即位)に苦労して手に入れた橘を献上しようと、
当時都から御征西中の天皇をはるばる肥後の国まで訪ね、
高田(八代市こうだ)付近でようやく巡り会って、「橘」を献上後自決した。
景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた「橘」を植えられた。

この橘が後年、
有田市糸我の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん(小ミカン)」であるとされている。

【八代にもたらされた橘の正体は】
紀州蜜柑は肥後八代蜜柑との関連を抜きには語れない。
では八代高田(こうだ)にもたらされたのはどんな柑橘であったのであろうか。
とにかく、日本にはなかった柑橘が中国には多種多様にあり、
朝鮮半島との交流の地の利は九州の西部にあり、遣隋使・遣唐使の発着場も同地方である。
みかん栽培について、今、大方の意見としては、
柑橘導入、育成失敗を繰り返しながらも“ある規模で栽培”されだしたのは、
”肥後の国八代郡高田村(現八代市)”であったと考えられている。

その品種は中国の浙江省から伝来した「小ミカン」である
昭和12年6月に、樹齢800年のコミカンの古木が大分県津久見市青江にて現認され、
文部大臣から天然記念物に指定されている。また、鹿児島県肝属郡にも同様の古木があったという。
ということから推測すると、小ミカンは12〜13世紀には肥後八代を中心に鹿児島・大分等で栽培が広まったと思われる。

http://www.mikan.gr.jp/report/kigen/page2.html

 

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2010年4月18日 (日)

日本建国 「クニトコタチ」のころ (1) 改訂2010

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初代アマカミ「クニトコタチ」さまは、どんなお方だったのでしょう。


ヲシテ文書から浮んでくるお姿は、

感性豊かに物事を良く観察し、考察し、

創意工夫も優れた方だったように見受けられます。


その上、リーダーとして人に慕われる方。

私ごころが無く、

自ら実践して良い結果が出ると、

どんな人にも惜しげなく技術を伝え、得たものを与え、

人の幸せをわが事のように喜ぶお方です。

また、先を見通すお力も大したものであったようです。


なんだか・・・書いていて、表現する言葉が見つからないのです・・・汗)

クニトコタチさまに申し訳ないと思いながらも、

つたない言葉でも、お許し戴ける・・・

私などは、つい、そのように思ってしまうくらい、

ふところ深く、心豊かで偉大なお方であったと感じております。



もちろんクニトコタチさまの時代は、

ヲシテが書かれた時代より、

はるかに、はるかに、

7千年以上も・・・大昔のことです。

そう。

「これは我が国の伝承の時代」

と言っても良いのでしょう。


そして時は流れ、流れて・・・6千年ほど後。

いままで安定していた気候が、急変します。


そして、

タカミムスヒ5代目・トヨケさんのお若い頃からは、

社会状況も悪くなっていくばかりとなりました。


寒冷化、農作物の減収、貧富の差。

そして悪行に走る人々。


このような困難を打破して悪を正し、

新しい明るい国を作り上げ、平和に治めていくには、

国の根本理念とは何か、因って立つべきものは何かと、

昔からの伝承をふりかえり、

深い考察を重ね、問い続けて、

それを明らかにすることが必要となります。


その根本こそが「トノヲシテ」



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アマカミは「ト」という字の形そのものに、

ハニ(国土)をあらわす□の中に真直ぐに立ち、

両手を高くアメに向かって広げ、

宇宙原理のもとに・・・大自然の恵みを受け、

それを惜しみなく皆に、分け与え続ける人なのです。


恵みを分け頂いた人々は、なんと有り難いことと、感謝の念から、

ますますアマカミを助けて働きました。

それが各自の幸せにも、確実に繋がっていくのが判っていましたから。



クニトコタチさまの建国。

それから続く、ミホカミ・・・古(いにしえ)の3世代・・・は、

まず安定した食を得て暮らすことも、

知恵と工夫の必要な時代でもあったと思われます。


現代でも判るように、

温暖化の途中では、

環境条件がどんどん変わり、

それに対応しなければなりません。


だから、先を見通し考えて工夫しないと、

暮らしが成り立たなくなります。

それでも、ご先祖の方々は、

アマカミを中心に「トノヲシテ」の元に、

心を一つにして、助け合っていかれました。

みんなで幸せな国をつくろうと、希望に満ちて働き続けたのです。





そのような建国の「クニトコタチ」さまのお姿を想い、

トヨケさんや、アマテルカミの尊敬の念は篤く、

あの御世のように「すべてのタミと心一つに」との、

理想への憧れも強かったのだと思われます。


そして遥か昔の御世のことを・・・

わがクニに残る「すべての伝承」を整理して、

何一つもらさぬように、フミに「ソメられた」のです。

(古代は紙ではなく、布のようなものに染めて、ヲシテを記したのかもしれません)



しかし、とても不思議なのは、

どの民族もこのような太古の昔を、神話の形で表しているようですが、

我が国の場合は少しく違い、あくまで人である祖先のお方。

「生きていらした人が為された物事」というニュアンスで書かれているのが特徴です。

いって見れば実際的。現実主義。

作り話、ファンタジーなどは好まれなかったようです。


それは、もしかしたら我が国が地球上では特異的に、

風土が穏やかで、豊かだったことから来ているのかも知れません。

建国期はちょうど温暖化の途中であり、

その後安定した温かい時期(ヒプシサーマル)が数千年にわたり続いたのです。


また列島の形も南北に細長かったので、様々な多様性にも恵まれていましたしね?

台風や地震、火山の噴火などはあっても、

海に囲まれていることから、

異民族の暴力的な侵攻からは守られ、

皆で協力すればなんとか生きていけるような、地理的環境です。


ファンタジーや、奇跡に頼らなくても、

夢を持つことが出来たのではないでしょうか。

そう、努力すれば報われる。


基本的にはそのような風土であったと思います。

その故に死生観なども大変明るく、

この世で生きていくことは大変楽しいことなので、

死んでタマとなり、アモト(大宇宙の中心)へ還っても、

また、なるべく早くこの世に戻って、

コダネに宿り、肉体を得て、

新しい生を楽しみたいというものでした。

これを「ユキキノミチ」と言います。


このように明るい思想を産み出したこの風土は、

いつ頃からこのように成ったのでしょうか?


Yama_kumo


  日本列島の気候は15000年前以降、世界に先駆けて、

  大陸型の気候から海洋型の気候へと移行し、

  日本列島の北緯40度(秋田県八郎潟、また岩手県八幡平付近)以南の、

  多雪地帯を中心として、ブナやナラ類の温帯の落葉広葉樹林が拡大した。

  この温帯の落葉広葉樹の森の中で、

  最古の土器を持った縄文時代草創期の人々が生活を開始した。

                          ・・・(中略)・・・



  福井県鳥浜貝塚の発掘調査によると、

  縄文時代草創期の隆起線文土器を携えた人々が

  14500年前頃から居住したことが明らかになった。

  花粉分析によると、その周辺は、うっそうとしたブナとナラの深い森であり、

  人々は三方湖でヒシの実や魚介類を採集し、

  ドングリやクルミなどの堅果類を採集し、

  イノシシやシカなどの森の動物を狩りしていたことも明らかになった。

                      『稲作漁労文明』 安田喜憲 著  雄山閣 より



もちろん日本建国より遥かに昔のことです。

「当時の」日本列島の人々は、

大陸伝いにやってきて住み着いた人たちで、

現在の研究によると、

大陸の北、あるいは華北(黄河のあたり)からやってきた、

モンゴロイドという説が有力になっています。


この人たちは、全国にほぼ均等に住み着いていたと思われ、

石器時代および縄文時代の全遺跡を丁寧に調べ、

人数を推定した小山修三教授によれば、およそ3000人ほどであったそうな・・・



そして13000年前。

今では「バイカル湖人」とも呼ばれる人々が、

大波のように何度も何度も、樺太方面から押しよせてくるのです。

その数、推定7000人!

そう、今まで住んでいた人々の2倍以上の人々。

しかも北方系の故か、暖かすぎる(!?)西日本には行かずに、

東日本・・・琵琶湖の辺りまでに留まるのです!


東日本の人々は1500人あまりでしたから、

5人のうち4人は、この移住してきたバイカル湖人になりました。


この人たちがやってきたのは、

もちろん安田教授の言われる15000年前より後の気候大変動によります。


彼らは、ビッグハンターと呼ばれていたような人たちの裔で、

鋭い刃を何度でも取り替えて使えるという(当時の最新ハイテク器!)

細石刃石器を携えて、大型動物を狩る人々でした。

マンモスステップの消滅の後に、獲物を求めて移動してきたのです。


ところが・・・

やっとたどり着いた日本列島も、彼らの土地と同じ状況で、

草原はなく、深い森が広がり、追い求める大型動物の姿もありません。


飢えに苦しんだ人々は、やむなく、

食料獲得の手段を変えざるを得ませんでした!


森の生活に慣れている土地の人のように、

定住し、土器を作り、木の実を集め、魚や小動物を捕るような暮らし。


けれども、東日本では5倍以上に急増した人口と、

その後も安定しない寒暖の激しい気候によって、

飢えに瀕することも、まま有ったのではないでしょうか。



この困難を解決なさったのが、

後に「クニトコタチ」と呼ばれた方であったと思われます。

時は1万年前。

縄文時代早期末にあたります。


  ちなみに、安田教授は色々な民族の歴史を検証なさって、

  「気候の変動による人々の移動、

   それに伴う、異文化との接触と、

   人口圧の高い中に、

   非常なる困難が生まれたときにこそ、

   必要な新しい技術や文化が生まれ進歩する」

  という意味のことを、繰り返し述べておられます。




さて、いろいろな資料を総合して、

当時の地図と、人口増減の図を作成してみました。


※ このサイトでの年代は、ほぼ実年と思われる「較正年」を使用しております。

Bc10000_2


Photo_3


Photo_4


さて、

クニトコタチさまの日本建国の時期(1万年前頃)を

上記グラフにて、ご覧下さい。 

変動を繰り返していた気温も、

以後はゆっくりと安定して上昇しています。


そして建国後の縄文前期になると、

東日本で人口が4倍以上、

西日本でも2倍以上に増えているのは、

「飢えなくなったため」ではないでしょうか。



ちなみに、この時代の食の特徴なのですが、

木の実や魚や貝、ときには肉や海草などを、

土器の中で「ごった煮」にして柔らかくし、

芳醇な味を楽しんだり、

燻製の魚や肉を作ったり、

後に縄文クッキーといわれるような、

保存食・携帯食(?)まで生まれました☆



こうして、クニトコタチさまの、

栗を中心とする新しい堅果栽培技術が基になり、

しっかりした快適な住居も得て、

豊かな森や川や海の恵みを活かしつつ、

東日本の人口は、縄文期の中期まで増加し続けることとなります。


西日本との人口差が、異常とも思えるほどに大きくなったのは、

安定し、これから豊かに発展・・・という7300年前(前期終わり頃)に、

鬼界カルデラの大爆発という災害が起こった為ではないでしょうか?


九州では、北の一部を除いて、総てが壊滅状態になり、

四国、中国地方でも火山灰の影響は大きいものでした。

そして、その後の土地は痩せてしまい、

特に九州では、極めて生産性が低かったことがあると思います。




さて、皆さまもよくご存知の三内丸山の最盛期は中期(5000年前頃)であり、

気候が寒冷化し、突如放棄されるのは4000年前、

すなわち中期の最末期に入ってからなのです。


そして、この新たなる寒冷化という気候変動から、

東日本の人口は激減・・・つまり大勢が飢餓により死亡したと思われ、

その為に「始めて」

より温暖な西日本への大移動が起こっていきます。



トヨケさん、イサナギさま、アマテルキミの時代は、

晩期の、

さらに寒冷化が進んだ3000年前頃と思われます。



                                   (続く)

 

(旧版 06/01/08)



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2010年4月 2日 (金)

ウケモチさんの稲はどこから? (3)  改訂2010

 Photo_5
ウケモチ ガ ハツキ ハツヒ ニ ナル ハツホ   トヨクンヌシ ニ タテマツル  (ホツマツタヱ 15−22)

 


建国の後。

 

クニトコタチさまのヤクタリコ(沢山の皇子)は、

ヤモ(国のあらゆる方面)に遣わされ、

そこに住みついてヲシエを伝えて行かれました。


    ※ ヲシテに書かれる8人とか8つの方向という「8」の数字は

      「すべて」という象徴的な意味を持っていることも覚えていて下さいね?


そのお1人が、カの季節の方向・・・西の方面に行かれた、

カの「クニサツチ」なのです。


ちょっと判りにくいのですが、ここで整理いたしましょう。

方向は中央のヲを起点としてキツサネ(東西南北)

それに対応した季節は、4人の代表的な皇子の名を付けられました。


東(キ)=春(タ)

西(ツ)=秋(カ)

南(サ)=夏(ト)

北(ネ)=冬(ヱ)


そして皇子たちは各地方のヤモヌシ(地方のヌシ)と、なられたのです。

後には、クニキミ、またクニカミと呼ばれる御身分です。

・・・この、地方のクニはまた、「カタ」「ガタ」ともいわれて、

さらには、

「アガタ」というコトハに転じていったようです。

181213_6
 

クニトコタチ モ

ノリメクリ クコ ワ ニ

ヤモ オ ナニガタ ト

ウム クニ スヘテ

オノコロ ソ



クニトコタチさまのノリ(法)は周り中に広がっていき、

法(トノヲシテ)により、しっかりとまとまった(クコ)地方(ワ)が、

たくさん生まれました。


    ※ 「ノリメクリ」は又、掛詞になっていて「乗り巡り」とも解され、

      おそらく馬に乗って各地を回られたと思います。


その地方のクニは、「〜ガタ」という名で呼ばれます。


クニトコタチさまが治められたことで、

クニすべてが「オノコロ」という、

恵みあふれる、なごやかで平和な状態に、

まとまって行ったのです。


このオノコロは、とても大事なコトハとして、

文献中に、しばしば使われております。

Photo_3

ウケステメ(ニシノハハカミ)さんの祖先である、

アカカタノ トヨクンヌは、

カノ クニサツチの次の、

3世代目の「クニキミ」に当たります。

Photo_5

 

   文献初出の個所の「アカカタ」では、

   「ア」がアメミヲヤを表す異字体で記され、

   「カ」は西、「カタ」は国、

   また「アカ」は、明るいという意味でもありますので、

   「恵み多く明るい西の国の」トヨクンヌ

   ということだと思います。

 




さて私は、この頃を紀元前8000年頃と推定しています。

前述の縄文時代海上交流ルートから見ると、

カのクチサツチさまは、

文化の古い長江の方に渡られたのかな?・・・と。


環境考古学の安田教授によれば、

石器時代から栄えていたのは、長江の中流に点々と位置する広い盆地群であり、

近くに、洞庭湖平原や江漢平原といわれる宏大な谷底地平原もありました。

そこには多くの人々が集まって暮らしていたのです。

そして、稲(熱帯ジャポニカ)の粗放栽培なども、

細々とながら始まっていたようです。


なにより興味深いのは、この洞庭湖の西岸には、

長江の運ぶ豊かな土の堆積のおかげか、

中国には珍しいと思われる黒土の平原があることです!

クロソノツミ(肥えて豊かな黒い土)と関係があるのでしょうか?


    ウケモチさんの稲はどこから?(2)の中程、クロソノツミの図解


そして数千年後には、

ここに中国最古の都市型集落(城頭山遺跡)が形成されます。


   栽培種の稲の起源は、長江中流域と思われる。

   中国湖南省玉蟾岩遺跡の洞窟の中では、

   紀元前1万2千年前と推定される籾が発掘された。

   これは今までで一番古い籾である。

   よって、この辺が栽培種の稲の起源である可能性は高い。


   ・・・確実に稲作が行われていたと確認が出来るのは、

   炭化米の年代から、紀元前6500年である。   (安田喜憲)


熱帯ジャポニカの栽培は、その後、数百年かかって、

中流から下流地域へと広がっていきました。

その下流の「河姆渡」では、

その後の気候悪化で、さらなる籾の改良が行われたらしく、

水田用の温帯ジャポニカは、ここで誕生しました。

その最古の水田耕作跡は紀元前5300年頃だということです。




ウケモチさんの稲籾はどこから?(1)で述べたように、

日本列島最古の稲のプラントオパールは、

島根県板屋Ⅲ遺跡の、

紀元前5300年の地層の下からも発見されていますが、

この熱帯ジャポニカの籾は、

それより少し前に、長江の河口にある河姆渡から、

直接、海上交易ルートにより、持ち込まれたのではないかと思われます。


また、岡山県にある彦崎貝塚の縄文時代前期の地層(紀元前4000年頃)から、

イネのプラントオパールが、まとまって数千粒も見つかったことは、

その後の稲栽培の広がりを証明したとも言えるでしょう。


とはいえ、佐藤・安田両教授のそれぞれの研究によれば、

我が国の稲栽培は、数千年もかかる大変ゆっくりした広まり方でした。

その理由としては、

ちょうどヒプシサーマルと呼ばれる安定した温暖期が続き、

特に日本の東部地方は、海の幸・山の幸もひときわ豊かであったのです。

食料は豊富で満ち足りていたのですから、

お米のように良い、美味しいものであっても、

手間ひまのかかる作物は栽培され難かったとのこと。


おそらく、年に数度の祭の時に捧げられ

食される程度であったのではないかと、いうことでした。

(彦崎貝塚の数千粒のプラントオパールも、

 祭祀のために集められ捧げられたもののようです)



ウケモチ ガ ハツキ ハツヒニ

ナル ハツホ トヨクンヌシニ

タテマツル キミハ カシキノ

ユフ ニキテ アメナカフシノ

カミ マツル ソロノ ホツミノ

ミケモ マタ ウスツキ シラケ

ハツヒニハ カヰト シルトソ      ホツマツタヱ 15−22より


ウケモチさんが育てた稲は、

8月1日に収穫祭を行うほどに実ったといいます。

それでその貴重 なお米を、

当時の3世代目のアマカミ「トヨクンヌ」さまに捧げました。

キミはユフ(コウゾのような木の皮を紡いで織った布)を、

カ・シ・キ(赤・白・黄)に染めた幣で

「アメナカフシ」を祀り、

その初日には、米を臼で搗いて精米(ウス ツキ シラゲ)して、

粥と重湯(カヰとシル)を作り、供え物となさいました。


ずっと後世のアマテルカミも、

「昔は年に1度しか米を食べなかった・・・」というお話をなさっています。

しかし皆健康で、長寿であったということなのです。

Photo


それが劇的な変化を見せるのが、

紀元前1000年頃の気候変動に伴う食糧不足 ・・・

                                              (安田喜憲)

  

なんとこれは、

6代アマカミ・オモタルさまの時代では?


その危機をのりきるために、

イサナギ・イサナミさまも、アマテルカミも、

続くアマキミ方も、

タミの為と、一心に、

お働きなされたのですね。


安田教授によると、大陸では、それより以前から気候寒冷・乾燥化によって、

食料不足の畑作牧畜の民が、大規模な南下を始め、

長江流域で栄えていた稲作・漁労の民は、

しだいに山地や僻地に追いやられていきます。

その一部は同じ稲作・漁労の人々の住む、

朝鮮半島沿岸や、日本列島にも移り住んでいったそうです。


                    → 寒冷化による大陸の民族移動図




以上さまざまな考察を致してきましたが、

特に環境考古学と照らし合わせることによって、

ヲシテの記述が次々と検証されるのは、

とても素晴らしいことと、喜んでおります。

・・・・ただ・・・勉強が大変ですが・・・汗)


それとともに、現在の私たちが考える国というものと、

当時の「クニ」という概念は、

どうも違っているのではないかと感じました。


なにより「キミ」という無私のお心を持つリーダーを戴いて、

「トノヲシテ」のもと、

「オノコロ」と纏まっていったのが、

私たちの日本(ヒノモトのクニ)なのですから。


カミノヨ(祖先の世)は特に、

人種もいろいろ、出自もいろいろ。

ミヤヒ(思いやりあう)の心で、助け合うのであれば、

何処の人であっても出入り自由と、

クニは開かれていたのですね・・・



だからこそ、

発音しやすいシンプルな5つの母音で、

まず「ヲシテ」が作られた。

次にその字を使って、

コトハ・・・誰にでも解りやすい合理的な言語・・・を、

作り上げたのです。


それは、建国にあたり、

クニトコタチさまと、その周囲の方々の、

最初のお仕事ではなかったでしょうか。



最後に紀元前2世紀より前(もちろんヲシテ時代)の、

発掘された温帯ジャポニカの籾の遺伝子図をご覧下さい。

そのうち1種類は、長江から直接渡来したことが解ります。

Photo_13


ウケモチさんの籾(熱帯ジャポニカ)も、

イサナギさまが水田に播かれた籾(温帯ジャポニカ)も、

やはり、ご縁の深い長江河口付近から、

直接、持ち込まれたのではないでしょうか。


(旧版 06/07/17)



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2010年3月12日 (金)

ウケモチさんの稲はどこから? (2) ニシノハハカミ 改訂2010

Photo_3

ミチミ ノ モモ オ タマワレ ハ

ハナミ ノ モモ ハ マレナリ ト

クニツト ニ ナス       (ホツマツタヱ 24−25)


さて、ヲシテ文献を調べてみましょう。


アマテルさまが皆に長寿のための食を説かれた、つまりはお講義なのですが、

以前に伯母ギミにあたられるココリヒメ(シラヤマヒメ)から、

聞いたという実例をあげて、丁寧に説明しておられます。


そしてこれは同時に、

建国すぐからの大陸との直接の行き来について語られている、

きわめて貴重な記録となっています。


大陸との交流というならば、

すぐに渡来人、(あるいは難民)という答えしか思い浮かばない方も多いのですが、

クニトコタチさま以後、つまり縄文時代になると、

こちらからも大陸に渡って行ったことが明確に記されています。


次に上げるヲシテ原文からは、その初期の記録と、

はるか後世のトヨケカミの頃に、中国から、

我が国ゆかりの方が「留学」のため来日されたということが分かります。

これは国史としての記録ですので、ヲヲヤケにかかわる方の話ですが、

そのような行き来は一般人も、古来から自由にやっていたようです。


    ※ 前エントリ一番下にある「古代文明・海上交易ルート図」参照のこと。

15413

 

クニトコタチさまの8人の皇子のひとり、

「カのクニサツチ」は、西の国、中国にわたって行きました。


 クロソノツミは、安聰漢訳では(つまり中国語では)

「玄圃積国」そしてまた「元本當珂故 名赤懸神州以」とあります。

 

赤懸神州とあるのがアカカタで、

そこに住み着いたのがクニサツチの次の世代である、

「アカカタのトヨクンヌ」なのだそうです。

そしてクロソノツミというクニを世々に渡って治めていました。

そして長い長い、何千年もの時がたつうちに、

伝えられた一番大事な「トのヲシテ」の精神も忘れられて行きました。


司馬遷の『史記』の中に「神州赤県」という言葉があります。

時代は紀元前100年頃でしょうか。

また唐の時代にインドに行った求法僧、義浄の『南海寄歸内法傳』の中に、

「神州赤縣之郷」という言葉が、記されていますが、

これは後代の西暦700年頃であるということです。

そして、いずれも「中国」を指す普通の言葉であるとのことです。


また漢字熟語には、玄圃積玉 (げんぽせきぎょく)があり、

詩文の美しいことの例えで、

古の玄圃国の美しく貴い玉石から由来しているようです。


下の図象で、漢語「玄圃国」で表された「クロソノツミ」の本当の意味が判ります。

一口に言うならば「土の豊かに肥えた国」さらに「コロヒンキミ」の皇子「クロソノツモル」も、

「土を豊かにする方」という意味になるのです。

Photo


そして中国においては、玄圃は崑崙山上にあるといわれる仙人の居所・・・

次の文に出てくる言葉、コロヒンが崑崙を指すようです。

そうすると、崑崙にある玄圃国だということになりますね。


中国では実際に崑崙山脈があります。

しかし文に書かれる崑崙山、そこにある玄圃国は現実のものではなく、

神話として「神仙の住む国」ということなのです。

出典は『山海経』や『淮南子』他の中にあり、

中国の周から前漢の時代(紀元前300年〜150年頃)に書かれたといわれます。


もっとも「山海経」の一番古い(紀元前1000年頃成立と思われる)部分は、

当時の大陸の土着信仰そのままに、

疫病や死生を司るという奇怪で恐ろしげな神仙の住むところのようになっていますが、

漢の時代に移ってから「道を教える国」ということになり、

そして時代が下り、道教の発展につれて、下にご紹介するように、

美しい不思議な神話に変わっていくのです。

 

・・・そこは樹木が茂り池が水をたたえる園庭が広がり、

多くの仙人が住むという美しい神の世界で、

穆王や東王父が訪れたとされる。

さらに崑崙が世界の中心にあって、頂上で北極星や北斗七星と繋がっており、

星々を回転させているともされていたようだ。

おそらく月神としての西王母との関連からだろう。

                          → 崑崙


ヲシテでのコロヒン(崑崙?)をご覧下さい。

空想や神話ではなく

「アメの恵み豊かに(作物にも人にも良い)生命あふれる土地」を意味しています!


Photo_2

 

154344


祖先の尊い精神的な伝統が消えてしまった。

それを憂いたのが、トヨクンヌの遠い子孫に当たるウケステメです。

何と来日して、

当時ネノクニの近くで一帯を治めていたタマキネ(トヨケ)さまに、

教えを請うたといいます。


これはトヨケカミの晩年に当たるのですが、紀元前1000年頃と思われ、

興味深いところですね。

 

その熱心さと誠実にうたれたトヨケさまは、

ココリヒメ(シラヤマヒメ)と姉妹の契りを結ばせました。

「ヤマノミチノク」を授けられて帰国後、

ウケステメはコロヒンキミ(崑崙王)と結ばれ、

クロソノツモル(玄圃積王)を産んで、

ニシノハハカミ(西王之母)となったそうな。


ヤマは大事なこと、重要なことという意味にも取れますが、

ヤマトの略形かも知れません。

ミチノクは、ミチの奥義ではないでしょうか。

とすれば、当然「トノヲシテ」を深く学んで、奥義に達したということになります。

 



そして、これらの記述の内容から、

紀元前1000年頃という年代推定が出来ますが、

後の中国神話の元になっている可能性も、

充分考えられるのです!


つまり彼の国での神仙思想(道教など)の根っこは、

大陸に我が国から伝わった、トノヲシテと縄文哲学や文化であり、

1度廃れてしまったその思想を、紀元前1000年頃に、

再び復活させたのが、ウケステメさんこと「ニシノハハカミ」

そしてそれが、あまりにも素晴らしかったために、

国亡き後も、この世にはない理想郷として神話となった・・・

 

このウケステメさんは、たいそう長命だったようで、

再来日していますが、最後に来た時(たぶん3回目)には、

ニニキネさんにもお会いになり、土産にミチミノモモ(三千壽桃)を賜っています。

トップの画像の原文がその個所です。

3千も実をつける・・・つまり、とても実の多くなる桃なのですね。

コロヒンでは、花もいっぱい咲いて、実もいっぱい付ける桃は、

めったにありませんと、ウケステメさんも喜ばれたようです。


  ※ 余談ですが、西王母と桃は、

    前記の『淮南子』が初出で、年代は紀元前120年頃でしょうか。

    漢の武帝が西王母を訪ね、一緒に桃を食べた・・・というお話。

    (ヲシテが書かれたのは紀元前600年頃、4百年以上も前なのです)


    この後になると「3千年に1回花が咲いて実を付ける桃」

    「不老長寿の仙桃」になっていきます。


    ずうっと後世の、17世紀になってからの伝奇小説『西遊記』には、

    「孫悟空が西王母の桃を盗み出して大騒ぎになる」

    といったエピソードまで加わっていきます。

    この小説では、西王母の桃園には

    「3千年に1度実り、仙人になれる桃」

    「6千年に1度実り、不老長寿になる桃」

    「9千年に1度実り、天地のあらん限り生きられる桃」

    の3種類があるんですって!

    また西王母の誕生日が、なんと3月3日とは・・・笑)

 

 


ウケステメさんの最後の来日は、すでに、80才近くになっていたと思われます!

でもね、不思議な話ではないのです。

我が国は古きより、長寿のクニとして有名だったからで、

それは独特の、肉を食べないという食文化が影響しています。

ウケステメさんは、それもしっかり学ばれていたのですから。


以下は再来日した時のお話で、

自分の国では、 なかなか食養生が理解されないと嘆かれているのですね・・・

 

15456


我が故郷のコロ(ヒン)の人たちは愚かで、

シシ(獣肉)を好み、そのためにせいぜい百歳、二百歳くらいで、

ハヤカレ(早世)してしまいます。

命に千年、万年を望んでいても、日々肉を食べているのですから。


シナキミも長命を保つという「チヨミグサ」を尋ねて来られました。

・・・(しかし、獣肉を食べ続けていて、そう望んでも無理なことです)

と、ウケステメさんは嘆きました。

 

長寿のための食養生は、はるか建国期の昔、トノクニサツチに始まっています。

ハッキリとした獣肉の禁止が定められたのは、

食生活が豊かになった頃、アマテルカミがタミの長寿を願ってのことでした。

そして、みずから苦い「チヨミグサ」を常食なさり、大変長生きをなさったのです。

この教えは、

詳しく読むならば、ビックリするくらい科学的で行き届いた養生論となっています。

 

さて。


ヲシテに書いてあるコロヒン(クニ)の場所を特定することは難しいです。

地名や国名からは「恵み多く生命にあふれた、土の豊かなところ」ですが、

ウケステメさんが語ったところでは、険しい山々が多い国でもあるそうです。

・・・なんだか、長江の中流付近をイメージしてしまいますね?


     追記(4.6.2010)

                   安田善憲教授『稲作漁労文明』によると、

         長江の中流には、点々と位置する広い盆地群があり、

         石器時代から栄えていたそうです。

         そのうちの1つ洞庭湖の西岸は黄土ではなく、

         黒土の谷底平原が広がっているとのこと。

         「クロソノツミ」には当てはまっているのですが、

         もしかすると・・・?


「ミチミノモモ」のエピソードと共に、

興味のお有りになる方は、こちらに原文を用意しました。

最後の来日の時の記述です。

                   原文は  こちら

 

  ※ 「シナキミ」のコトハですが、本来、Cinaの音源はサンスクリット

    (紀元前1500年頃からインドで成立した言語)にあります。


    ちなみに、

    文化人類学の姜 波教授によれば、この言葉には諸説があるそうです。

    通常に知られている、古代インド人の秦・漢時代の中国に対する呼称である他に、

    サンスクリットでの「辺ぴで遠いところ」を示す言葉でもありました。


    また、Cinaはチャン(羌)族のことも指すそうです。

    羌族はすでに周の時代(前1027〜前256年)には

    黄河中流域に広く住み着いていました。

    歴史的には、商王朝(前1500年頃から)時代の殷時代・甲骨文字の資料に

    記載された遊牧民“先”の末裔と考えられています。


    このホツマツタヱ前半にある記述は、クシミカタマさんのお手によるもので、

    それまでの多くの文書や伝承を取りまとめ、書かれたのが、

    紀元前600年頃のイハワレヒコ(神武)さまの御世なのです。


 


 中国神話の西王母 

Photo_4


西王母は、中国古代の仙女。

崑崙山或いは群玉山に住む神仙といわれ、

仙女の世界の女王的存在として長く民間で信仰された。

「金母元君」、「瑶地金母」、「九霊太妙亀山金母」、

「太霊九光亀台金母」などの別名がある。

男の神仙と東方を治める東王父に対し、

女の神仙と西方を治めるのでこう呼ばれる。


「山海経」の「西山経」(紀元前1000年頃成立)によれば、

玉山に住み人面で虎歯、豹尾を持ち蓬髪(おどろがみ)といった恐ろしい姿で、

天の災いと五残(罪人に対する処罰法のこと)を司るとある。


しかし次第に美化されて「淮南子」の「覧冥訓」(紀元前120年頃)では、

不死の薬(三千年の桃)をもった絶世の美女とされる。

またさらに周の穆王が西征してともに瑶池で遊んだといい、

(「列子」の「周穆王」「穆天子伝」)、

長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、

漢代には西王母信仰が広く行われた。


  ※ ヲシテ文献中、このアヤ(文)成立は紀元前600年頃。



        

最後に「ウケステメ」さんの御名が、どんなに素晴らしいか、

ヲシテ図象によってご覧下さい。


Photo_3

                             (続く)

☆おまけ☆   中国現代画 偉大なる「西王母」

(旧版 06/07/17)

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2010年3月 5日 (金)

ウケモチさんの籾はどこから? (1) 改訂2010

Tanbo_hana

 

前にも種モミの発見者で、

稲の栽培をはじめたという「ウケモチ」さんのことを書きましたが、

もう一度違った視線で考察を加えてみようと思います。

 

我が国で稲の栽培が始まったのは、最近の発掘調査を元にした考古学研究によれば、

紀元前5千年より前ではないかと推定されるようになりました。

つまり、今から7千年以上も昔のことになるのです。

 

現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、

縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされているが、

水田栽培以外の稲作であれば、縄文時代前期にはその痕跡が残っている。

つまり、縄文時代の地層から、

稲のプラントオパールが続々と検出されるようになった。


プラントオパールとは、

植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が

地中に残ったもののことで、

このプラントオパールにより、

過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。


最も古いプラントオパールというと、

岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されている。

これらをもとに、近年ようやく、縄文時代にも稲作があったということが

考古学界でも認められるようになった。

        (総合地球環境学研究所 佐藤洋一郎教授) 2001年9月対談

 


その後のこと。



中国山地の奥深くにある島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡からは、

なんと7000年以上も前の地層から、ヒョウタンとキビに混じって、

稲のプラントオパールが検出されたのです。


これは縄文早期にあたり、アカホヤ火山灰層(7300年前 補正年)の、

上はもちろん下の層からも出土して年代確定されました。

そしてこの年代は、熱帯ジャポニカとはいえ、

中国の河姆渡の水田遺跡の年代にも相当するのです。

          (元ノートルダム清心女子大学 高橋護教授)



また2005年2月18日共同通信記事。


岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、

イネのプラントオパールが大量に見つかり、

18日灘崎町教育委員会が発表した。

この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。

イネの栽培をうかがわせ、

これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)を

はるかにさかのぼる可能性がある。

縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。


同教委によると、

プラントオパールの数は、土壌1グラム中2000〜3000個。

岡山理科大の小林博昭教授と、

ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、

地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。

イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類の

プラントオパールも検出されているという。


当時、貝塚は海岸部にあり、

イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。

貝塚には墳墓があることや、

イネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、

祭祀(さいし)の際の宴会や、脱穀などの、

共同作業で持ち込んだと推定されるという。

高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、

大陸から伝わったイネではないか」と話している。


縄文時代の イネについてはこれまでも同教授らのグループが調査。

4500年前(縄文中期)の姫笹原遺跡(岡山県)や、

6000年前の朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールを検出してきた。

しかし微量だったことから、上層からの混入や、

中国大陸から風で飛ばされてきたのではないかなどという

疑問の声も根強かった。

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ウケモチさんについて詳しくは、以前のエントリーも読んで下さいね?


                  稲を発見した「ウケモチ」ウケノミタマ

 

ウケモチさんはいつも、ウ(良い)ケ(食べもの)ナ(菜)を探し求め、

あらゆる草木の種などを採取しては研究、改良されていました。


ここの「ウ」は、特殊文字でアメ(宇宙原理)の偉大な力を表しています。

次の「ア」もそうですね。

 

ウケモチさんの熱心な一途なこころを「アニ コエハ」と表現されています。

アメ(アメミオヤ)にお願いする気持ちなのでしょう。

見つかったのはお日さまのエネルギーを受けた、すばらしい種「稲籾」です。

そう、いつもアメのこころと一致していらしたからでしょう。

アからもたらされた種は、本当に素晴らしかったのです。

 

「ヒウルニ ハユル ウルノ ソハ ウルタノ ソナエ」


韻をふまえて、とても美しい文章です。

お日さまのウルナミ、大いなるエネルギーに息づいているさま。

ウルノソ、瑞々しい稲のやわらかい輝きが感じられます。

ウルには潤うという意味もありますものね。

そしてこの現実世界のウルでは、通常の字が使われています。

ソハ「ソ」は、稲を表す特種文字。


この文章は、稲を称える褒めウタのように感じます。


ソロ(田畑の産物)がいかに貴重なものであったか、

当時の想いが、深く心に響いてくるのです。


「ヨルナミニ ハユル ナロナハ ハタノ タネ」


というのは、夜のナミ、つまりお月さまのエネルギーを受けて育つという、

菜っ葉や雑穀のことをうたっています。

ナロナ「ロ」にも、点が入っていますね?

は畑で育つもので、アワ、ヒエなども含まれていますが、

田の稲はお日さまのウルナミを、

畑の作物は月のヨルナミを受けて育つと考えられていたようです。

そして、クニトコタチ以来の、

これまでの「アメをマツル」ミケ(神饌)は、

木の実であったのですが、これ以後は、

ソロを捧げるようになったと書かれています。

 

ヲシテ文献でのこの伝承は、先に書いた考古学の記事とも矛盾しません。


アメミオヤへの良い食物を下さいという熱い願いは、

種籾という形で、からもたらされたというのですから。

我が日本列島でなくても、直接ウケモチさんが頂かなくても、

ちっともかまわないわけなのです。


ウケモチさんが手になさった籾は、

おそらくご縁のあった長江の辺りから、

誰かが「ツト・手土産」として持ち込んだと思われるのです。

なんせ建国からすぐに、カのクニ(中国のこと。華人、華僑の)へ、

クニサツチのお1人が移住、代々住み着いて暮らしていましたから。

そして、私たちが思うよりひんぱんに、

いろいろな人々の行き来は、なされていたように思えます。



その田んぼの状態ですが、実際の研究では・・・


春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、

夏の間は高くなった地下水位にささえられて稲作を行う。

渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの

乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。

反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫出来たであろう。

その意味では、縄文時代の稲作環境を「焼畑の稲作」と

呼ぶことは誤解を生じるかもしれない。

かって渡部忠世先生が言われた「水陸未分化」の稲作と

いうのがより適切なようにも思われる。

                       (佐藤洋一郎) 

 



さて遥か後世、水稲の時代に移ります。


紀元前200年より前の時代の、

発掘された水稲モミ(温帯ジャポニカ)は、大きく2種類にわけられ、

中国・朝鮮両国の発掘モミの遺伝子も調べて、比較したたところ、

日本の2種類のうち、1つは

朝鮮半島には存在しないものであったことが分かりました。


これにより温帯ジャポニカのひとつは、

長江から黄河流域にまで伝わったものが、

中国、山東省(黄河のほとり)付近から、対馬暖流ルートにより、

直接入ってきたという説が現在もっとも有力になっています。


またもっと古い時代のものと思われる熱帯ジャポニカは、

江南(長江のほとり)から直接である、黒潮ルートが考えられること・・・

 

 

岡山の遺跡から発見された籾の遺伝子は、

中国の彭頭山(ほうとうざん)遺跡や、河姆渡(かぼと)遺跡から発見された籾と

同じ遺伝子を持っていたということである。


長江中域にある彭頭山(ほうとうざん)では、

1980年代に湖南省聽県彭頭山で最古の環濠集落が発見され、

稲の散播農法を主流としていたと考えられている。


このように、中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が

続々と発見されており、古いものは1万2千年前に遡る。

ここで見つかった炭化稲籾は古いもので1万2千年前のものとされている。

     ※ 以上はもちろん熱帯ジャポニカのこと。


長江河口に近い下流域に位置する、河姆渡遺跡では、

約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、

稲の水田耕作については、

長江下流に起源するとする説が今では有力とされる。

     ※ 温帯ジャポニカの誕生。それ以前は熱帯ジャポニカであった。

 

                        (佐藤洋一郎)

 

下図は環境考古学の安田喜憲教授による、古代文明の頃の気候区分と、

海上交易ルートです。

大陸と我が国、双方での遺跡発掘品(翡翠・玉製品他いろいろ)

また気候、植生の比較により、明らかになったのだそうです。

 

我が国最古、島根県の山奥の7300年前のプラントオパールも、

さらに、

ヲシテ文献にあるナカクニ(琵琶湖付近)のウケモチさまの稲籾発見も、

この交易ルートを見れば、なるほどと、肯けるのではないでしょうか。

Photo_2

 

私はウケモチさまが育てられた稲は、

長江の古い時代の、熱帯ジャポニカに違いないと思います。

 

さて、現在認められる朝鮮系の温帯ジャポニカは、

これとは全然別のルートで大陸南部から半島に伝わったものであり、

それが日本に達したのは後のことであったと言えるでしょう。


つまり水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種がすでにあったということです。

そして、佐藤氏によれば、縄文の人々はフットワークがよく、

大陸へ渡るなどは軽いことであったと述べられています。

 

一般には今でも、弥生人は朝鮮からやって来た人々であり、

その人たちが、稲作を伝えたと信じられています。


ところが、もっともっと何千年も前の古い時代から、

我が国ではすでに稲作が行われていたことが、

佐藤教授を始めとする研究者により、イネのDNAを調べるという手法や、

環境考古学の安田教授などの精密な検証「年縞」の元に、明らかとなったのです。


              佐藤教授対談「稲のたどってきた道」(2001年9月)

              安田教授対談「年縞について」(2004年 夏)
 


 

次のエントリでは、ヲシテ文献をさらに詳しく調べていこうと思います。        

                             (続く)

(旧版 06/07/17)

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2010年2月19日 (金)

アマテルカミの お馬 (2) 本当は・・・どんな意味?

Photo_2


最近、文献を読んでいますと、

急に、気になって調べたくなるコトハが増えました。

今まで、「こういう意味よね・・・」なんて、

当たり前のように思っていたのですが、

その当たり前のコトハを、もう一度字形からも確認してみたいというような・・・

これは『よみがえる日本語』に取り組んで以来の、

むしろ楽しいワクワク現象のようです。

それと共に、

すべてをちゃんと説明するということは、

本当に難しいというのがますます判ってきて、途方にくれることも多くなりました。

けれども、それはきっと、

やっとヲシテを読む資格が出来た、

そう。スタートラインに立てたのかも知れません。





例えば

ホツマツタヱ19のA「ノリノリ ヒトヌキマノアヤ」冒頭の一節。


「アマテラス ヒツギ オ ユスリ」


はあ・・・アマテルさまが御位を譲られたのね?

なんて、早とちりしないで下さいね?

前後をしっかり読まないと、全くの大間違いになってしまいます。

もちろんこのような極端な例は、有り得ないことです。

しかし、ある一節のコトハだけで、その意味を考えてしまうことが、

残念なことに、まだまだ、あるような気がいたします。


Photo_3

今回は、この原文・原字を、各自でお読みになって、

どうぞ考えて頂きたいと思います。


さて・・・私が注目した個所です。

皇子ワカヒトさまに、

「アマテラス ヒツギ オ ユスリ」

と続きますと、つい、

「日継ぎ」という漢字混じりの言葉が思い浮かびます。

ですけれど、

ヒツギは日継ではなく、本来日月を意味しているのでは、ないでしょうか。



ふと、そう思って調べてみますと、

ヒツギヒツキは、同じくらいの頻度で(意味も同じに)使われていることがハッキリしました。

そして「ヒ」は、例外なく太陽を表す異字体が使われています。

お月さまの「ツキ」には、通常も異字体は用いません。

そして地球では、

太陽の光や熱の恵み、月の影響の元に水の恵みを受けていて、

すべてのものが命を育んでいるのですから、

アメの恵みを表すときには、必ず日と月のコトハがセットで使われる例が多いのです。


となりますと、この中濁点は強調に使われているのかも知れません。

「アマ」は、アメの語尾変化したもので、次の語とひとつになります。



アメミヲヤの恵みが地球に明るく降りそそいでいる、

その(目に見える形)日と月。

キミの御位も、そのような意味を持っていて、

「世を恵み、明るく豊かにする」ということなのですね・・・

日継ぎという漢字を使うと、このような深い意味がまったく感じ取れません!

ですから、

「この世での日月のようなお役目を、お譲りになった」


本来は、このように読み取るべきなのではないでしょうか。

そして、この意味が、そのままお名前になったお方は、

アマテルカミ、ただ、お一人だけ。


そうしますと、後の漢字時代に出てくる言葉の、

その誤訳の酷さが、しっかりと明らかになります。

それは、アマテルさまの御孫で、

ニニキネさまの御兄ギミ、アスカノホノアカリ(アスカヲキミ)さまの御名。


「天照國照彦天火明尊」あるいは「天照国照彦火明命」

この方の御位を継がれた、ニギハヤヒさまと一緒くたにしていますしっ!

もっと、メチャクチャなのは、

「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」という漢名が一書にあるんです。

これ・・・アスカノホノアカリさまですって!

クシタマも、お名前になるはずの無い褒め言葉なんですけどっ! (怒)


アマテル → 日月の意味を説明する、アマテラスの略語。人名はアマテルカミだけ。

クニテル  → ニギハヤヒさまの真名。

テルヒコ  → アスカノホノアカリさまの真名。




文献のお馬の話に戻りましょうね。

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      この絵馬は江戸時代、三代将軍・家光の頃のもので、

      丹波篠山の春日神社に奉納されました。

      しかし、古代の和馬の優れた体格、性質を受け継いだ、

      堂々たるクロコマであることがよく判ります。

      山坂の多い我が国では、胸幅は広く逞しく、

      後ろ足の腿も尻も筋肉はしっかりと発達いたします。

      そして、戦場でも臆することなく突進してゆける勇壮さ・・・

      荒ぶる勢いまでが表現されています。

      このような馬であれば、戦いの時など、

      軍装でずっしりと重くなった男性が乗っても、

      どこまでも疾走していけるでしょう。

      我が国に、このような古代の血筋を見事にうかがわせる、

      和種のお馬たちがよみがえるのは、いつの日のことでしょうか。


さてヲシテでは、馬のことを「ムマ」「コマ」と記します。


平安時代の『倭名類聚抄』・・・我が国、最古の漢和辞典・・・には、

馬の古訓は「むま」であると記されています。つまり「うま」は、後世の言葉なのですね?

また「こま」は、大陸からの馬「大馬」と対比させた言葉で、

なんと、「小さい馬」「子供の馬」であり、小馬あるいはと書きます。

そして時代が下ると「普通の馬」を意味する言葉になっていったそうです。


しかしヲシテ時代においては、

「ムマ」「コマ」には別の意味があって、

しっかりと書き分けられていました。


「ムマ」は、自然な状態にある馬、

あるいは「馬という動物」の意味です。

それに対して「コマ」は、人が調教して乗馬用に訓練した馬なのです。

この書き分けを見ると、

我が国において、人が野生の馬を馴らし、

使うようになった時代が、ほぼ推定できるようです。

Hotuma1817_3

このフタカミは、イサナギ、イサナミさま。

そしてお若かったお2人が御位をお継ぎになると、(コマにお乗りになって)

国中あまねく、「ノリメクリ」

細やかなことまでご指導されたという記述です。

人々がネトネトの水田で苦労しているのをご覧になって、

「ムマ」やウシの力を使いなさいと。




この時代から馬のことが記されるようになっています。

調教や馬術は岳父(イサナミさまの父)の、トヨケさまが完成された技。

その子世代・・・つまり、フタカミの時代・・・紀元前1000年くらい?には

「ムマヤヲサメ」という役職まで出来ていたようです。

トップの原文の最後に

「ヲハシリハ ムマヤヲサメソ」と、

フタカミのお言葉が書いてありますから。


そしてこれ以後、前述のアマテルさまの天地創生の比喩以外は

ほとんどの記述が調教された馬である意味の、「コマ」に変わっているのです。

Photo_2

さて、アマテルカミに献上されたお馬のひとつに、

「ヒツメ アオコマ」がありました。

蹄の強靱なアオコマって、どんな馬だったのでしょうか。


「アオって、毛色じゃないの?

 だけど、白馬の節会(あおうまの せちえ)ってあるわよね。

 結構、古い時代からのものだし・・・

 それに白は清浄な色だから、やっぱり白なんじゃない?」

「いえ、青馬って、黒い毛色の馬なんですってよ!」

「・・・・・・・・・?」



言葉は、時代により変わっていきます。

訓読み、あるいはヤマトコトハといっても、さまざまなのですね。

まずは、漢字時代以後〜昭和初頭期までの言葉、全てが載せられている、

一番信頼できる『大言海』に当たってみることにしました。


あを(青)  ・・・「あお」という項目は無い。

     (一)晴天ノ空ノ如キ色。(二)青緑ノ泛称。(三)六位ノ衣袍ノ深緑ナルヲ云フ。

     (四)青毛ノ馬ノ略。ソノ条ヲ見ヨ。

     (五)未熟ノ果実。(六)人柄、技前ノ未熟ナルコト。

あをげ(青毛)

     馬ノ毛色ノ名。黒色ノ潤沢ニシテ、青ミ立チテ見ユルモノ。

     古ニ云ヒシ、黒緑ナリ。

あをうま(青馬)

     (一)青毛ノ馬。クロミドリ。又青駒。

        後世ハ専ラ黒毛ノ馬ヲ、あを馬ト云ヒ、単ニあおトモ云フ。

     (二)青、白、雑毛ノ馬ヲモ云フ。

あをうまのせちゑ(白馬の節会)

     此儀式ニ、初ハ、青毛馬ヲ牽カセラレキ、

     馬ハ陽獣ニシテ、青ハ、青陽ノ春ノ色ナリ。ト云フニ起レル事ナルベシ。

     初ハ、青馬ヲ牽セラレタルニ、後ニ、白毛ノ馬トナリ、

       文ニハ白馬ト書キナガラ、

       語ニハ、ナホ、古ヘノママニ、あおうまト訓メリシナリ。


これで漢字になってからの「青」の言葉の意味や移り変わりは解りました。

この『大言海』には、検証として上記の言葉がどの古文書に記されているかも、

文例として全てが載せられていますので、

言葉を調べる時には必ずこの辞書を用いなければ、お話になりません。

なにしろ「広辞苑」は、これを基に、

近代風(?)に簡素化省略され、新しい言葉を加えて作られているのですから。


さて、漢字化される以前・・・何千年も前からのコトハ、

私たちの最初の言語であるヲシテでは、どうなっているのでしょうか。



アオというコトハは、全文献中に52例があります。

そして大きく2つの意味を表しています。

ひとつは、ある状態を示していますが、

もうひとつは、その状態を踏まえた色そのものとして。


         キ ハ ハル ワカハ 

ナツ アオハ  アキ ニヱ モミチ

フユ オチハ                 (ミカサフミ キツヨチノアヤ)


最も基本的な、アオという色の説明ですね?

木は、春には若葉が萌え、夏には青(深緑)の葉となる。

秋にはニ(丹、つまり赤色)の色の紅葉。

冬は落ち葉となる。

つまり夏に、活力に満ち照り輝いている濃い緑の葉の色がアオ

同じように 「サナエ アオミテ ナツヲツク」

このようなアオハの例は、たくさんあります。

次は縄文哲学の例。


ヤイロ ノ ニキテ 

ミナミ アオ ニシ ハ クレナイ

キタ ハ キ ニ ヒガシ ハ シロク

アイ モ イロ                (ミカサフミ タカマナルアヤ)


宇宙のはて、トコシナヱとの8つの際には、

ヤイロ(8色の)ニキテが立っています。

南(サ)にはアオ、西(ツ)には紅(クレナイ)、北(ネ)には黄(キ)、

そして東(キ)にはシロの色が立てられているのです。

ア(ミヲヤ)のエネルギー(イ)は、

このように美しい彩り(イロ)として現れます。


方角にもこのように相応しい色があって、すべては自然を良く観察して決められ、

その中でも特に、 南を表す「サ」は、明るく豊かに潤い栄える、

という意味から尊ばれていました。

畑でも、田んぼでも南向きの、日当たりの良いところが、育ちも良く、収穫も上がることは、

誰でも知っていますよね?

そして夏を迎える頃、大きくなった苗や果樹の葉っぱは、日ごとに緑を濃くしていくのです。

ですから南の色、夏の色は、もちろん「アオ」・・・濃い緑

ご先祖さま方は、この栄え・豊穣を予感させる色「深緑」を、とても尊んでいらっしゃいました。


このような観察から「勢いが強い」とか

「若さあふれる」という意味も生まれてきました。

若い女性は「アオメ」、元気な民をアオヒトクサ」と、しばしば記してあります。

実は具体的な色そのものではなく、より哲学的な意味を表しているのが、

「アオ」というヲシテなのです。


アがオになったもの・・・そのチカラが人の目には

深緑に見え、輝く・・・みたいな。



  Photo_8


さて「アオコマ」の場合はどうでしょうか?


「アオ」という色は深緑ですから、馬の色としては考えられません。

それにアマテルカミに献上されたお馬は、「コカネ ヒツメ ノ クロコマ」と、

ちゃんと別に「クロ」という色が記されているのですから、黒い馬でもありません。

別のアヤに、アマテルキミのお乗りになったテクルマの、

左をイフキヌシが、右をクマノクスヒ(アマテルさま皇子)が、

「シロ クロ コマ ニ」 乗ってお守りなさった・・・と。

だから白い馬でもないのです。




以上の考察、字の分析から、

「ヒツメ アオコマ」は、間違いなく、

蹄が強靱で、大変元気で勢いのある、調教された献上の馬であると、

断定できると思います。


ソサノヲさまの悪戯の例では、この「アオコマ」のコマを略して、

ナシロ(苗代)シキマキ(重蒔き)アオ ハナチ

ミノラス(稲は実らなかった) ミソノ(アメに捧げる稲の田)などという、

とんでもない記述がありますが、

「アオ」が、このような勢い盛んな若いコマであれば、

放たれた時、喜んで元気に駆け回り、

そこが苗代や畑ならば、踏み荒らしてしまう・・・

ね?・・・大変自然な成り行きではありませんか。

 

 

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