ホツマツタヱの伝本について 2)筆跡の鑑定
和仁估安聰の直筆と目される写本がある。
それは『ホツマツタヱ』34アヤ、35アヤが記された逸本で、
滋賀県高島郡高島町の、野々村家所蔵の『秀眞政傳記』(人之四・冊弐拾)である。
所蔵家の野々村家の先祖には、江戸時代末期に滋賀県高島郡に本拠を置いていた大溝藩、
(外様大名・二万石・藩主分部氏)の藩士であった野々村立蔵がいた。
この野々村立蔵の時に『秀眞政傳記』(人之四・冊弐拾)及び『神載山書記』(ミカサフミ・生洲問答)
そして『神敕基兆伝太占書記』(フトマニ)を野々村家家蔵としたのである。
野々村立蔵のことは、明治三十八年十一月に国書刊行会から出版された『近藤正斎全集』にも記されている。
明治四年廃藩の後、野々村立蔵は滋賀県高島郡高島町拝戸の式内社、水尾神社宮司として奉仕していて、
明治三十八年当時、八十五歳の長命であった。
現在は、野々村立蔵の子孫である野々村直大氏がこれら三書を所蔵しておられる。
『ホツマツタヱ』逸本の『秀眞政傳記』(人之四・冊弐拾)は、
表側に34アヤと35アヤの二アヤ分がしるされているが、
裏側には2アヤ〜23アヤにわたる『ホツマツタヱ』逸文等が記されている。
後に掲げておいたように裏側の文字が透けて見えるのは、一枚の和紙の表側からも裏側からも、
両面から墨書されているため、見難くなっている。
一見すると出来の悪い写本として見誤られてしまうかもしれないが、
この写本にこそ重要なる鍵が秘められていたのである。
というのは、次のような事実がわかったからである。
今般発見された完本『ホツマツタヱ』(当復刻本)と比較したところ、
野々村家所蔵逸本は、和仁估安聰が『ホツマツタヱ』に漢訳文を施してゆく際に生じた書き損じであり、
安聰の直筆と認めることができることが明らかになった。
注) 当復刻本の、1にある文を含む22アヤ、28アヤの一部だけは、
常に誦してほしいという筆者の意図から、
原本もヲシテではなく、カタカナで記されている。
このように書き誤りではあり得ない大差のある漢訳文が記されていることから推すと、
野々村家所蔵逸本の筆写は、単に写本を行っていたのではなく、
もっと創造的な作業を遂行しつつあったのではあるまいか。
4例のごとき二通りの漢訳文が同一本に記されていることからして、
野々村家所蔵逸本の裏に書かれた逸文は、筆者が単に写本しているだけではなく、
漢訳と言う作業をまさに行いつつある状況を残しているものといえよう。
そして、このような端本を筆写することは考えられないため、
野々村家所蔵逸本の筆者は、
漢訳を付した人物であると認めることができる。
この人物は伝承上からいって和仁估安聰以外には考えられない。
つまり、野々村家所蔵逸本は和仁估安聰の真筆として認定することになる。
さて、当復刻本が、野々村家所蔵逸本の裏の逸文と同筆であるかどうか。
1〜4の例で掲げたもので、同一筆跡であることはお解りいただけるであろうが、
念のため、さらに見やすい例を掲げておこう。
野々村家所蔵逸本裏五十六頁三枚目は、当復刻本での二アヤ九頁に相当し、
さらに『ミカサフミ』にも同文のところがある。
『ミカサフミ』は野々村家所蔵の『神載山書記』の七十頁である。
この三書を見較べてもらえば、同一人物の筆跡であることがさらに一層確かになる。
下に掲載するのは、野々村家所蔵の「秀眞政傳記」逸本の表紙であるが、
よく見るならば、裏の漢訳推敲の字が透けて見え興味深い。
和仁估安聰の署名は、当復刻本において記されており、
『ミカサフミ』(野々村氏所蔵「神載山書記」)での署名は和仁估容聰になっている。
安聰も容聰も、ともに「ヤストシ」と訓んでいるようである。
安聰は安永八年の署名である。
安聰と容聰どちらも使用されていたわけだが、
当復刻本の書名、安聰を主に用いておくこととする。
(平成五年九月発行 松本善之助監修 池田満解説『ホツマツタヱ 秀眞政傳記』より抜粋)
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