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ホツマツタヱの伝本について 1)発見記


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親本見つかる      平成四年五月十五日

滋賀県高島郡安曇川町を訪ねるのは、今回で何回目になるだろうか。
もう五指を屈するだけでは足りないほどである。
足を運ぶ回数の多いのは『ホツマツタヱ』研究者として
当然のことである。
しかし今回ほど心ときめくのは初めてだ。

いまこの原稿を書いている六日前(平成四年五月十一日)の晩、
東京の松本善之助先生からの電話で上気したお声が響く。
「井保さんから安聰直筆の完本がみつかったそうだ」
と言われる。

井保さんとは、和仁估安聰を継ぐ家柄で、安曇川町西万木にお宅があり、
私もこれまで三度ほどお邪魔したことのある旧家である。
最近では、私はここに赤坂例会の方たちとご一緒に訪問している。
それは真夏のことだったが、よく冷えた西瓜をご馳走になったのを思い出す。
何といっても和仁估安聰の系統の家と聞くと、特別の思いがこみ上げてくる。

さて、いまのところ『ホツマツタヱ」の遡れる写本には二系統ある。
その一つが安聰本であり、この系統に小笠原通当、長弘、長武のお三人がある。
もう一方のものは、奈良の僧溥泉本である。
現在、我々が取り組んでいるのは、小笠原系統の写本だから、
今度発見された安聰本はそれらの親本に当たるわけだ。

『ホツマツタヱ』伝承上重要な位置を占める、
その安聰と縁のふかい井保家から、見つかったという知らせがあった。
だから私はすぐにも行きたかった。
先生にお供するまでにまだ二晩、胸が高ぶってよく眠れなかった。

しかし、松本先生はお体の調子がよくないので、結局私ひとりで行くことになる。


背筋がゾクゾク

何はともあれ、務めている会社の休みを取り、車で安曇川町へと向かった。
ところが約束の時間よりずっと早く当地へついてしまった。
時計の針の進み方がこんなにもおそいものかと思うほどイライラする。
やっと午後一時過ぎ井保家の玄関へ。
本家の井保翁と甥の井保孝夫氏が待っていて下さった。
そして私の訪問を大変よろこんでおられたのには感激する。
私は、松本先生のお加減がわるくてあがれなかったのを、
まっさきに報告した。
そして初対面の孝夫氏から発見の経過をうかがう。

同氏は、西万木に鎮座する日吉神社の宮総代として,
同神社に奉仕しておられ、
今年の春祭の準備をしているうちに、神輿庫の棚の奥から、
三センチほども、ほこりのつもる箱を見つけた。
ほこりを払うと、そこには「秀真」の文字が現れたではないか。
この時、孝夫氏は背筋にゾクゾクと何かを感じたという。
このお話をうかがっている私も、さもありなんと思うばかりだった。

その箱は、孝夫氏から本家の吉兵翁宅に届けられ、床の間に安置された。
吉兵翁は八十歳を超えておいでだろうが、
五年前にお目にかかった時と変わったご様子もないように私にはみえて、うれしかった。

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筆者は誰か

早速、その貴重な箱に手を触れさせてもらった。
箱は三つあり、桐の細工も上々の出来で、上ふたは曲面仕立てになっている。
一箱に八冊づつ入っており、計二十四冊にて『ホツマツタヱ』四十アヤが記されていた。
虫喰いは、三箱のうち、「人」の分の一箱だけがひどかったが、
初めの方の「天」箱の、そして二番目の「地」の二箱には、それほどの痛みはない。
「有り難い!」私は思わず言葉を発した。

さて、では筆写した方はだれなのだろうか。
一目みた時、和仁估安聰であると思った。
それは野々村家所蔵の「ホツマツタヱ』三十四アヤ、三十五アヤの一冊と同筆跡なので、
安聰本と直観したのだった。

三つの箱を前にした私は、この大切な写本の処置を考えていた。
「天」と「地」の二箱はともかく、「人」の箱になると、虫喰いがひどいので、
極めて丁寧に扱わないと、頁をめくるだけで、
パラパラ、パラパラと貴重な本文の破片が散逸してしまうからである。
また、すこしでも放っておくと、虫が侵入してくるかもしれない。
私は強く危機感を覚えた。

「この写本をお借りするわけには、いかないでしょうか」
私はおそるおそる切り出してみた。すると、
「どうぞ、よろしいです。お持ちになって研究なさって下さい。ただし、預り証だけは入れて下さい」
と、おっしゃるではないか。私は涙がこぼれそうになった。
井保孝夫氏は前もって、他の宮総代の方々とコンセンサスをとって下さって、
根まわしずみなのだった。
副本をつくると約束した私は、預り証を入れて、早速に帰路についた。
こんなに気持ちよく貸してくださるのは、永年にわたる同家と松本善之助先生との交誼の賜物なのだ。

昭和四十六年に復刻された長弘本の十三アヤ六頁のところには、
内閣文庫本には書かれている八行分の文章がぬけているのだが、
新発見のこの本では、どうなっているのだろうか。
また十六アヤに出る野々村逸本での異文の多くはここではどうなっているのだろうか。
帰路の車の中で、思いはかけめぐるばかりだった。


拙宅に帰り、書斎にこもって一昼夜余りすると、おおよそのところが見えて来た。

和仁估容聰は、この写本の序文で和仁估安聰と記しており、
『ミカサフミ』の書写が安永八年で和仁估容聰と記していたよりも
四年古い安永四年の年記であるから、早い時期に安聰とし、
後に容聰と記すようになった。

当写本は、最古の完写本であるから、極めて価値が高いこと。
安聰漢訳が全巻について記されているから何かと参考になること。

この他にも、細かな写し違いの数々については今後明らかにしてゆこうと思う。
総じてこの写本は、小笠原伝本に先んじて評価されていい。

虫喰いのため、頁を一頁一頁開けるのにも細心の注意が必要だから時間がかかる。
何をおいても、新発見の写本については、経験豊かな松本先生の御指示を仰ごう。
つぎに当然ネガ複写を行っておこう。
そして、今後の展開を待つことにしよう。

03:00 午後 | | コメント (0)