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2006年3月12日 (日)

励ましのたより

kusabana


この「談話室」を開いてから、まだ半月なのですが、
地味なエントリにもかかわらず、嬉しいことに、
すでに870アクセスを越えています。
一日平均で、70前後。

読者の方からのお便りも頂き、
重要な情報や、アドバイスをして下さることも多くなりました。
今日はその中から、皆さまにご紹介したいと思います。



「賀茂真淵の書簡について」 Iさまより


びーちぇさんが読みたいと書かれていた真淵の、叱責の書簡は、
石水会館(津市・百五銀行の関係の私設美術博物館)所蔵です。


明和3年9月16日付。
「是は甚小子が意に違へり
いはばいまだ万葉其他の 他古書のことは知り給はで
異見をたてらるるこそ不審なれ
か様の御志に候はば 向後小子に御問も無用の事也」

「これは、はなはだ私の気持ちと違っています。
他の基本の勉強もせずにして、
いっぱしのことを言うものではない。
そんな心ならば、今後私への質問などお断り申し上げる。」



明和3年(1766)といえば、真淵と知りあってから3年くらいですね?
正式入門が知りあってから、1年経った明和元年。(1764)
次の年には、宣長は真淵の書き入れた『古事記』の借覧を願ったのですが、
まず万葉からと断られています。
宣長の古事記研究は、明和元年からでした。
『先代旧事本紀』を共に、度会延佳本で照合をし、勉強をしています。

前回では私も、なかひでさまと同じ印象を得たと書きましたが、
改めて調べましたら、『古事記』に対しての危惧にまで発展させて
考えるほどのことも無かったかもしれませんね。
とは言いましても、真淵の心の奥底に、
『古事記』の取り扱い、解釈に対しての慎重さはしっかりとあったと思います。

本居宣長記念館のサイトに宣長略年譜がありますので、ご参考までに。


また、慶次2000さまから、
こんな素敵なコメントを頂きました。


今はびーちぇさんは吸収するときだと思います。
これだと決定づけないで(私の意見も含まれます)、
いろんな文献やいろんな説に触れる、
そのほうが遠くて近道のような気がします。

私はそうやって今も考えています。
これからどんな発見がされて説が出てくるかわからない。
だから、いつも新鮮。

思想の根本は動かしませんが、柔軟にいろいろな言葉を聞くことは、
思想だけでなく人間性も増加させます。

びーちぇさんの古学研究に幸ありますように。


慶次さま、有り難うございます。
本当に励まされます。
またいつでも、気がおつきになりましたこと、お知らせ下さいませね?




なかひでさまからは、またまた新しい情報が。


きょうは、時間が取れましたので、「いせの会」のCDを聞きました。
やっぱり、池田先生の話を聞きますと、違いますね。

『禁秘抄』のこと、本当に良く判りました。
やっぱり、原文を読むことだと、いつもおしゃっておられる通りです。
順徳天皇さまのお気持ちが伝わってくるようでした。

それにしましても、順徳天皇さまとは、
心から崇敬したくなるようなお方様ですね。

もちろん「賢所(かしこどころ)」もそうですが、
その、内裏でのなかの‘石灰壇’の大切さが、ひしひしと解って来ました。


天皇さまが、毎朝日の出のころに、
伏してお祈りしてくださっておられたのですね。
全国民のために!

それも、平安京のころの話で、
もっと昔は、地面に伏してお祈りくださっておいでだったとの事。
これを、聞きまして、なんだか涙が出てまいりました。

夏はそうでもないでしょうが、冬の朝の寒さはひとしおです。
女性のお方に、天皇さまのお仕事をお願いするのは、
「そんなこと!」と言うのは、無理も無いことです。
お体に障ります。



それにしましても、
『大内裏図考証』をお書きになられた、
裏松光世(うらまつみつよ)さんも大したものです。
‘石灰壇’の位置がはっきり解るのも、裏松さんのおかげです。

寒い冬の明け方、‘石灰壇’に伏してお祈りしてくださる
天皇さまのお姿が、『大内裏図考証』の図に浮かんでくるようです。


dairi


考えてみますと、国学の定義も、見直してゆく必要があるかもしれません。
日本の真実を求めようとするのを、目的とすべきならば、
順徳天皇さまや裏松光世さんこそ、
特段に良い意味で顕彰されるべきであるとも、私には思えるからです。


慶次さんが、
国学の基礎を齎したというべき「契沖」の名を挙げておられました。

それで、思い出しましたが、
「荷田春満」が早い時期に、大嘗祭の祭典のことの報告書を書いています。

といいますのも、
もちろん私も、国学とは、従来からのように、
和歌も・国語も史書も、大切と思っております。
しかしながら、忘れてならないのが、
有職故実(ゆうそく・ゆうしょく・ゆうそく、こじつ)の方面のこと。

これは、記録類には残ることの極めて稀な、
本来の意味でのひとつの国学であると、私は思っているのですが・・・


「大嘗祭のお祭りをとり行った、何年何月何日に。」
といっても、
いったいその、お祭りの、
天皇さまのお召しになられたお着物が、どんなお召し物であったのか?
そのときの、お召し上がりのものはどんなだったのか?
あるいは、お祭りの前に行う、おん禊(みそぎ)は、
どの様に、また何処で、川の水にお入りになられるのか?
これらを知りたいとはおもいませんか?



荷田春満は、かなり詳しく記録にとどめてくれました。
平安時代からも、出てきておりますが、
近世では「壺井義知」もまた出色でありましょう。
お弟子さんが続々と出ましたこともあります。

基礎固め、とでも申せましょうか。
それら、地道な考証の作業があってこその、
その後の国学の発展期を迎えたと思うのです。

賀茂真淵も、このことを言いたかったのではないか。
このように追想することもあります。
もっと、『万葉集』をやれ。と。
それは、すなわち、基礎固めであると。


何しろ、日本の文化・文明は、とっても奥が深いので、
簡単にひと括りにすることはむつかしいと思います。

しかしながら、本居宣長のその後の業績には
優れたものが多くあります。
国語学では、『あゆひ抄』・『かざし抄』の
富士谷成章(なりあきら)と双璧ですし、大したものだとおもいます。
またその後の、“やちまた学者”の輩出を考えると、
極めて讃えるべきでしょう。

なんだか、長話になってしまいました、
もともとは、
「有職故実(ゆうそくこじつ)」を、お忘れなく!
の一言を申し上げたかったのでした。


(^o^;)・・・・!?

浅学のびーちぇと致しましては、焦りますっ!
殆どが知らないお名前なのですもん。。。。

ただ、お1人だけひらめいた!
荷田春満(かだのあずままろ)さん・・・カダさんって・・・
もしや、カダノミコトに関係あるかなあ?

当たりっ!

京都伏見神社の神官のお子さんだったんですって、うふ☆


伏見神社は、由緒正しいカダノミコトを祀った神社なんです。
ヲシテのクニに行って読んで下さいね?
・・・ええとね、『ウケモチの裔「カダノミコト」 ・・お稲荷さんになった方』


契沖さん、荷田さん、真淵さん、宣長さん、篤胤さんというひとつのラインがあり、
これは、思想的本流であったのでしょうね?

そして、その基礎がためというか、検証として、
塙保己一さん、裏松光世さん、壺井義知さん、富士谷成章さん方が、
色々なことを調べ、研究なさり書き残して下さった。
このお方々も国学者として、大変ご立派なお仕事をなさった。
そう理解すれば良いのでしょうね、きっと・・・



閑話休題。

最近の産経新聞では、飛鳥、奈良、平安時代の御所の跡などが発掘された
ニュースが、伝えられています。

裏松光世さんが、その昔調べて図にされた、御所、内裏の図。
それが、目に見えるかたちで証明されてきているのですね?

さて、ネット上で素敵なものを見つけました。
なかひでさまの文中にリンクしてありますが、
大変美しい、石灰壇(いしばいだん)の図絵です。


ここで、連想が働きました。
・・・ちょっと畏れ多いんですが、庶民生活の話をします。

私の地方では、土蔵の床を石灰(シックイ)で固めて湿気を防ぐのです。
ハットジックイと言ったそうな。

母に聞きましたら「八斗漆喰」で、
嘉永7年(1854年)に造られた、かの有名な通潤橋で、
水を漏らさぬために工夫された、新発明の漆喰とのこと。

高温多湿の熊本で、お米や味噌、漬物、そして道具類を保つために、
土蔵の床をシックイで塗り固めていたそうな・・・
それも、近年は失われたのですが。
昭和30年くらいまでは、家の土蔵もそうであったそうです。
ヒンヤリとして、なおかつカラリとしていて大変具合も良かったみたいです。



すみません。元に戻ります。

この裏松光世さんがすごいことをなさったのは、
当時の天皇さまと関わりが有るのです。


119代・光格天皇さまは、閑院宮さまのそれも第6王子であられた、
ご幼名祐宮(さちのみや)さま。
皇位を継ぐ可能性もなければ、宮家を新たに立てる事も出来ないので、
いずれは出家してどこかの門跡寺院に入るだけという、
限られた未来しかないはずのお方でした。

ところが、先代の後桃園天皇が22歳の若さで急逝なされ、
皇子もおられなかったため、急遽、たった9歳の祐宮・師仁親王は、
継承者に選ばれることとなったのです。

幸い女性天皇として中継ぎをなされた、
後櫻町天皇さま(ご譲位の後でしたが)のさまざまなお心遣い、
感化を受けられ
、名君と称えられる天皇さまになられました。


sakura


当初は、幼い上に〈先帝御不例の時の御養子〉だからと、
一段軽く扱う輩もあったとか。
いや、幕府からさえ軽く見られている、という噂までたっていたようです。
しかし学問にはご熱心で、
とりわけ
「有職故実」などの歴史的な勉強に、
自ら没頭なさるようになりました。
それはおそらく、周囲の軽視をはねのけたいという思いも
あってのことでしょう。


やがて伝統に関するご関心、ご勉強は、
いにしえの風儀を復活しようとする強いご意志へと変わってゆきました。

例えば新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)の古式復活。
天明の大火災で焼失した御所を再建する際は、幕府の反発を押し切って、
平安時代のオリジナルに近いプランで可決させたりもなさったのです。

その時、復古式・御所のプランの基を作ったのは、
宝暦事件に関与した罪で永蟄居(えいちっきょ)・・・
外出を禁じ、一室に籠もらせる刑罰に服していた

裏松光世(うらまつ・みつよ)さん。

宝暦年間から天明八年(1788)に許されるまでの約30年間、
ずっと自宅に押し込められていたのですが、
そのあいだに古文献や古絵図を詳しく調査して
平安大内裏の研究
『大内裏図考証』をまとめ上げていました。

今の京都御所は、裏松さんのこの地道な研究なしには、
また、光格天皇さまのいにしえの伝統を復活させようとの、
熱い御心なしには、現存しなかったのです!



また付け加えますが、
この古代への篤い想いを抱いた天皇さまは、
宣長さんの
『古事記伝』初帙をご覧になられています。

寛政2年12月26日付横井千秋宛書簡によれば、この天覧は、
最初、横井千秋より
妙法院の宮の御覧に入れたところから始まったといいます。
内容に感心した宮が、実弟である天皇さまに上げて下さったのだそうです。

宣長さんも、この時代は高位高官の御方々に認められ、
篤い支援をを受けられるようになっていたのですね☆

このようなことからも、
国学といえば、万葉、古事記という風潮が大きくなり、
他の大事な研究や、国史である日本書紀などが、
少し影が薄くなり、現在に至っていると思えます。


大変大胆では有りますが、
私たちヲシテ研究を真剣に取り組んでいる者たちは、

国史の神話部分を、
本来の正統のものに還したいと願っているのです。

だってね・・・この記紀二書にあることはすべて、網羅され、
その上、
抜け落ちてしまった、古来の日本の思想、哲学、神学、政治学、医学他すべてを、
固有文字と共に、取り戻すことが出きるのですから。

まだ他国の影響を受けていなかった時代の、
純粋なこの国の心を受け継ぎ、
まっすぐに学ぶことが出きるのです!
なんという幸せで、尊いことでしょうか!



最後に「Speek Easy社会」の真名さまのサイトより
「後櫻町天皇の苦労と宮中祭祀の問題」というエントリを、
ぜひお読み頂きたく思います。

11:15 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月10日 (金)

光を変えて・・・

satuma_huji


古事記について、国学について、私なりの思ったことを書きました。
何より有り難いことには、別の方向から別の光を当てて下さる方がいらっしゃり、
本当に嬉しくなりました。
今日はそのご報告と、私なりに感じたことを書いてみます。


(なかひで)
本居宣長は、師匠の賀茂真淵からの、破門通告も敢然として受けたのでした。
破門されることの、その意味を、
師匠の賀茂真淵が言わんとされていることを、
本居宣長は、重々承知していたのです。

古事記は、国学の本筋からしますれば極めて異質なものなのです。
このことを鴨真淵は心配したのでした。


という、なかひでさまからのコメントがありましたが、
それに対して慶次2000さまから、
次のようなご意見がありました。
慶次さまは本当に良く勉強されていらっしゃる方で、
かねがね、その論の深さには立場は違っていますけれど、感嘆しておりました。



(慶次2000)
まず事実確認ですが、真淵に宣長が激怒破門されかけるのは
古事記は関係ありません。

真淵は万葉集と古事記を日本の拠り所にしました。
宣長は新古今集に傾倒していく、ここで対立が起きました。

古事記研究は真淵の意思を継いだようなもので、
真淵自身古事記研究に入る前に死ぬことを悔いております。


(びーちぇ)
・・・そうだったんですか、本当に有り難うございます!
実は、なかひでさまも、
自分は学が深くないので・・・とおっしゃりながら、
でも、ヲシテ文献には長年接していらしたので、
その立場から現在の見解をお聞きしたという訳なのです。

ですから慶次さまのように深く勉強していらっしゃる方に、
いろいろ教えて頂けると、
なかひでさまも喜ばれると思います。

もちろん私なんか、古典、古史に興味を持ったのはここ1年です。

ただ、ヲシテ文献の内容がとても素晴らしく、
今まで神話と思っていたこと、その神話の違和感が解消されたこと、
そして、それはどういうことなんだろうと、
・・・この世界にハマッテいっているのです☆



(なかひで)
あー!?
そうだったのですか!
賀茂真淵が、本居宣長を破門した理由は!
歌学での対立だったのですか。
以前に、何か思い間違いをしていたのでしょうか?
すみません。

賀茂真淵の、絶縁状の書簡を見たときに。
もうちょっと、じっくりと読んでおけばよかったと悔やんでいます。
賀茂真淵の字は、読みにくいところにもってきて、
ガラス越しで、おまけに寒かったので、走ってしまいました。
今度機会を作って、じっくり読んでみます。



もうお一方、真淵の絶縁状を見られた方(Iさん)がいらっしゃいます。

「その書状に限り、自分はなかひでさまと同じように思った」
とメールを下さいました。
しかし、これらをもって、どっちが真実なのかは正直なところ分かりません。


人はその時々で、いろいろな思いを抱き、それを記したりしますが、
次の瞬間には思い違いであったと訂正したりしますから・・・
誠実な方ほど、それをごまかさないのだと思います。
真淵さんもそうであったのではと思ったりして・・・

そして、我々後世のものは、
出来るだけ多くの残っている文書、文献、手紙などを調べ、
それを総合して考え、それぞれの仮説になるわけですよね?
そして、同意する方々が多いものが、その時の定説となるのです。

自分で調べていないくせに、申し上げるのもなんですが、
慶次さまのご意見は、今の定説なのかなあ・・・?
と思いました。


しかし、真淵の絶縁状。
私にはとうてい読みこなす力はないと思うのですが、
いつか見て見たいと思っております。



(慶次2000)
万葉から入った真淵が「ますらおぶり」を感じ、
日本書紀ではなく古事記に惹かれるのは当然の帰結、
ここから神代に入る道を模索しました

そして共通の話題である源氏物語も捨て置けない項目です。
歴史としての事実はどうでも良く、
ですから日本書紀ではなく古事記に注目したのです。


これについては、良く理解できます。
で、私が面白いと思ったのは、
「歴史としての事実はどうでも良く」というところ。

なかひでさま、私、メールを下さったIさまは3人とも、
「歴史の事実を知りたい。そこから、日本人のアイデンティティーを求めたい」
という立場なのですね。
そして、取り組んでいるのは慶次さまの言われている「神代の記録そのもの」です。
カミノヨ・・・祖先の世をいいます。
神代というのは、漢字での誤訳・・・いや、恣意的にそう記したのかも知れません。
なんせ、神話化したのですから。


慶次さまは(そして本居宣長、晩年の賀茂真淵も)
万葉という歌から入り、古事記という歴史物語の中に流れているもの、
いわゆる「ますらおぶり」から、
日本の心、アイデンティティーを探ろうとしていらっしゃると、思えました。

で、これについては、どちらも間違っている訳ではなく、
例えば
富士山の登山口が違う・・・というようなものではないでしょうか。



古事記においては、

43代元明天皇さまのお心安かれと、ただ、その お方のために急ぎ書きとばしたため、
ライターである太安万侶の心情と言うものが、
期せずして良く伝わるものとなったこと。
史実を厳密には追及してはいないが、その代わりに和歌を多く中に入れ、
ご先祖のみ心というものを、しっかりお伝えするものになったということ。

そんなところが、歌論から入った本居宣長(賀茂真淵)の注意を
引き寄せたのではないかと思います。
それまでの国学の観点から言えば、異なるものであったかも知れません・・・
そして、これが本流となって、今に伝わっている訳です。

が、注意すべきは
だからこそ、古事記では歴史的事実の検証はできない。
ゆえに、皇統継承の論に持ち出すのはおかしいのです。
古事記は国史では無いのですから。



(慶次2000)
塙保己一は国学者ではありますが、思想家ではありません。

彼の功績は、「群書類従」や「史料」→「大日本史料」の編纂であり、
古代中世を知るには欠かせない史料であります。
また有名な「大日本史」の校正に関わりました。

つまり私たちが国家の歴史、伝統習俗を知るには
群書類従は読んだほうがいいと思います。
かなり量が多いですけど・・・


と、慶次さまが書いて下さいましたように、
歴史のものごと一つ一つを知る為、また、各時代の習俗、伝統を知ると言うことで、
ヲシテ研究者は皆、塙保己一さんの残された文献類に頼りまくっております。

ことに、古代ヤマトコトバを解読していく訳ですから、一にも二にも、古文書にあたりつつ、
原文を読んでは、考えを深めていかなければならないのです。
池田満先生が、塙さんへの尊敬が特に篤いのも、そのことがあるからなんですね?



(慶次2000)
国学とは何かと聞かれたら、天皇の歴史といえるかは微妙です。
なぜなら、儒教や仏教のバイアスを取り除き、
日本有史古来の根付いた思想を学することだからです。

根本はここであり、
故に契沖→真淵→宣長のラインは天皇制はほとんど論じていません。
和歌を素直に読み儒教・仏教的思想の押し殺す文化を排除して
古(いにしえ)のこころから感じる根本に帰る。

もちろん、この後、(平田)篤胤が復古神道を唱え、
尊王思想、討幕運動と流れたのは間違いありません。


このご意見も、却って私の確信を高めて下さいました。
池田先生が、漢字の直訳を排し、
すなおにヲシテの字にあたり、漢字のもたらす大陸の思想を捨てて、
内容を感じ取る。
出来うる限り、その時代のその人々の思いの中に身を置く。
ということを、第一とされています。

わあい!!!
慶次さまと、おんなじだあ・・・(^o^)/

それに、ヲシテ文献には、はっきりと
縄文哲学、宇宙学、神学、医学、モノの考え方の基本
すべて言葉で明解に記されているのです!


ですから、なかひでさまが

日本とは、
結局のところは天皇さまの政治の歴史、ということなのですね。
何しろ、歴史が長いのですから。
そこで、最も重要なのが、
それじゃ天皇さまはどう云ったことを、なさって来られたのか?


と書かれたことも、私たちヲシテ文献の立場からは正しいと言えるのです。
なんせ、天皇さまのことは、みな民、国民とからめて記してあるのですから。
そして上記のように、文化、哲学その他も、具体的な例と共に記されていますから。

日本書紀や古事記には、
ものの見事に、この膨大な具体的記録だけはスッポリと抜け落ち、
カット
されています。

yamazakura3


だから、宣長さんに言ってみたいのです☆

「貴方がお好きだった桜の花
 縄文の昔から、特別な花だったのですよ。
 記紀には書いてないですけど。

 ニニキネさんのキサキ、アシツヒメ、
 後のお名、
コノハナサクヤヒメが願を掛けたのも桜の木。
 この美しいお名になったのも、この桜が願いに答えて咲いたからです。
 桜を朝廷に勧め、献上したのが
 ヒメの曾お祖父さまの
サクラウシ(チ)さんでしたよね・・・」 ‥‥

「それとね・・・アワレアハレは縄文時代、弥生時代には
 違う言葉なんです。
 漢字が入ってきてから、ヤマトコトバも変わっていったんですね?

 アハレは、褒め称える時。・・・あっぱれ、あっぱれ、みたいに。
 
アワレは情の言葉で、心を思いやる時に。共感する時に。

 宣長さん、ヲシテ文献読めば良かったのに・・・ね?」

ソサノヲさんも、どんな方だったのか分かるし、
 その、千年後の、皇太子
ヤマトタケさんは素晴らしく聡明で勇敢で、
 どんなに父天皇さまに愛されていらしたか・・・

 お疲れが出たのでしょう、旅先で病のため早世なされた時、
 どんなに父君も、臣たちも、民も嘆き悲しんだか・・・
 そして、ご遺言がありました・・・

 それにより、国史としてホツマツタヱが書かれました。 
 同時に御父、景行天皇さまもカグミハタを記され、
 オオカシマと呼ばれたオオミワ家の臣は、
 ミカサフミを書きました・・・」

「あなたのお好きな歌もいっぱい、いっぱい書いてありますよ。

  ワカヒメ・ヒルコさんの求婚のおウタや。
 天岩戸の前で歌った、
ナガサキ(汝が幸き)のウタや・・・
 
ニニキネさんの時に出来た、土地の浄めの祝詞や、
 その皇子の
ホホデミさんのキサキへの恋ウタ、
 そして(
キサキ・トヨタマヒメの)返しのウタも・・・」

 

「それに・・・このフミは全文がみな、
 朗々と謡えるような、
五七で書かれているんです。
 1万行以上も。

 なんとこれが、その頃の文の正式なかたち。

 きっと、貴方はお喜びになるでしょう。
 この国は、ウタのクニと言っても良いのですよね」

ああら。

本居宣長さんへのラブコールになっちゃった☆



 この、桜とコノハナサクヤヒメの詳しいお話が、
  「Speek Easy社会」真名さまのエントリにあります。

06:50 午後 | | コメント (4) | トラックバック (2)

2006年3月 4日 (土)

国学のお話

tanigawa


恥ずかしながら、今まで「国学」という言葉は聞いていましたが、
どういうものかについては無関心で・・・

なにしろ、ややこしそう。
なにしろ、難しそう。
昔のことだし、現代では学者さん以外は関係ないよね・・・
みたいに思っていました。


ところが、なかひでさまの解説は分かりやすいっ!
なんだ・・・私達が求めているものじゃない?
ということで、一挙に身近に感じるようになりました。



(なかひで)
そもそも日本とは何か?
これを考えるのが、国学です。

日本とは、結局のところは天皇さまの政治の歴史、ということなのですね。
何しろ、歴史が長いのですから。

そこで、最も重要なのが、
それじゃ天皇さまはどう云ったことを、なさって来られたのか?

この視点からすれば、最も重要視するべき書物が分かります。
ある人の説では「禁秘抄」といいます。
禁秘抄は、順徳天皇のご執筆です。



国学の創始者の一人、塙保己一さんと
賀茂真淵さんの名前も、なかひでさまから聞きました。

そのうちの塙保己一さんについては、昔お話を読んだことがありました。
そのエピソード。

塙さんは幼児期に失明なさり、それでも学問が好きで、好きで、
一心に学ばれたそうな。
なにしろ、人に読んでもらったこと、聞いた話は、
一度ですべて覚えてしまったといいます。

後年偉くなってから、門人達に講義をしていました。
時は夜。
いきなり風が吹き込んだのか、灯火が消えました。
しかし、講義は朗々と続きます。
たまりかねた、弟子達が
「先生、しばらくお待ち下さい。真っ暗で筆写が出来ません」
塙先生はカラカラと笑われ、
「何とも目明きとは、不自由なものよ・・・」
といわれたそうです。


この方の偉さは、現代では知らない人の方が多いでしょうが、
もう・・・超人というほかないです。

中でも「群書類従」の刊行は、塙保己一がその生涯をかけて取り組んだ一大事業でした。

当時、貴重な記録・文学作品等の古典籍が広く活用されることなく、
各所に放置され散逸していく実態を嘆き、数多くの文献を集めて分類・整理し、
670冊の版木本として41年間にわたり刊行し続けたのです。
塙さんは1746年、つまり260年くらい前のお生まれです。

およそ日本のこと、歴史、文化、文学、哲学など、
本気で勉強するためには、
この「群書類従」に当たらなければ、
ほんとうの事は分からないそうです。



実は池田先生も、研究会でこの方を大変重んじておられ、
その業績を褒め称えておられる様子です。

また聞きですが、面白いエピソードが有ります。


ヲシテ文献に食べ物のことも詳しく記されているのですが、
アマテルさんの時代、日本で初の国内動乱が起こりました。
ハタレの乱といいます。

そのなかの「キクミチ」・・・狐憑きだったという一大勢力がいて、
人々を幻惑させ、誑かしたあげくに、力で都に攻め上ったそうな。
これが、なかなか手強い。

そうしたら、アマテルカミから勅が下り、
「マカリモチ」を油で揚げたもの、
そしてネズミ(オエッ!?)の揚げたものを、
軍勢の中に投げ込んだら、我先に食らい付いて術が破れ、
全員を捕らえることに成功したと書いてあります。

そこで、池田先生。
すぐに「群書類従」を調べられ、実験をなさいました。

米の粉(たぶん)を水で練り、お団子状にして、油で揚げたところ、
なんと・・・・爆発!!!

油は台所中に飛び散り、軽い火傷もなさったようです。

「もっと子細に調べるべきでした。
 水で練った団子は、まずは蒸さなければいけなかったらしい」と、
後に笑っていらっしゃったそうで・・・


でも、本当に読んでも面白いものだそうです。
各時代の衣装も、風俗も、神事も、医療も・・・法律、政治、教育、道徳、宗教、社会、
史学、文学、美術、音楽、言語、遊芸・・・などなど、
なんでもあるみたいです☆

幸い、我が町の図書館にも揃えてあるようです。
調べたいことが溜まったら、行って読んでみようと思っています。

索引が出版社から出ており、それで見当をつけなくてはならないようです。
膨大なな文書を集めたものですから。

例えば、その索引の最初を開けると、
1)神祇部は、皇大神宮儀式帳、止由気宮儀式帳、
などの伊勢神宮関係の文書を始めとして、数えるのも嫌になるくらい、
いっぱいありますね・・・
3)帝王部には、神皇正統記、続神皇正統記、皇代記、皇年代略記、践祚部類焼・・・
うわあ・・・大変。
なんせ、千冊近いのですから。「禁秘抄」も、もちろんありましたよ。



その「禁秘抄」です。

天皇さまのお仕事は、何が一番大事かということを記した書で、
鎌倉時代に順徳天皇が、後代の天皇さまに伝えるべきと、記されたものです。
それによると、
最も大事な、天皇さましか出来ないお仕事が「神祀り」なのです。


 凡(およ)そ禁中(きんちゅう)の作法、神事を先にし、他事を後にす。
 旦暮(たんぼ)敬神の叡慮懈怠(えいりょけたい)無く、
 白地(あからさま)にも神宮並(ならび)に
 内侍所(ないしどころ)の方を以て御跡(おんあと)と為(せ)ず。

宮中のしきたりは、総じて神事を先にし、それにしたがって他の事を行い、
朝夕神を敬う心がけを弛(ゆる)めることなく、
皇祖神をお祀りしている賢所(かしこどころ)と神宮には
決して足を向けてはならないということです。
                        順徳天皇「禁秘抄」より


もちろん、聖徳太子の昔も同じようなことが記され、
645年、大化の改新のときには、孝徳(こうとく)天皇に対して、
蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)の献言には、こうありました。

先(ま)づ以(もっ)て神祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いは)ひ鎮(しづ)めて、
然(しかう)して後に政事を議(はか)るべし

まず神々を祭り鎮めて、そののちに政治を行うべきであるということです。



さて。

近代において明治天皇さまもまた
「五箇条の御誓文」に表れているように、
このような神事第一の精神に支えられた皇室文化の伝統を、継承されました。
御製(ぎょせい)に、次の二首があります。


  神風(かみかぜ)の伊勢の宮居(みやい)の事をまづ
  今年のものの始(はじめ)にぞきく

  かみかぜの伊勢の宮居を拝(おが)みての
  後こそきかめ朝(あさ)まつりごと

一年の初めには、まず伊勢神宮のことをお聞き届けになり、
一日の初めにもまず伊勢神宮の神々を拝せられる。

そして、その神意をいただき、のちに政務に取りかかる、
というご意志がここにうかがえます。


先帝陛下は、このような明治天皇さまのお姿を常にお手本とされ、
祭祀を厳粛(げんしゅく)にお修めになりました。

平成の今上(きんじょう)天皇さまも、
まったく同様にそのお志(こころざし)をお継(つ)ぎになっておられます。



これは、遥か古代でも同じ。

ヲシテ文献によれば、建国以来・・・つまり少なくとも6000年前・・・
私見では約8000年前・・・から、
祭祀はアマカミのなさる、最重要なこととなっていました。

最初の法「トノヲシテ」・・・トの詔勅といいましょうか・・・にも、
その「ト」の字形そのものに、この意図が象形的に表されています。

to_wosite 
 アマカミは「ト」という字の形そのものに、
 ハニ(国土)をあらわす□の中に真直ぐに立ち、
 両手を高くアメに向かって広げ、
 宇宙原理の・・・つまり大自然の恵みを受け、
 それを惜しみなく皆に、分け与え続ける人なのでした。

 その恵みを受けるやり方、儀式が、祭祀だったのですね。

ですから、天皇陛下は太古から、今に至るまで、
国の一番尊い祭祀主であられるのです。

これこそが、最重要なこととして、
私たちも認識しなければ、いけないのではないでしょうか。



     ※ 手に入れた「群書類従索引(出版図書目録)」は
         「続群書類従完成会」TEL 03-3915-5621
                   FAX  03-3915-5830

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2006年3月 3日 (金)

古事記の位置とは

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日本の歴史と言えば、まず、古事記。
そして日本書紀と云うことになっていますが、
私は長いこと、何だか納得できない思いを抱いていました。


神話としても、なんだか粗雑な感じがするのです。
それが、一挙にすっきり納得できたのは、ヲシテ文献に接してから。
それでも、ことに古事記がなぜ、このように重きを置かれたか、
現在でもそれが続いているのかが、良く分かりませんでした。

それが、なかひでさまからのコメントで、
またまた「目からウロコ」という思いで、実態が少し分かってきたように思います。



(なかひで)
古事記ですと、神話のイメージを強く思ってしまいますが、
日本書紀ですと歴史書ですよね。あと、続日本紀へと続いてゆく訳ですから。

そもそも、国学の創始者の一人、塙保己一さんのころには、
古事記なんか歯牙にも掛けないような、
それこそ、偽書の扱いでしかなかった!

そのような代物が「古事記」なんですよね・・・


ええっ!!!

というわけで「ヲシテのクニ」での
私となかひでさまのやり取りを、その後に教えて頂いたことを含め、
整理してみようと思います。



(なかひで)
古事記はともかく、
『日本書紀』は、日本の正史です。
その後、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』……
と続いています。
ただし、ヲシテ文献の出現により、
「景行天皇57年までは、ヲシテ文献を正史とするべきである。」
びーちぇさんは、そう書かれていましたが、私も同じ意見です。


(びーちぇ)
では、江戸時代に偽書扱いであった古事記が、
このように、日本書紀と肩を並べることとなったのは、
なんといっても
本居宣長さんのせいだと思うのですが、
この古事記と言う歴史小説(文学)?!が
宣長さんの好みに合ったという訳なのでしょうか?

しかし、ヲシテ文献から見れば、
大陸風のシャーマニズムの感じが致します。

現代でいえば、山田風太郎とか。
文学として大好きな、隆 慶一郎のものとか。
大変似た書き方ですし、そういうものではないでしょうか?


(なかひで)
「古事記は、山田風太郎の調子」
まったく同感です。
「○○忍法帖」のノリですね。

『古事記』の書かれた時代に、思いを馳せますと、
‘風太郎調’発生の必然性というものが、自ずと
理解できるかも知れません。

『古事記』の書かれた時代は、女帝の立たれておいでだった時でした。
43代の元明天皇さんは、天智天皇さんの皇女でした。
壬申の乱の混乱から、抜けれそうで
なかなか収束したとは言えない様な時代。
42代の文武天皇さんの「お若きまま」にての崩御は、
人々の深き悲しみでした。
なにしろ、25歳のお若さでしたのです。

そこで、お母上にご即位をお願いすることが
最適の選択となったのでした。
元明天皇さんは、このような事情から天皇さまのお仕事を
お引き受けになられたのです。

時代の、潮流は、日本に押し寄せて来ていました。
隋が滅んで、唐の統一支配が始まって、もう100年ほどもたったときです。
唐というより、大唐帝国ですね。
朝鮮半島の全土の併呑を目指して、膨張する大唐帝国。

すでに、西暦663年、百済の滅亡。
さらに、西暦683年、高句麗の滅亡。

さあ、そうなると次の征服地はどこでしょう?


そのような世界情勢の中、
わが日本は、国史を焼損してしまうような内部の権力抗争の
渦の中にありました。

西暦707年に、ご即位になられた、
43代の元明天皇さんは、天智天皇さんの皇女でもありましたから。
白村江の敗戦の恐怖が、どうしても、み心のうちから離れなかったと
推測できるのではないでしょうか?

さらに、当時には、国家運営の鑑とすべき、国史は
焼けてしまって、役に立ちません。
元明天皇さんの、み心のより所となる
「なにか」が、必要。

そんなことから、私的に書かれたものが…『古事記』でした。
筆者の、太安万侶の筆の速さは、‘風太郎調’なのでしょう。
元明天皇さんからの、ご下命があったのが、和銅4年9月18日。
そして、書き上げて太安万侶の献上の日が、和銅5年1月28日。
数えてみると解るのですが、4ヶ月にも満たないのです。
これは、太安万侶の自慢の一つだったのでしょう。
『古事記』の序文に、大きく書いています、から。

これまでは、『古事記』の成立して行った時の話でした。
それから、1000年あまり経った時に、
またひとつの転機が『古事記』に訪れます。


国学の研究に邁進していた本居宣長は、深く悩んでいました。
‘からごころ’の完全な払拭を成し遂げるにはどうすればよいか。
この思いが、爪の先まで溢れんばかりのときに、
『古事記』と出合ったのです。

「これだ!」
こう叫んだ、本居宣長は、
師匠の賀茂真淵からの、破門通告も敢然として受けたのでした。

破門されることの、その意味を、
師匠の賀茂真淵が言わんとされていることを、
本居宣長は、重々承知していたのです。
古事記は、国学の本筋からしますれば極めて異質なものなのです。
このことを鴨真淵は心配したのでした。

しかし本居宣長はその後、常に賀茂真淵の霊位の書を掲げて、
尊敬の念を絶やすことが無かったのです。

『古事記』は、その扱いにおいて、極めて慎重であらねばならない!
私はそのように思っております。

本居宣長のように、ちゃんと本筋からの勉強をしたひとが、
古事記を読むぶんなら、さほど問題も起きないのでしょうが、
そうでなくて初心者がこのことを分からずに、
古事記を振り回してしまうと大きな錯誤を生じさせてしまうのです。

田中卓さん、所功さんが良い例ですね。


(びーちぇ)
何となくですが、分かったような気がいたします。
つまり、日本書紀は国史として大事なもの。

古事記は正式な歴史書(国史)ではなく、
元明天皇さまのお心安かれと、
太安万侶さんが一所懸命書かれた、
歴史小説とも言って良いような「私的な」歴史書なのですね?

だからこそ、さまざまの歌が記され、
ある意味感動的なエピソードが強調されています。

ヤマトタケ(日本武尊)さまでも、
父天皇に愛されていないのかもしれない・・・みたいな、
いわば悲劇の主人公に書かれていますよね?
これって、後世の源義経さんや、赤穂浪士にも通じるような、
日本人の好みや美学があるように感じます。

それにしても、趣味が違うと言えばそれまでなのですが、
天岩戸の
ウスメさんのストリップ踊りは、いただけません!

あのストリップの記述の元は、ニニキネさんが初の全国行幸をなされた時、
出迎えた
チマタカミ(サルタヒコ)に対して、
様子を見に行ったウスメさんが、
リラックスしてお話しできるようにと、機転を利かせて

「ムネアケ モヒボサゲ」
つまりは胸元を開け、腰のスカートをずり下げてという件を、
持ってきたのだと思いますが。

胸の豊かな谷間を見えるように、またおへそがチラと見えるように・・・
若いピチピチの女性が、この様子で話しかけたとしたら、
殿方は嬉しくなっちゃうと思うんですよね☆

天岩戸では、ひたすら清らかに、そして和やかで慰めに満ちた情景が
ヲシテでは記述されていますもの。
そして踊ったのは建国以来の
ナガサキ(汝が幸き)の踊りとあります。
心を慰める最古のお神楽なのでしょうね?



でも、元明天皇さまのお心がこの書「古事記」によって
慰められたとするなら、本当に良かったなあと思えます。


私も歴史小説は大好きですもの。
隆慶一郎さんの『花と火の帝』。
また北方謙三さんの『武王の門』は、後醍醐天皇さまの皇子が征西将軍宮として、
九州の菊池一族や阿蘇一族と共に戦われた・・・それを題材の小説です。

最後には北朝に下られるのですが、その場所が私の住んでいる所なのです。
またご廟も大事に祀られているのですよ・・・

懐良親王、良成親王の御所も、当地に有ったそうです。

しかし、話を戻して、
こういう成立の事情を良く知れば、
本居宣長さんが古事記をどのように思っていらしたかが、
うかがえるような気がいたします。

けっして安易に歴史の記録として、つまりは史書として、
大事にされた訳では無いようですね。
むしろ文学として現れた
「ヤマトゴコロ」を、
日本の精神を大事になさったのではと
なかひでさまのお話を聞いて思いました。

12:30 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

心にひびく「ウタ」 

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ますらをの かなしきいのち つみかさね  

つみかさねまもる やまとしまねを            

                 三井甲之(みつい こうし)


あの、三井甲之さんのおウタ(和歌)には、
想い出の深いものがありました。
もう20年以上にもなりますか、ヲシテ文献の研究の創始者の、
松本善之助先生の研究会の時に、
必ず唱える、和歌だったのです。

おもえば、近々の国難と申せますところの、
明治維新の際には、
多くの、国を思うお人たちが自らの命をいとわずに
運動に参加なされました。
吉田松陰先生の、あのおウタも思い出されます。

九州に、松本善之助先生のお供をさせて頂いた時は、
眞木和泉さんの墓参を、是非にと言うことで、
水天宮というのに、
あの時は、暑い盛りでした。     (なかひで)


     ※ やまとしまね「を」は、
       古代ヤマトコトバの助詞では、「お」につくります。

     ※ 眞木和泉
       
幕末の久留米水天宮の祠官で尊王攘夷の心篤き人。
       禁門の変に破れ、天王山に逃れるも新撰組に追いつめられ、
       銃弾を撃ち尽くし、割腹自刃する。        
       その壮烈さ、潔さには敵方の近藤勇が心打たれたと言う。
 



三井甲之さんのことは、なかひでさまに教えて頂き、初めて知りました。
いろいろ調べてみますと、素晴らしいお方です。


三井さんは明治時代に短歌革命を果たした、
正岡子規の流れをくむ歌人です。

子規の門弟といえばアララギ派が有名ですね。
そして正岡子規の提唱した「写生」については、
アララギ派内では斉藤茂吉らによる解釈などで、
その精神性が変容して行きました。

正岡子規の精神の継承者としては、
三井甲之さんの方が、より正当であるといえるようです。

しかし、三井甲之さんの歌や歌論は、
歌壇から不当に抹殺され続け
表舞台に出ることはありませんでした。
しかし、その流れは現在においても脈々として継承されて来ています。


私が感じたのは、本当に純粋な「やまとごころ」です。
そして、それゆえの・・・白樺派との対立です。


一筋に「やまとごころ」を守ろうとされる三井さんに、
かの
武者小路実篤は、反論を浴びせかけました。

当時は大正ロマンチシズムの時代。
世の中は西洋の自由思想、個性尊重に酔っていました。
そこから、
武者小路さんが「世界的・人類的」という思想。
そして、三井さんは「国の伝統的なこころ」を尊重なさっているのです。

でも、まるで論がかみ合っていません。立場がはっきり異なるからですね。


「君たちが乃木大将を詩人として、理想的の人としてまつり上げるのは、
 明らかに西洋文明、西洋思想の模倣を憎むあまりに
 後戻りをしようとする運動に他ならない。」

「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と云い」、

乃木大将について
「人類的の分子の少しも持たない人」としています。

その殉死について
「・・・かくて自分は乃木大将の死を憐(あわ)れんだのである、
 もし彼にして名誉心以上の動機で死んだのならば。

 ・・しかし残念なことに人類的なところがない。
 ・・西洋思想によって人間本来の生命を目ざまされた人の理性は
 それを賛美することを許さない。」

ときっぱり意思表明しています。 

「西洋文明・西洋思想にふれればふれる程、
 吾人(我々)は益々(ますます)自覚を得られるのである。
 自由を得られるのである。
 無知なる行動をせずに真に自己の価値を発揮する道を知るのである。」


でもね・・・これは言い過ぎですよっ!
三井さんはきっと、
西洋文明の思想的なマイナス部分
感じ取っておられたのではないでしょうか。

それに言わせて頂くならば、武者小路さんたちは恵まれた階級の、
いわば、おぼっちゃま達です。
国民の多くの、食うにも困る人たち(ことに東北の農民)の苦しみは、
おそらく実感としてはお分かりにならなかったと思われます。

しかし三井甲之さんは、そうではなかったのです。
ひとりひとりの民あっての国、であったのですから。

また、彼にとって不利だったのは、
あの2・26事件を引き起こす原因となった、北一輝と、
思想的に同一視されてしまったことが挙げられます。

しかしそれは、まったく違っています。
もっと本筋の日本の深い心の思いを、
言葉の持つあやうさを知りつつ、伝えると言う、
言葉の持つ生命、また使命と言うものに、生涯を捧げられたのです。

彼は国粋主義の人ではありませんでした。
雑誌「日本及日本人」に、三か年連載したゲーテの『フアウスト』訳は、
その表れではないでしょうか。

また水島総さんは、三井さんのこのウタについて、
次のように論じておられます。


この歌は、私が尊敬する故村上一郎の「浪漫者の魂魄」という評論集に
引用されている。
村上は、その中にある「尚武のこころとは何か」「日本暴力考」の章で、
日本古来の「武」の心とは、
人の生死に「あはれ」と「羞らい」を知る「もののふ」の心であったと
指摘している。

日本人にとって戦いは、単に敵を抹殺、殲滅、命を奪うだけの、
いはば西欧の「狩猟」のような戦いでは決してなかった。

日本人には、他者の命を奪うこと、これはどんな敵であっても、
あるいはそれが人間以外の動物であっても、
それはどこか「羞ずかしいこと」であり、
羞恥の心にも似た感情が常にあったのである。

村上は、古事記から説き起こし、
日本最初の武人たる須佐之男命(すさのおのみこと)が、
「荒ぶる魂」の暴力だけではなく、
「あわれ」のこころを体現する涙の人であったこと、
そして、その後継者たる日本武尊(やまとたけるのみこと)もまた同様であり、
万葉の防人から源平の戦い、戦国から江戸、明治維新、
そして、大東亜戦争にいたるまで、
私たち日本人の魂には、そういう心根が存在したと主張する。


 かくすれば 

 かくなるものと知りながら
         
 やむにやまれぬ大和魂           吉田松陰



もうひとつ、すばらしいウタを見つけましたので、ご紹介しておきますね。
晩年歌壇に忘れられたかのような三井さんは、

『墓碑銘−石にしるすことば』書かれました。

しかし、どうもお墓には刻まれなかったみたいですね・・・
山梨文学館にはこの言葉が、

自筆のままに
、シルクスクリーンにて再現されて展示されているようです。



『石にしるすことば』

コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。

コノ石ニ
コトバヲシルス。


人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。


コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。


イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。


なんとも素晴らしい言葉ではありませんか!
松本先生は、これを深く感じ取られて、
門下の方々に伝えられたのだと思います。


失われてしまった、消されてしまった,

「古代ヤマトコトバ」

ヲシテという

「縄文文字」を思う時

この言葉を噛み締めずにはいられません・・・


もうひとつ感動的なのは、
忘れられていた歌人「
三井甲之」の全集を出版しようと努力なさった、
吉川悦司さんのことです。
静岡市で電化ストアを営みながら、独力で
『三井甲之全集』を編纂されていたそうな。
そして、残念なことに未完のまま亡くなられましたが、
吉川さんは密かに、この墓碑銘を自分で石に刻んでおられたのだそうです。



完成しなかった三井甲之全集」by 福岡哲司

吉川さんの奥さんが

「あっ」

と声を挙げた。

「主人が石板を買ってきて刻んでいたのはこの詩です。」

ぼくも吉川さんがみずからノミでこつこつこの詩を刻んでいたのを知っていた。

この詩の石碑を芸術の森に建てさせてくれないかという申し出を、
以前、 ぼくは断っていたのだ。

小さな石板のようなものだったら展示に使えるかも知れないと言った。

『石にしるすことば』碑も未完に終わった。

ご家族は甲府の羽黒の青松院の三井甲之の墓に参った。
そのあと、「ごあいさつだけでも」というので、
敷島の三井さん宅にお連れした。
玄関先でというのを三井広人さんや奥さんのご厚意で座敷に上がった。

 吉川さんの奥さんは

「先生をあれほど尊敬し続けられたなんて、主人はほんとうに幸せでした。」

と言った。

甲之に対する思いが少しはわかったような気がするとも言った。

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