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2006年3月12日 (日)

励ましのたより

kusabana


この「談話室」を開いてから、まだ半月なのですが、
地味なエントリにもかかわらず、嬉しいことに、
すでに870アクセスを越えています。
一日平均で、70前後。

読者の方からのお便りも頂き、
重要な情報や、アドバイスをして下さることも多くなりました。
今日はその中から、皆さまにご紹介したいと思います。



「賀茂真淵の書簡について」 Iさまより


びーちぇさんが読みたいと書かれていた真淵の、叱責の書簡は、
石水会館(津市・百五銀行の関係の私設美術博物館)所蔵です。


明和3年9月16日付。
「是は甚小子が意に違へり
いはばいまだ万葉其他の 他古書のことは知り給はで
異見をたてらるるこそ不審なれ
か様の御志に候はば 向後小子に御問も無用の事也」

「これは、はなはだ私の気持ちと違っています。
他の基本の勉強もせずにして、
いっぱしのことを言うものではない。
そんな心ならば、今後私への質問などお断り申し上げる。」



明和3年(1766)といえば、真淵と知りあってから3年くらいですね?
正式入門が知りあってから、1年経った明和元年。(1764)
次の年には、宣長は真淵の書き入れた『古事記』の借覧を願ったのですが、
まず万葉からと断られています。
宣長の古事記研究は、明和元年からでした。
『先代旧事本紀』を共に、度会延佳本で照合をし、勉強をしています。

前回では私も、なかひでさまと同じ印象を得たと書きましたが、
改めて調べましたら、『古事記』に対しての危惧にまで発展させて
考えるほどのことも無かったかもしれませんね。
とは言いましても、真淵の心の奥底に、
『古事記』の取り扱い、解釈に対しての慎重さはしっかりとあったと思います。

本居宣長記念館のサイトに宣長略年譜がありますので、ご参考までに。


また、慶次2000さまから、
こんな素敵なコメントを頂きました。


今はびーちぇさんは吸収するときだと思います。
これだと決定づけないで(私の意見も含まれます)、
いろんな文献やいろんな説に触れる、
そのほうが遠くて近道のような気がします。

私はそうやって今も考えています。
これからどんな発見がされて説が出てくるかわからない。
だから、いつも新鮮。

思想の根本は動かしませんが、柔軟にいろいろな言葉を聞くことは、
思想だけでなく人間性も増加させます。

びーちぇさんの古学研究に幸ありますように。


慶次さま、有り難うございます。
本当に励まされます。
またいつでも、気がおつきになりましたこと、お知らせ下さいませね?




なかひでさまからは、またまた新しい情報が。


きょうは、時間が取れましたので、「いせの会」のCDを聞きました。
やっぱり、池田先生の話を聞きますと、違いますね。

『禁秘抄』のこと、本当に良く判りました。
やっぱり、原文を読むことだと、いつもおしゃっておられる通りです。
順徳天皇さまのお気持ちが伝わってくるようでした。

それにしましても、順徳天皇さまとは、
心から崇敬したくなるようなお方様ですね。

もちろん「賢所(かしこどころ)」もそうですが、
その、内裏でのなかの‘石灰壇’の大切さが、ひしひしと解って来ました。


天皇さまが、毎朝日の出のころに、
伏してお祈りしてくださっておられたのですね。
全国民のために!

それも、平安京のころの話で、
もっと昔は、地面に伏してお祈りくださっておいでだったとの事。
これを、聞きまして、なんだか涙が出てまいりました。

夏はそうでもないでしょうが、冬の朝の寒さはひとしおです。
女性のお方に、天皇さまのお仕事をお願いするのは、
「そんなこと!」と言うのは、無理も無いことです。
お体に障ります。



それにしましても、
『大内裏図考証』をお書きになられた、
裏松光世(うらまつみつよ)さんも大したものです。
‘石灰壇’の位置がはっきり解るのも、裏松さんのおかげです。

寒い冬の明け方、‘石灰壇’に伏してお祈りしてくださる
天皇さまのお姿が、『大内裏図考証』の図に浮かんでくるようです。


dairi


考えてみますと、国学の定義も、見直してゆく必要があるかもしれません。
日本の真実を求めようとするのを、目的とすべきならば、
順徳天皇さまや裏松光世さんこそ、
特段に良い意味で顕彰されるべきであるとも、私には思えるからです。


慶次さんが、
国学の基礎を齎したというべき「契沖」の名を挙げておられました。

それで、思い出しましたが、
「荷田春満」が早い時期に、大嘗祭の祭典のことの報告書を書いています。

といいますのも、
もちろん私も、国学とは、従来からのように、
和歌も・国語も史書も、大切と思っております。
しかしながら、忘れてならないのが、
有職故実(ゆうそく・ゆうしょく・ゆうそく、こじつ)の方面のこと。

これは、記録類には残ることの極めて稀な、
本来の意味でのひとつの国学であると、私は思っているのですが・・・


「大嘗祭のお祭りをとり行った、何年何月何日に。」
といっても、
いったいその、お祭りの、
天皇さまのお召しになられたお着物が、どんなお召し物であったのか?
そのときの、お召し上がりのものはどんなだったのか?
あるいは、お祭りの前に行う、おん禊(みそぎ)は、
どの様に、また何処で、川の水にお入りになられるのか?
これらを知りたいとはおもいませんか?



荷田春満は、かなり詳しく記録にとどめてくれました。
平安時代からも、出てきておりますが、
近世では「壺井義知」もまた出色でありましょう。
お弟子さんが続々と出ましたこともあります。

基礎固め、とでも申せましょうか。
それら、地道な考証の作業があってこその、
その後の国学の発展期を迎えたと思うのです。

賀茂真淵も、このことを言いたかったのではないか。
このように追想することもあります。
もっと、『万葉集』をやれ。と。
それは、すなわち、基礎固めであると。


何しろ、日本の文化・文明は、とっても奥が深いので、
簡単にひと括りにすることはむつかしいと思います。

しかしながら、本居宣長のその後の業績には
優れたものが多くあります。
国語学では、『あゆひ抄』・『かざし抄』の
富士谷成章(なりあきら)と双璧ですし、大したものだとおもいます。
またその後の、“やちまた学者”の輩出を考えると、
極めて讃えるべきでしょう。

なんだか、長話になってしまいました、
もともとは、
「有職故実(ゆうそくこじつ)」を、お忘れなく!
の一言を申し上げたかったのでした。


(^o^;)・・・・!?

浅学のびーちぇと致しましては、焦りますっ!
殆どが知らないお名前なのですもん。。。。

ただ、お1人だけひらめいた!
荷田春満(かだのあずままろ)さん・・・カダさんって・・・
もしや、カダノミコトに関係あるかなあ?

当たりっ!

京都伏見神社の神官のお子さんだったんですって、うふ☆


伏見神社は、由緒正しいカダノミコトを祀った神社なんです。
ヲシテのクニに行って読んで下さいね?
・・・ええとね、『ウケモチの裔「カダノミコト」 ・・お稲荷さんになった方』


契沖さん、荷田さん、真淵さん、宣長さん、篤胤さんというひとつのラインがあり、
これは、思想的本流であったのでしょうね?

そして、その基礎がためというか、検証として、
塙保己一さん、裏松光世さん、壺井義知さん、富士谷成章さん方が、
色々なことを調べ、研究なさり書き残して下さった。
このお方々も国学者として、大変ご立派なお仕事をなさった。
そう理解すれば良いのでしょうね、きっと・・・



閑話休題。

最近の産経新聞では、飛鳥、奈良、平安時代の御所の跡などが発掘された
ニュースが、伝えられています。

裏松光世さんが、その昔調べて図にされた、御所、内裏の図。
それが、目に見えるかたちで証明されてきているのですね?

さて、ネット上で素敵なものを見つけました。
なかひでさまの文中にリンクしてありますが、
大変美しい、石灰壇(いしばいだん)の図絵です。


ここで、連想が働きました。
・・・ちょっと畏れ多いんですが、庶民生活の話をします。

私の地方では、土蔵の床を石灰(シックイ)で固めて湿気を防ぐのです。
ハットジックイと言ったそうな。

母に聞きましたら「八斗漆喰」で、
嘉永7年(1854年)に造られた、かの有名な通潤橋で、
水を漏らさぬために工夫された、新発明の漆喰とのこと。

高温多湿の熊本で、お米や味噌、漬物、そして道具類を保つために、
土蔵の床をシックイで塗り固めていたそうな・・・
それも、近年は失われたのですが。
昭和30年くらいまでは、家の土蔵もそうであったそうです。
ヒンヤリとして、なおかつカラリとしていて大変具合も良かったみたいです。



すみません。元に戻ります。

この裏松光世さんがすごいことをなさったのは、
当時の天皇さまと関わりが有るのです。


119代・光格天皇さまは、閑院宮さまのそれも第6王子であられた、
ご幼名祐宮(さちのみや)さま。
皇位を継ぐ可能性もなければ、宮家を新たに立てる事も出来ないので、
いずれは出家してどこかの門跡寺院に入るだけという、
限られた未来しかないはずのお方でした。

ところが、先代の後桃園天皇が22歳の若さで急逝なされ、
皇子もおられなかったため、急遽、たった9歳の祐宮・師仁親王は、
継承者に選ばれることとなったのです。

幸い女性天皇として中継ぎをなされた、
後櫻町天皇さま(ご譲位の後でしたが)のさまざまなお心遣い、
感化を受けられ
、名君と称えられる天皇さまになられました。


sakura


当初は、幼い上に〈先帝御不例の時の御養子〉だからと、
一段軽く扱う輩もあったとか。
いや、幕府からさえ軽く見られている、という噂までたっていたようです。
しかし学問にはご熱心で、
とりわけ
「有職故実」などの歴史的な勉強に、
自ら没頭なさるようになりました。
それはおそらく、周囲の軽視をはねのけたいという思いも
あってのことでしょう。


やがて伝統に関するご関心、ご勉強は、
いにしえの風儀を復活しようとする強いご意志へと変わってゆきました。

例えば新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)の古式復活。
天明の大火災で焼失した御所を再建する際は、幕府の反発を押し切って、
平安時代のオリジナルに近いプランで可決させたりもなさったのです。

その時、復古式・御所のプランの基を作ったのは、
宝暦事件に関与した罪で永蟄居(えいちっきょ)・・・
外出を禁じ、一室に籠もらせる刑罰に服していた

裏松光世(うらまつ・みつよ)さん。

宝暦年間から天明八年(1788)に許されるまでの約30年間、
ずっと自宅に押し込められていたのですが、
そのあいだに古文献や古絵図を詳しく調査して
平安大内裏の研究
『大内裏図考証』をまとめ上げていました。

今の京都御所は、裏松さんのこの地道な研究なしには、
また、光格天皇さまのいにしえの伝統を復活させようとの、
熱い御心なしには、現存しなかったのです!



また付け加えますが、
この古代への篤い想いを抱いた天皇さまは、
宣長さんの
『古事記伝』初帙をご覧になられています。

寛政2年12月26日付横井千秋宛書簡によれば、この天覧は、
最初、横井千秋より
妙法院の宮の御覧に入れたところから始まったといいます。
内容に感心した宮が、実弟である天皇さまに上げて下さったのだそうです。

宣長さんも、この時代は高位高官の御方々に認められ、
篤い支援をを受けられるようになっていたのですね☆

このようなことからも、
国学といえば、万葉、古事記という風潮が大きくなり、
他の大事な研究や、国史である日本書紀などが、
少し影が薄くなり、現在に至っていると思えます。


大変大胆では有りますが、
私たちヲシテ研究を真剣に取り組んでいる者たちは、

国史の神話部分を、
本来の正統のものに還したいと願っているのです。

だってね・・・この記紀二書にあることはすべて、網羅され、
その上、
抜け落ちてしまった、古来の日本の思想、哲学、神学、政治学、医学他すべてを、
固有文字と共に、取り戻すことが出きるのですから。

まだ他国の影響を受けていなかった時代の、
純粋なこの国の心を受け継ぎ、
まっすぐに学ぶことが出きるのです!
なんという幸せで、尊いことでしょうか!



最後に「Speek Easy社会」の真名さまのサイトより
「後櫻町天皇の苦労と宮中祭祀の問題」というエントリを、
ぜひお読み頂きたく思います。

11:15 午後 |

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