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2006年3月 3日 (金)

古事記の位置とは

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日本の歴史と言えば、まず、古事記。
そして日本書紀と云うことになっていますが、
私は長いこと、何だか納得できない思いを抱いていました。


神話としても、なんだか粗雑な感じがするのです。
それが、一挙にすっきり納得できたのは、ヲシテ文献に接してから。
それでも、ことに古事記がなぜ、このように重きを置かれたか、
現在でもそれが続いているのかが、良く分かりませんでした。

それが、なかひでさまからのコメントで、
またまた「目からウロコ」という思いで、実態が少し分かってきたように思います。



(なかひで)
古事記ですと、神話のイメージを強く思ってしまいますが、
日本書紀ですと歴史書ですよね。あと、続日本紀へと続いてゆく訳ですから。

そもそも、国学の創始者の一人、塙保己一さんのころには、
古事記なんか歯牙にも掛けないような、
それこそ、偽書の扱いでしかなかった!

そのような代物が「古事記」なんですよね・・・


ええっ!!!

というわけで「ヲシテのクニ」での
私となかひでさまのやり取りを、その後に教えて頂いたことを含め、
整理してみようと思います。



(なかひで)
古事記はともかく、
『日本書紀』は、日本の正史です。
その後、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』……
と続いています。
ただし、ヲシテ文献の出現により、
「景行天皇57年までは、ヲシテ文献を正史とするべきである。」
びーちぇさんは、そう書かれていましたが、私も同じ意見です。


(びーちぇ)
では、江戸時代に偽書扱いであった古事記が、
このように、日本書紀と肩を並べることとなったのは、
なんといっても
本居宣長さんのせいだと思うのですが、
この古事記と言う歴史小説(文学)?!が
宣長さんの好みに合ったという訳なのでしょうか?

しかし、ヲシテ文献から見れば、
大陸風のシャーマニズムの感じが致します。

現代でいえば、山田風太郎とか。
文学として大好きな、隆 慶一郎のものとか。
大変似た書き方ですし、そういうものではないでしょうか?


(なかひで)
「古事記は、山田風太郎の調子」
まったく同感です。
「○○忍法帖」のノリですね。

『古事記』の書かれた時代に、思いを馳せますと、
‘風太郎調’発生の必然性というものが、自ずと
理解できるかも知れません。

『古事記』の書かれた時代は、女帝の立たれておいでだった時でした。
43代の元明天皇さんは、天智天皇さんの皇女でした。
壬申の乱の混乱から、抜けれそうで
なかなか収束したとは言えない様な時代。
42代の文武天皇さんの「お若きまま」にての崩御は、
人々の深き悲しみでした。
なにしろ、25歳のお若さでしたのです。

そこで、お母上にご即位をお願いすることが
最適の選択となったのでした。
元明天皇さんは、このような事情から天皇さまのお仕事を
お引き受けになられたのです。

時代の、潮流は、日本に押し寄せて来ていました。
隋が滅んで、唐の統一支配が始まって、もう100年ほどもたったときです。
唐というより、大唐帝国ですね。
朝鮮半島の全土の併呑を目指して、膨張する大唐帝国。

すでに、西暦663年、百済の滅亡。
さらに、西暦683年、高句麗の滅亡。

さあ、そうなると次の征服地はどこでしょう?


そのような世界情勢の中、
わが日本は、国史を焼損してしまうような内部の権力抗争の
渦の中にありました。

西暦707年に、ご即位になられた、
43代の元明天皇さんは、天智天皇さんの皇女でもありましたから。
白村江の敗戦の恐怖が、どうしても、み心のうちから離れなかったと
推測できるのではないでしょうか?

さらに、当時には、国家運営の鑑とすべき、国史は
焼けてしまって、役に立ちません。
元明天皇さんの、み心のより所となる
「なにか」が、必要。

そんなことから、私的に書かれたものが…『古事記』でした。
筆者の、太安万侶の筆の速さは、‘風太郎調’なのでしょう。
元明天皇さんからの、ご下命があったのが、和銅4年9月18日。
そして、書き上げて太安万侶の献上の日が、和銅5年1月28日。
数えてみると解るのですが、4ヶ月にも満たないのです。
これは、太安万侶の自慢の一つだったのでしょう。
『古事記』の序文に、大きく書いています、から。

これまでは、『古事記』の成立して行った時の話でした。
それから、1000年あまり経った時に、
またひとつの転機が『古事記』に訪れます。


国学の研究に邁進していた本居宣長は、深く悩んでいました。
‘からごころ’の完全な払拭を成し遂げるにはどうすればよいか。
この思いが、爪の先まで溢れんばかりのときに、
『古事記』と出合ったのです。

「これだ!」
こう叫んだ、本居宣長は、
師匠の賀茂真淵からの、破門通告も敢然として受けたのでした。

破門されることの、その意味を、
師匠の賀茂真淵が言わんとされていることを、
本居宣長は、重々承知していたのです。
古事記は、国学の本筋からしますれば極めて異質なものなのです。
このことを鴨真淵は心配したのでした。

しかし本居宣長はその後、常に賀茂真淵の霊位の書を掲げて、
尊敬の念を絶やすことが無かったのです。

『古事記』は、その扱いにおいて、極めて慎重であらねばならない!
私はそのように思っております。

本居宣長のように、ちゃんと本筋からの勉強をしたひとが、
古事記を読むぶんなら、さほど問題も起きないのでしょうが、
そうでなくて初心者がこのことを分からずに、
古事記を振り回してしまうと大きな錯誤を生じさせてしまうのです。

田中卓さん、所功さんが良い例ですね。


(びーちぇ)
何となくですが、分かったような気がいたします。
つまり、日本書紀は国史として大事なもの。

古事記は正式な歴史書(国史)ではなく、
元明天皇さまのお心安かれと、
太安万侶さんが一所懸命書かれた、
歴史小説とも言って良いような「私的な」歴史書なのですね?

だからこそ、さまざまの歌が記され、
ある意味感動的なエピソードが強調されています。

ヤマトタケ(日本武尊)さまでも、
父天皇に愛されていないのかもしれない・・・みたいな、
いわば悲劇の主人公に書かれていますよね?
これって、後世の源義経さんや、赤穂浪士にも通じるような、
日本人の好みや美学があるように感じます。

それにしても、趣味が違うと言えばそれまでなのですが、
天岩戸の
ウスメさんのストリップ踊りは、いただけません!

あのストリップの記述の元は、ニニキネさんが初の全国行幸をなされた時、
出迎えた
チマタカミ(サルタヒコ)に対して、
様子を見に行ったウスメさんが、
リラックスしてお話しできるようにと、機転を利かせて

「ムネアケ モヒボサゲ」
つまりは胸元を開け、腰のスカートをずり下げてという件を、
持ってきたのだと思いますが。

胸の豊かな谷間を見えるように、またおへそがチラと見えるように・・・
若いピチピチの女性が、この様子で話しかけたとしたら、
殿方は嬉しくなっちゃうと思うんですよね☆

天岩戸では、ひたすら清らかに、そして和やかで慰めに満ちた情景が
ヲシテでは記述されていますもの。
そして踊ったのは建国以来の
ナガサキ(汝が幸き)の踊りとあります。
心を慰める最古のお神楽なのでしょうね?



でも、元明天皇さまのお心がこの書「古事記」によって
慰められたとするなら、本当に良かったなあと思えます。


私も歴史小説は大好きですもの。
隆慶一郎さんの『花と火の帝』。
また北方謙三さんの『武王の門』は、後醍醐天皇さまの皇子が征西将軍宮として、
九州の菊池一族や阿蘇一族と共に戦われた・・・それを題材の小説です。

最後には北朝に下られるのですが、その場所が私の住んでいる所なのです。
またご廟も大事に祀られているのですよ・・・

懐良親王、良成親王の御所も、当地に有ったそうです。

しかし、話を戻して、
こういう成立の事情を良く知れば、
本居宣長さんが古事記をどのように思っていらしたかが、
うかがえるような気がいたします。

けっして安易に歴史の記録として、つまりは史書として、
大事にされた訳では無いようですね。
むしろ文学として現れた
「ヤマトゴコロ」を、
日本の精神を大事になさったのではと
なかひでさまのお話を聞いて思いました。

12:30 午後 |

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