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2006年5月25日 (木)

「ヤマトタケ」のお名 松本先生の本より

 

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ヤマトタケさまのお名について一般的には知られていないことを、
松本善之助先生が、ご著書「秘められた日本古代史 ホツマツタへ」にて、
解説しておられましたので、ご紹介したいと思います。

 

【タケルかタケか】

ヤマトタケのミコトは現在ではタケルノミコトと、をつけて呼ばれています。
しかしこれは誤りで、ホツマツタヘには「タケ」とあって
「タケル」ではないのでした。
「タケ」のはイタ即ち非常にケは気高いという意味でした。

「タケル」というのは古代語では精神異常ということで、
ことに性的に感情が高ぶり不安定な精神状態になっていることを指しました。
したがって、ヤマトタケのミコトは絶対にタケのミコトでなければならず、
タケノミコトなどとは呼ばれるべきではないのです。
                             (松本善之助)

 

皆さま、ご存知でしたでしょうか。
私もびっくりして、調べてみました。
確かに今の辞書にも「タケル」という動詞にはそのような意味があるのです。

また面白いことに、80才になる母の話ですと、
私の住んでいる熊本県八代では、今でも年配の人は、そのような意味で、
使うことがあるそうなのです。

「えろう苦しがってさい、タケラして、オメキ散らさいた・・・」
「大変苦しがってなあ、気が違ったように叫びたてていたよ・・・」
という意味です。
また、いわゆる性的な衝動が止まらなくなった時にも、使うのだとか。
そういえば・・・と思われる方もいると思います。
サカリのついた雄馬などが、猛りすぎて、相手の雌馬に怪我をさせた」などと。

 

つまりは、人名に当てるなど大変失礼な言葉。

それゆえ、この名をクマソタケル(本名・トリイシカヤ)が奉ったはずがないのです。
ヲシテ文献では「タケル」は理を捨て、我が欲望を欲しいままにした人という意味で、
ハタレとか、オロチという悪人への呼称と同じに「人でなし」としているのですね。

 


クマソは、今の宮崎県西都市の付近で大きな勢力のあった豪族。
その反乱は二度にわたっています。

一度目はスヘラギ・ヲシロワケ(景行天皇)さまにより、平定されました。
その時の長の娘と、一族の若者であったトリイシカヤを妻合わせ、
何年かその地におとどまりになって教導され、旧領を統治させるという、
まことに行き届いた処遇をなされたのです。

それなのに15年後、そのトリイシカヤが「タケル」となって、
ヲヲヤケに背いたのです。

決められていた税を収めないばかりか、住民に乱暴を働き、
その圧制に困り果てた住民から討伐軍派遣の訴えがあり、
朝廷から、コウスノミコを総大将に軍の派遣となりました。

コウスノミコにお名を奉ったくだりの原文は
まことに素晴らしいので、直に読んでみて下さいね。

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ヤマトタケとのお名は、
もちろんその武勇を称えて捧げられたのですが、
松本先生のお名の「タケ」の解釈は、こうです。

 

イタの略であり、すなわち「非常に」ということで、
は「気高い」という意味である。

 

これも大変新鮮な、素晴らしい解釈で、
ある意味、目からウロコの思いがしました。

考えれば、は貴い字です。
タカミムスビのタであり、クニをタス(治める)のタでもあります。
そしてなによりのカラ、稲を育てる田んぼのタでもあるのです。

子音はアメからの3本の光が中心に集まる形をしていますね。
母音のアはウツホであり、見えない精神や心の構成要素です。

ウツホがあればこそ、ヒトとなるとは、
重要な縄文生命哲学の説くことでありました。

は見える世界です。
そしてという明るいエネルギーがしっかりと立っています。

そして母音のミヅであり、見えるけれども形を自由に変えます。
そして、万物を潤していく・・・そんな風にも私は感じました。

 

ここで、唐突に私が連想したのは、なんとも場違いなのですが、
あの水戸黄門のドラマで印籠を見せられ、人々が畏れかしこむ場面です。

「ナンヂはたれヒトぞ」と死に行くタケルが問う答えに、
「スへラキのコの コウスなり」とのお答えです。

ここで、きっとタケルは「ハハーーーッ」と、畏れいったのではないでしょうか。

 

この時、皇子の女性姿の輝きは、ただの美貌ではなく、
その心の高貴な輝きであったこと。
そしてまた、力の武勇というよりは、
皇子であられるのに、我が身を省みず、人を頼らず、
単身で危険にも立ち向かう、その勇気に畏れいったと私は思うのです。
武という言葉の本質にあるその威き、輝ける勇のこころでしょうか。

そうであれば松本先生の解釈が、心から納得できますよね?

 

ヤマトタケ・・・すなわち宇宙原理にかなったで治める朝廷に、
ひときわ気高く輝くお方と。

 

 

驚いたのはもう一つ。
松本先生によれば、
「タケ
ノミコト」になったのは、どうも明治後期、
ある1人の学者さんの説によるものらしく、
それが独り歩きをしてしまった・・・らしい。

 

本居宣長「ヤマトタケ」と、その漢字名に振り仮名をしていますし、
そのお名についても古事記伝の中で一文で表しているそうです。
現代語で書きますと、

「ヤマトタケのミコの、お名前の意味は、
 前の文に大倭の国とあるのを、承けているのを見るべきである。
 日本の西の方には、我に並ぶような建き人はいない。
 しかし、我らになお勝って建き男子が倭の国にはいたという、
 意味を持って考えるべきである」

 

宣長の直接手にした古事記の古い写本や版本類に、
ほとんど「タケ」とカナがふられていたのを尊重したからだと思います。
その古書は例えば、吉田兼永筆本、寛永版本、出口延佳本のようなものです。
(中略)・・・ついでながら、日本書紀の写本でも京都の北野神社蔵の吉田兼永本は
「タケ」とあって「タケル」とはありません。
                                 (松本善之助)

 

松本先生の御本からの引用を続けましょう。

 

明治末になって出版された飯田武郷の『日本書紀通釈』という大部な書物があります。
これは日本書紀の解説書として非常に幅をきかしていた書物でした。
この本の千五百七十六頁に次のように書かれているのです。

「武を古くはタケと唱えたれども、梟師(タケル)が献りたるならば、
 もとはタケルと唱奉りたるなるべし。
 されば此尊の御名代として定め給ひし建部をもタケルベと訓ればなり」

これでみると、どうも「タケル」説は武郷らしいといえるかも知れません。
このことを十何年か前に出た丸山林平『上代語辞典』(昭和42年)は、
この『通釈』の言を引用し、
「(武郷説に影響されて)その後、ヤマトタケルノミコトと読むものが多くなった」
と書き、強い言葉で、この「タケル」という読み方に反対しています。

「これは断じて誤りである。川上梟師は、尊の武に屈し、
 その武を讚えて御名を奉ったので、自分の梟師(タケル)の称を献上する等の
 不遜な心ではなかったであろう。
 然も梟師は中央では地方の夷族の長を呼んだ賎称である」

この説の中、「タケ』の語義を「武を讚えて御名を奉った」とするのは
未だしの感があるとしても、タケル説を排する理由のほうは、まったく正しいと思います。
そしてまた、武郷の建部説に対しては、次のように説いています。

「また、日本武尊の御名代部の式部、建部などは、タケベと読むべきこと
 尊の御子稲依別王の裔の本貫の一なる近江国神崎郡の旧在名の建部をタケベと読み、
 尊の裔たる犬上建部君をイヌガミノタケベノキミと読むべきなどからしても
 明らかである」

このように、現在の学界で、正しい説を勇気を以てただひとり敢然と言い切った
丸山氏も、数年前に亡くなりました。いかにも残念なことです。
                                         (松本善之助)

 

 

 

松本善之助先生が亡くなられて、もうまる4年になるでしょうか。
この御本「秘められた日本古代史 ホツマツタへ」について
少し書いておきましょう。
私の読みましたのは、第9刷で、1991年の版。出版は毎日新聞社です。

 

初版は1980年となっており、当時松本先生が渾身のご研究をもとに、
書き下ろされたものです。
ですからもう25年以上前で、現在と較べますと文字の意味、解釈などに
当然の事ながら、違いが出ています。

 

また、もしお手に入れてお読みになるとすれば、
池田先生が現在排しておられる「直訳文」を書かれていることにも、
あるいは疑問を感じられる方もいると思います。

しかし、この頃は、直訳文の弊害がどなたにも(池田先生にも!)
分かっていなかった時代のようです。

 

松本先生のご指導を受けた方の中、
ご一緒に、地道に研究を続けることなく、
まもなく独自の路線で我が道を行かれる方が増えました。
そしてその後、どうなったか。

ヲシテ文字の研究も結局は深くは為されず、
そのためか真実から遠ざかっていかれました。
しかも、それに気がつかれていないようなのが、コワイことです。
漢字の呪縛・・・つまりは大陸思想の影響から抜けられていません。

今やその方達は、ヲシテ文献の正当性や貴さに対し、
しっかりと足を引っ張る存在に、なってしまわれたのです。

 

しかし、その方たちの誤訳に満ちた漢字仮名交じり直訳と、
このご本の松本先生の訳は、形は五七でも、まったくレベルが違う。

 

漢字とカナ、仮名の使い分けの緻密なこと・・・
まるで精神が違うと私は感じました。一口にいえば、ミヤビのお心です。

また、先生はウタを詠まれるお方でありましたから、
その五七の調べには、直訳を超えたホンモノの美しさ(芸術性)があります。
だからこそ、人生のすべてを、誠実に真実を証すためにかけられた、
お心が読み取れるのです。

そして、それについての現代文の解説の素晴らしいこと、深いこと、豊かなこと!
たとえ、今の時点では解釈が違う部分があっても、
にもかかわらず、古来の精神が真っ直ぐ伝わってくるのです。

そして、このような松本先生のお心をしっかり受け継がれ、
誠実に研究を進めてこられた池田先生は、
現在、この漢字仮名交じりの直訳文を排されました。

これは、実に正しいことと思います。

 

なぜなら、ごく初学の時に、私もその罠にはまりそうになったから、
実に身にしみて分かるのです。

五七のリズムが、あまりにも美しく格調が高くて、
なんとか原文と対比させ、意味を分かりつつ朗詠したい。
新米なのに生意気なことに、そのように思ってしまったのです。

その直後に研究所とご縁が出来、
先生に直訳をやめるようにとのご忠告をいただいたのです。
大変ていねいにご説明いただき、なるほどと思いました。

 

「朗詠したければ、ヲシテを直に読み上げなさい」

そして、文の意味はヲシテを読んでよくよく考え、
出来る限り調べて、自分の言葉で誠実に表すように。
縄文のこころは、それでないと分かってきません。

その上で、またヲシテ原文に戻り、まっすぐ読み上げてご覧なさい。
日本独自の秘められた力と光輝を実感できますから。
そして、ヲシテに込められた民族の思いが、本当に、
伝わってくるようになりますから。

直訳文の恐さは、一応五七にまとめて書けたいう、ただそのことで、
本当の出来、不出来も分からず、そのレベルのまま安心してしまうことです。
それはまた、漢字というものへの正しい認識も評価も出来ていないし、
ヲシテのたった一字の奥の深さが、まったく分かっていないことなのです。

まっすぐにヲシテに向かったとき、その一字が、漢字の一字では表せない、
まるで違う意味を持っていることに、気がつくのですから。
例えば、ヲシテの一語を誠実に現代語にするとしたら、
場合によっては、100文字、いやそれ以上も使うことになるのです。

 

このような意味の、本当にありがたいお話でした。
で、以後直訳などは、すっぱりとやめにしました。

そうしたら、始めは難しかったけど、お言葉通りに、
素晴らしい世界に入っていけたのです!
・・・ナイショの話、そして嬉しい話・・・
池田先生にハメラレタッ!・・かもね?

ええ、お陰さまで、残りの人生をこの豊かな世界に、
すべて捧げたくなってしまいました☆
それほど、楽しく、豊かで、真実で、生き甲斐のある世界が、
次から次へと、目の前に開けてきちゃいました・・・

 

もし、
「松本先生が直訳文を書いておられたから・・・」などと、言い訳をしながら、
直訳に囚われている方がいるとしたら、私は言いたい。
「なんとお気の毒なお方」と。

それに、先生ご本人ではないのです。
あのように人生を賭けて損得を離れ、
誠実に研究に打ち込まれた方がいるかどうか?

それに、ウタ詠みの修業もなさってないとすれば、
先生のようなお心と誠意と愛にあふれる五七の文は、
土台、書けるはずがないでしょうに・・・ね?

そしてまた、

研究は、松本先生のそのお心と願いを受け継がれた池田先生によって、
もっともっと進んでいるのですよ・・・と。

松本先生がご存命でいらしたら、
現状を見てとられ、きっと直訳文を排されることに
大賛成なさると思います。

 

私は残念なことに、先生に接する機会はありませんでした。
それでも、真実を求められたお心は、
このような弟子の端くれにまで、今でも生き生きと伝わって参ります。

最後にこの御本は、
最古の写本である和仁估安聰本の発見以前に書かれました。

そのため、この最古の元本を筆写した、完本『ホツマツタヘ』長弘本を元にした
ご研究であったということ、
現在の『定本・ホツマツタヱ』とは原文においても、
かなりの字の、校異があるということを、申し添えたいと思います。

もし、松本先生のこのご本を手に取られることがあれば、
以上のことを念頭において、お読みいただけますように願っています。

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2006年5月10日 (水)

松本先生の奉呈のフミ

 

最近手に入れた、和仁估安聰釋述『ホツマツタヱ』秀眞政傳記の冒頭に、

故・松本善之助先生のお心のこもった奉呈文を発見しました。

古式にのっとり、五七で書かれたものです。

 


この最古の写本が発見されたのが平成4年。
その後、虫喰いなどで傷みがひどかった部分は、
池田先生が、細心の注意を払って、ご苦労されながら自ら補修されたそうです。

また今後のためにとすべてネガに写され、
そのまま印影版として出版されたのです。

 

その折も折り、皇太子殿下のご婚約が発表されました。
深く喜ばれた松本善之助先生は、
この貴重な、記念すべき復刻本を
皇太子殿下にお捧げしようと思われ、この奉呈のフミが記されました。

 

実は、これには秘められた話があるのです。

野々村立蔵という方も、
和仁估安聰の遺族から人手に渡り、後に日吉神社に奉納されたこの本を、
別に筆写なさったのですが(残念ながら未発見)
その原本を神社に納めるにあたって、詳しい伝来由来書を記し奉じておられます。

野々村立蔵は当時、由緒正しい水尾神社の神官であり、
村内で発見されたこの本を鑑定なさったということです。

ご自分がすでに所蔵なさっていた「ホツマツタヱ」逸本
及び「ミカサフミ」「フトマニ」の字と同じであったことに、
「即ち伏して恐懼敬畏して拝覽し、眞に心に銘ず。則ち『秀眞政傳記』なり。
 其書中に『神載山書記』の書目を見る。今にして僥倖なり。
 即ち此記を得るは実に比類なき紀なりと信ず。」 

そして、その中に
「政傳記は皇族伏見宮御文庫に収めるところと、その御家臣より承る」とありました。

なんだかすごいお話です。

おまけに、この野々村立蔵以後100年も経って、
この文書が日吉神社に奉納されていることも、すでに忘れられていたのに、
なんと又もや、和仁估安聰の子孫の井保孝夫さんによって、再発見されるとは!

今度はそれを鑑定されたのは池田満先生でありました。

現在は伏見宮御文庫はすべて、宮内庁書陵部に移されているのだそうです。
まだ、その発表されたリストの中には無いそうですが、
膨大な未整理の書物があるらしく、将来にはそれがはっきりするかも知れません。

 


さて、
今回の復刻本を、松本先生が宮内庁に実際に上献されたのかどうかは、
池田先生もご存知無いそうですし、残念にもそのチャンスが無かったのかも知れません。

それでも、最古の写本の発見と皇太子さまのご婚約が重なったという不思議さに
松本先生が、どんなに喜ばれたことか。

この、亡き松本先生のまごころのこもった、
キミに捧げるフミは、
まっすぐ、私の心に届き、深い想いをかきたてるものでした。

先生の想い出と共に
皆さまにも読んで頂きたく、
研究所にお願いをして、掲載させて頂けることとなりました。

 

  Matumoto_bun

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